第30話 まだ動くな
ゲートが開いた。
金属が弾ける音と同時に、十二頭の牝馬が大井のダートへ飛び出す。
『東京湾牝馬賞、スタートしました!』
実況の声が、場内のざわめきを切り裂いた。
まず速いのは、一枠一番カナリアステップ。
内枠を利して、迷わず先手を取りにいく。
その外から二頭が押してきた。
先行したい馬。
逃げ馬を見る形で運びたい馬。
重賞の一八〇〇メートルだというのに、最初の一角までの空気がやけに速い。
「……行きましたね」
黒川さんが低くつぶやく。
俺はうなずく余裕もなく、コース上を見つめていた。
カナリアステップは逃げる。
これは予想通りだ。
問題は、どれだけ楽に逃げられるか。
単騎で行ければしぶとい。
けれど、絡まれて息を入れられなければ、最後に脚が鈍る。
今日のハルサメノツキが差し込むためには、前が楽をしすぎないことが必要だった。
『先手を取ったのはカナリアステップ! 内からハナを主張します! 外からセイランベル、さらにその外にアカネスコールが並びかける!』
架空でも何でもない。
今、目の前で馬たちが走っている。
紙の上の展開予想では、いくらでも都合よく考えられた。
カナリアステップが行く。
ミヤコノルミナスが好位。
フロストリボンが中団。
ハルサメノツキは外目で脚を溜める。
そんな簡単な線で、レースは終わらない。
スタート直後、ハルサメノツキは五分に出た。
悪くない。
出遅れてはいない。
けれど、速くもない。
浅倉はそこで押さなかった。
無理に前へ出していかず、馬のリズムを優先する。
七枠十番から外へふわりと出しながら、内の馬群を見せすぎない位置へ誘導する。
それを見た瞬間、俺は胸の奥で息を止めた。
正解だ。
少なくとも、この馬にとっては。
「浅倉、慌ててませんね」
俺が言うと、黒川さんは視線をコースに固定したまま答えた。
「ええ。出していっても、あの馬は楽になりません。今の位置でいいです」
今の位置。
中団より少し後ろ。
前から七、八番手あたり。
外目。
砂を被らない。
ただし、外を回されるぶん、距離ロスはある。
競馬を知らない人なら、もったいないと思うかもしれない。
もっと内に入れろ、と言うかもしれない。
でも、ハルサメノツキにそれは違う。
この馬は、内で我慢して最後だけ弾けるタイプじゃない。
気分を損ねず、湿った砂の上を、自分のリズムで走り続ける。
その代償として外を回る。
そういう馬だ。
『一番カナリアステップが先頭! 半馬身差でセイランベル、三番手にアカネスコール! その直後、人気のミヤコノルミナスは四番手の内目、絶好の位置につけています!』
ミヤコノルミナス。
やっぱり上手い。
馬も、乗り役も、まるで教科書のような競馬をしている。
前が見える。
砂も強く被らない。
逃げ馬が潰れれば自分が抜け出せる。
逃げ馬が残る流れなら、早めに捕まえに行ける。
どちらにも対応できる位置。
「嫌なところにいますね」
「一番人気の競馬です」
黒川さんの声は冷静だった。
けれど、その言葉の中にはわずかな緊張があった。
一番人気が、一番人気らしい競馬をしている。
それは、穴馬にとって一番嫌なことだ。
荒れる時は、人気馬がどこかでリズムを崩す。
出遅れる。
包まれる。
行きたがる。
外を回される。
そういう小さなズレが、穴馬の出番を作る。
だが、ミヤコノルミナスは崩れていない。
むしろ、最初のコーナーを回る時点で、すでに勝ち馬候補の形を作っていた。
『フロストリボンは中団のやや後ろ、外目を追走。そのさらに外にハルサメノツキ、五番人気、前走ロードグランシャリオ相手に半馬身差の二着でした』
実況がその名前を呼んだ瞬間、スタンドの一部が少しだけざわついた。
前走を見ていた人たちだろう。
あの馬、どこまでやれる。
本当に重賞で通用するのか。
そんな空気が、声にならないままコースへ向けられている。
俺は手すりを握りしめた。
手のひらが湿っている。
馬場の湿り気のせいじゃない。
「三上さん」
黒川さんが横から言った。
「はい」
「まだです」
俺は一瞬、自分が声に出して何か言ったのかと思った。
でも、違う。
たぶん顔に出ていたのだ。
動いてほしい。
前に近づいてほしい。
ミヤコノルミナスとの差を詰めてほしい。
そんな焦りが。
「……わかってます」
俺は小さく答えた。
わかっている。
ここで動いたら駄目だ。
ハルサメノツキの脚は、一瞬の切れ味ではない。
長く使える。
でも、早く使いすぎれば、当然最後に鈍る。
大井一八〇〇メートル。
正面スタンド前から始まり、一コーナーへ入り、向こう正面を通って、三、四コーナーから直線へ。
最後の直線は長い。
そこで脚を使うためには、前半で我慢しなければならない。
浅倉は、それを理解している。
だから、まだ動かない。
『一コーナーを回って二コーナーへ! 先頭はカナリアステップ、しかし外からセイランベルがぴたりと並ぶ! ペースは落ち着きません!』
よし。
心の中で、思わず声が出た。
カナリアステップが楽をできていない。
逃げ馬にとって、ぴたりと横に馬がいる状況は楽ではない。
しかも稍重のダート。
脚抜きはいいが、力を使わずに走れるわけじゃない。
気分よく行ければ強い馬でも、前半で余計な力を使えば、最後に苦しくなる。
ただし。
それは前が崩れる可能性がある、というだけだ。
こちらが届く保証ではない。
『三番手アカネスコール、その内にミヤコノルミナス! ミヤコノルミナスは非常に落ち着いた追走です! その後ろにユメミノアカリ、外からフロストリボン!』
ミヤコノルミナスの手応えがいい。
画面越しでもわかる。
鞍上が無理をしていない。
馬が自分から進んでいる。
嫌な完成度だ。
強い馬が、自分の競馬をしている。
俺は歯を食いしばった。
ハルサメノツキはどこだ。
視線を少し外へ移す。
いた。
外の後方。
浅倉が、ほんの少しだけ手綱を持っている。
抑え込んでいるわけじゃない。
馬の首の動きに合わせて、リズムを整えている。
ハルサメノツキは、砂を被っていない。
外を回っている。
表情なんて見える距離じゃないのに、今の走りが悪くないことだけはわかった。
いや、わかってしまう。
俺には、その輪郭が見える。
どこで苦しくなるのか。
どこなら伸びるのか。
どの形なら、この馬が自分を諦めずに走れるのか。
でも、それを口に出すことはできない。
だから、俺はただ手すりを握った。
「浅倉、まだ待て……」
喉の奥で、声が漏れた。
隣で黒川さんが小さく笑う。
「本人も、たぶん同じことを考えています」
向こう正面に入る。
馬群が少し縦に伸びた。
先頭のカナリアステップ。
外からセイランベル。
その直後にアカネスコール。
ミヤコノルミナスは、四番手の内でじっとしている。
フロストリボンは外目から徐々に進出の構え。
ここでフロストリボンの騎手が動いた。
まだ三コーナーまでは距離がある。
だが、あの馬の武器は切れる脚だ。
内で詰まるより、早めに外へ出して、いつでも動ける形を作りたいのだろう。
『フロストリボン、外から少しずつポジションを上げていきます! それを見る形でハルサメノツキも外! 浅倉蓮、ここはまだ手綱を持っています!』
場内の空気が変わった。
フロストリボンが動いたことで、後ろの馬たちがざわつく。
置いていかれたくない。
前との差を詰めたい。
勝負どころが近づいている。
その焦りが、馬群全体を押し上げていく。
ここで釣られると、苦しい。
フロストリボンの脚に付き合えば、ハルサメノツキは外々を早めに動くことになる。
それは、この馬にとって悪くはない。
悪くはないが、早すぎる。
「行くな……」
今度は、はっきり声が出た。
黒川さんも何も言わなかった。
浅倉は動かない。
フロストリボンが半馬身前に出ても、まだ追わない。
ハルサメノツキの首が少し上がる。
前に馬が行く。
自分も行きたい。
そんな気配がある。
浅倉は、そこで強引に抑え込まなかった。
手綱を固めず、ほんの少しだけ譲る。
だが、行かせきらない。
馬に喧嘩を売らず、前へ行く気持ちだけを残す。
うまい。
あれは、待てる騎手の乗り方だ。
『フロストリボンが外から進出! ミヤコノルミナスはまだ内で我慢! カナリアステップ先頭、セイランベルが半馬身差! さあ三コーナーが近づいてまいります!』
ミヤコノルミナスが、内でじっとしている。
前が苦しくなるのを待っている。
フロストリボンが外から脚を使い始める。
カナリアステップは絡まれながらも、まだ先頭を譲らない。
そしてハルサメノツキは。
外。
前から七番手。
浅倉はまだ追わない。
だが、馬の走りが変わり始めていた。
さっきまでより、沈む。
湿ったダートを掴む。
小さな馬体が、少しずつ前へ向かって伸びていく。
俺の心臓が、一拍遅れて跳ねた。
来る。
この馬が、本当に走れる形に入る時の感覚。
前走で見た。
初勝利の時にも見た。
脚を一瞬で爆発させるのではなく、じわじわと熱が入るように、長く伸びていくあの感じ。
浅倉も気づいたのだろう。
ハルサメノツキの背で、ほんの少しだけ姿勢を低くした。
「……まだ」
黒川さんの声がした。
祈りのような、命令のような声だった。
三コーナー手前。
フロストリボンが外からミヤコノルミナスに並びかけようとする。
ミヤコノルミナスの騎手が、そこで初めて手綱を動かした。
一番人気が、動く。
勝ちに行くために。
前のカナリアステップを捕まえるために。
その瞬間、レース全体が一段階速くなった。
『ミヤコノルミナス、ここで進出開始! フロストリボンも外から迫る! カナリアステップ、まだ先頭! さあ人気馬たちが動き出した!』
歓声が膨らむ。
スタンドが揺れる。
俺の視線は、ただ一頭に釘付けだった。
七枠十番。
ハルサメノツキ。
浅倉の手が、まだ動かない。
まだ。
まだだ。
ここで行けば、届くかもしれない。
でも、最後に止まるかもしれない。
ここで待てば、前との差は広がるかもしれない。
でも、この馬の一番いい脚が残るかもしれない。
正解は誰にもわからない。
いや。
もしかしたら、俺には少しだけ見えているのかもしれない。
けれど、乗っているのは俺じゃない。
決めるのは浅倉だ。
馬の背で、風を受けて、砂を浴びて、手綱越しにハルサメノツキの鼓動を感じている騎手だけが、最後の一瞬を選べる。
浅倉蓮は、三コーナーの入口でようやく右手を動かした。
鞭ではない。
合図だ。
まだ本気で追うのではなく、ハルサメノツキに問いかけるような、静かな促し。
行けるか。
ここから、行けるか。
ハルサメノツキの耳が、わずかに前を向いたように見えた。
小柄な牝馬が、外から一歩、前へ出る。
ミヤコノルミナスが抜け出しにかかる。
フロストリボンが並びかける。
カナリアステップが粘る。
そして、そのさらに外。
七枠十番が、ようやく加速を始めた。




