第29話 東京湾牝馬賞、七枠十番
枠順が出た瞬間、黒川桐子調教師は小さく息を吐いた。
「七枠十番」
その声は、喜びすぎてもいなければ、落ち込みすぎてもいなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
悪くない。
いや、ハルサメノツキにとっては、かなりいい。
大井一八〇〇メートル。
牝馬限定の重賞、東京湾牝馬賞。
馬場は前日からの雨で稍重発表。天気予報では、このあと急激に乾くこともない。
内で砂を被る形ではなく、外からゆっくり進められる枠。
距離も、馬場も、枠も、騎手も。
勝つための条件が、ひとつずつ揃っていく。
それでも、俺はすぐに笑えなかった。
「……怖いですね」
黒川さんが、こちらを見た。
「勝てそうだから?」
「はい」
自分で言って、少し変な返事だと思った。
普通なら、勝てそうなら嬉しい。
けど競馬は、そこから先が怖い。
条件が揃えば揃うほど、負けた時に言い訳が減る。
そしてなにより、今回は重賞だ。
未勝利でも、平場でもない。
ハルサメノツキが、本当にこの舞台に立っていい馬なのか。
その答えを、世間に見せる日が来てしまった。
黒川さんは出馬表を見下ろしながら、淡々と言った。
「怖いと思えるなら、まだ大丈夫です。勝てると思い込んだ人間から、順番に足元をすくわれますから」
「名言っぽいですね」
「経験則です」
それはそれで重い。
出馬表には、聞き慣れた名前が並んでいた。
一枠一番、カナリアステップ。
二枠二番、ユメミノアカリ。
四枠五番、ミヤコノルミナス。
六枠八番、フロストリボン。
そして七枠十番、ハルサメノツキ。
上位人気になりそうな馬は、だいたい想定通りだった。
カナリアステップは内枠を引いた。
逃げるには絶好。
ただし、同型が絡んできた時に、どこまで我慢できるか。
ミヤコノルミナスは四枠五番。
好位で競馬ができる完成度の高さがある。枠も良い。たぶん一番人気だ。
フロストリボンは六枠八番。
切れる脚がある馬で、外すぎず内すぎず。これも怖い。
そしてハルサメノツキは七枠十番。
外すぎて距離ロスはある。
だが、この馬にとって一番嫌なのは距離ロスじゃない。
砂を被って、内で揉まれて、走る気をなくすことだ。
少しくらい外を回っても、気分よく運べる方がいい。
「馬体は?」
俺が聞くと、黒川さんは迷わず答えた。
「前走から大きく減ってはいません。追い切り後も飼い葉は食べています。ただ、万全と言えるほど余裕があるわけでもないです」
「ですよね」
「三歳牝馬です。前走であれだけ走って、間隔も詰まり気味。むしろよく戻している方です」
その言い方には、黒川さんなりの評価が滲んでいた。
無理をさせている。
それは間違いない。
けれど、無茶ではない。
この境目を見極めるのが、調教師の仕事なのだろう。
俺は出馬表から目を離し、厩舎の奥にいるハルサメノツキを見た。
小柄な牝馬は、いつも通り静かに立っている。
大物感があるわけじゃない。
筋肉が盛り上がっているわけでもない。
むしろ、重賞の出馬表に名前が載っていること自体が、少し場違いに見える。
けれど。
この馬には、勝てる場所がある。
それを俺は知っている。
もちろん、誰にも言えない。
だから俺は、いつもの言葉に置き換えた。
「映像を見返しても、やっぱり一八〇〇の外目が一番いいと思います」
黒川さんは、少しだけ口元を緩めた。
「三上さんの“映像を見返した感想”は、最近なかなか当たりますからね」
「偶然です」
「偶然で二頭とも勝たせられたら、馬主はみんな苦労しません」
誤魔化せているのか、怪しまれているのか。
その境界も、最近だいぶ曖昧になってきた。
ただ、黒川さんはそれ以上踏み込んでこない。
その距離感がありがたかった。
翌日。
大井競馬場の空は、低い雲に覆われていた。
雨は止んでいる。
けれど、スタンドの足元にはまだ湿り気が残り、ダートコースは乾ききっていない。
発表は稍重。
ハルサメノツキにとっては、悪くない。
むしろ、ほしい条件が残ってくれた。
重賞の日らしく、場内の空気はいつもより熱い。
パドック前には人が多く、新聞を折り畳んだ客たちが、馬柱と実馬を見比べている。
「ミヤコノルミナス、やっぱ馬体いいな」
「完成度なら抜けてるだろ。崩れないタイプだよ」
「フロストリボンは細く見えるけど、あれで走るんだよな」
「カナリアステップ一番枠か。これは行くぞ」
そして、少し遅れて。
「ハルサメノツキって、あの二十万の馬だろ?」
「前走、ロードグランシャリオに半馬身のやつ?」
「あれは強かった。負けて強しってやつ」
「でも重賞で買うかって言われるとなあ」
「馬場と枠は合ってるぞ。浅倉も続投だし」
名前が聞こえるたび、胃のあたりが妙にざわついた。
褒められるのに慣れていない。
というより、ハルサメノツキが人の口にのぼる状況そのものに、まだ慣れていない。
少し前まで、誰も見向きもしなかった馬だ。
二十万円の安馬。
小柄で、条件が合わなければ簡単に負ける牝馬。
それが今、重賞のパドックで、馬券の検討対象になっている。
「三上さん」
声をかけられて振り向くと、浅倉蓮騎手が立っていた。
勝負服姿の彼は、いつもより少しだけ顔つきが締まって見える。
「今日はよろしくお願いします」
「こちらこそ。……状態、どう見ます?」
浅倉はパドックへ視線を向けた。
ちょうどハルサメノツキが、厩務員に引かれて周回に入ってくる。
小さい。
やっぱり小さい。
隣を歩く馬たちと比べると、馬体の迫力ではどうしても見劣りする。
ミヤコノルミナスは肩回りに厚みがあり、歩様も滑らかだ。
フロストリボンはすっきり見せつつ、後肢の運びに鋭さがある。
カナリアステップは気合いが前に出ていて、今にも走り出しそうな雰囲気だった。
その中でハルサメノツキは、派手さがない。
ただ、耳を変に伏せてはいない。
歩きのリズムも崩れていない。
前走の反動で硬くなることを心配していたが、少なくとも見た目には、踏み込みも悪くなかった。
「……大丈夫です」
浅倉は短く言った。
「テンションも上がりすぎていません。前走より、むしろ落ち着いているかもしれません」
「落ち着きすぎてませんか?」
「この馬の場合、入れ込みすぎるよりずっといいです。あとは、最初のコーナーまでにどれだけ気分よく外へ出せるかですね」
浅倉の言葉に、黒川さんがうなずく。
「内に潜る必要はありません。勝ちに行くなら、早めに動きすぎないこと。負けにくく乗るより、この馬が走れる形を優先してください」
「はい」
浅倉は真面目に返事をした。
その横顔を見て、俺は改めて思う。
この騎手でよかった。
ハルサメノツキには、派手に動かす騎手より、待てる騎手が合う。
まだだ。
まだ行かない。
その我慢ができる騎手。
浅倉蓮は、たぶんそれができる。
場内モニターにオッズが映った。
一番人気、ミヤコノルミナス。三・一倍。
二番人気、フロストリボン。四・八倍。
三番人気、カナリアステップ。六・二倍。
四番人気、別路線から来た先行馬が八倍台。
そして。
五番人気、ハルサメノツキ。十四・七倍。
……ちょうどいい。
人気しすぎていない。
かといって、完全な穴馬でもない。
前走の評価はされている。
だが、重賞で本当に通用するかは疑われている。
その半信半疑の数字が、単勝十四・七倍だった。
「けっこう売れてますね」
俺が言うと、黒川さんは冷静に返した。
「前走を見た人は買います。ただ、馬体を見て切る人もいます」
「小さいですからね」
「ええ。重賞のパドックでは、どうしても見栄えしません」
それは事実だ。
ミヤコノルミナスのような完成度はない。
フロストリボンのような切れ味を感じさせる迫力もない。
カナリアステップのような前向きさもない。
でも、ハルサメノツキにはハルサメノツキの走りがある。
外から、長く、じわじわと脚を使う。
派手な一瞬ではなく、止まらない脚。
大井一八〇〇の最後に、それが届くかどうか。
今日の勝負は、そこだった。
「三上さん」
黒川さんが、ふいに低い声で言った。
「はい」
「今日勝てば、景色が変わります」
その言葉に、俺は黙った。
景色が変わる。
それは、馬主としての評価だけじゃない。
ハルサメノツキの扱われ方が変わる。
二十万円の安馬ではなく、重賞馬になる。
誰にも見つけられなかった馬が、自分の力で名前を残す。
けれど、同時に思う。
勝たなくても、この馬の価値は消えない。
それは綺麗事じゃない。
負けても次がある、という意味でもない。
ただ、俺はもう知っている。
この馬は駄馬なんかじゃない。
勝てる場所を、まだ誰も教えてやっていなかっただけだ。
「変えましょう」
俺は言った。
黒川さんが、少し驚いたようにこちらを見る。
自分でも、思ったよりはっきりした声が出たと思った。
「今日、変えましょう。ハルサメノツキの景色を」
黒川さんは一瞬だけ黙り、それから小さく笑った。
「馬主らしいことを言うようになりましたね」
「最近、周りが濃すぎて鍛えられました」
「それは否定しません」
パドックの周回が終わり、騎手が騎乗する時間になった。
浅倉がハルサメノツキの背に跨がる。
馬は大きく反応しない。
ただ一度だけ耳を動かし、ゆっくりと首を下げた。
大丈夫だ。
今日のこの馬は、走れる。
返し馬に出ていくハルサメノツキの背中を、俺は目で追った。
浅倉は無理に抑え込まない。
行きたがらせず、かといって萎縮させず、馬のリズムを確かめるように軽く促している。
湿ったダートを、ハルサメノツキの脚が叩いた。
派手な動きではない。
けれど、沈みすぎない。
脚抜きのいい馬場を、すっと捉えている。
その瞬間、胸の奥で何かが噛み合った。
条件は揃った。
あとは、競馬だけだ。
ファンファーレが鳴る。
スタンドのざわめきが一段大きくなる。
ミヤコノルミナスがゲートへ向かう。
フロストリボンがゆっくりと後に続く。
カナリアステップは気合いを前面に出しながら、一番枠へ収まっていく。
そして、七枠十番。
ハルサメノツキが、ゲート前に立った。
浅倉が軽く手綱を整える。
係員に促され、小柄な牝馬が一歩、また一歩とゲートへ進む。
俺は息を止めた。
金属音。
蹄の音。
観客席のざわめき。
すべてが、やけに遠く聞こえる。
七枠十番、ハルサメノツキ。
ゲートイン完了。
発走委員の手旗が、上がった。




