第21話 強い馬のいる場所
ハルサメノツキを出すかどうか。
それを決めるまでに、黒川先生は一週間、ほとんど答えを出さなかった。
「今日も軽めです」
「まだですか?」
「まだです」
「馬体は戻ってきてませんか?」
「戻ってきています。でも、戻ってきている最中です」
そう言われるたび、俺は黙るしかなかった。
前走は四着。
二番人気で負けた。
その悔しさは残っている。
けれど、あの負けで分かったこともある。
内で砂を被る競馬は、やはり苦しい。
一六〇〇は少し忙しい。
乾いた良馬場で前が止まらない展開だと、最後に脚を使っても届かない。
逆に言えば。
大井一八〇〇。
外めの枠。
前が流れる展開。
できれば少し湿った馬場。
その条件なら、ハルサメノツキはもう一度走れる。
問題は、そこに強い馬がいることだった。
ロードグランシャリオ。
鳳条怜央の所有馬。
良血。
好馬体。
前走は余裕残しで勝利。
次走は大井一八〇〇予定。
現地の馬券客も、厩舎関係者も、その名前を口にする。
「ロードグランシャリオ、次も勝つだろ」
「あれは馬が違う」
「一組なら抜けてるんじゃないか」
「鳳条さんの馬だしな。仕上げも良さそう」
強い馬。
その言葉が、何度も頭に残った。
ハルサメノツキは、まだ強い馬じゃない。
条件が合えば走る馬だ。
では、その条件に、もっと強い馬がいたらどうなるのか。
答えは簡単じゃない。
「三上さん」
ある朝、黒川先生が馬場を見ながら言った。
ハルサメノツキは軽めのキャンターを終え、息を整えている。
首の位置は悪くない。
前走の疲れは抜けてきている。
馬体も、少しずつ戻ってきた。
「はい」
「次開催の大井一八〇〇、登録します」
胸の奥が鳴った。
「出せますか」
「出せる状態には戻ってきました。ただし、最終判断は追い切り後です」
「分かりました」
「分かっている顔ではありませんね」
「……出したい顔をしてました」
「しています」
黒川先生は少しだけ呆れたように言った。
「でも、今回は出したい気持ちだけではありません。条件は合います。前走より距離が延びる。内で包まれなければ、この仔の走りはしやすい」
「はい」
「ただし、相手は強いです」
「ロードグランシャリオ」
「ええ」
黒川先生は、少しだけ声を低くした。
「前走の映像、見ましたか?」
「見ました」
ロードグランシャリオの前走。
大井一六〇〇メートル。
スタートは普通。
好位の外につけ、三コーナーから楽に進出。
直線で追い出されると、派手な脚ではないが、余力を残して抜け出した。
強い。
そう思った。
弱点を探そうとしても、大きく崩れるところがない。
砂を被っても嫌がらない。
前につけられる。
折り合いもつく。
直線で脚も使える。
馬体にも余裕がある。
ハルサメノツキのように、条件を細かく選ばない。
あれが、鳳条怜央の言う地力なのだろう。
「どう見ました?」
黒川先生が聞いた。
「強いです」
「具体的には?」
「走りに無理がないです。前に行けるのに、力んでいない。砂も平気。外から動いても脚が残る。まだ全部出してないように見えました」
「同じです」
黒川先生は淡々と頷いた。
「今のハルサメノツキが、真正面から戦って楽に勝てる相手ではありません」
「はい」
「それでも出しますか?」
俺はすぐに答えられなかった。
出したい。
この条件なら、ハルは走れる。
前走の負けを活かせる。
強い馬にどこまで通じるのか見たい。
でも、それは人間の都合だ。
ハルサメノツキに無理をさせる理由にはならない。
「ハルの状態が最優先です」
俺は言った。
「追い切りで先生が無理だと思ったら、出しません」
「鳳条さんの馬が出ても?」
「出しません」
「掲示板で逃げたと言われても?」
「……それは少し嫌ですけど、出しません」
黒川先生は、ほんの少しだけ笑った。
「少しは成長しましたね」
「少しですか」
「少しです」
それでも、十分だった。
数日後。
追い切りの日。
浅倉騎手が跨ったハルサメノツキは、前走前よりも落ち着いていた。
単走。
無理に時計は出さない。
外を回し、最後だけ軽く伸ばす。
直線で、浅倉騎手が軽く促す。
ハルサメノツキの首が下がる。
派手な加速ではない。
けれど、じわっと脚を使う。
止まらない。
最後まで、同じリズムで駆け抜けた。
戻ってきた浅倉騎手は、馬上で少し笑った。
「前走より、いいです」
黒川先生が聞く。
「どこが?」
「砂を嫌がった疲れが残っていません。あと、前より気持ちが切れにくくなってる気がします。外でリズムを作れば、ちゃんと走れます」
「距離は?」
「一八〇〇の方がいいです。やっぱり一六〇〇だと忙しい」
俺は息を吐いた。
黒川先生がこちらを見る。
「出しましょう」
その一言で、胸の中の迷いが熱に変わった。
ハルサメノツキは、ロードグランシャリオと同じレースに出る。
大井一八〇〇メートル。
初めて、強い馬に挑む。
出走想定が出ると、周囲の反応は早かった。
「ロードグランシャリオ出るのか」
「ハルサメノツキもいるぞ」
「二十万の安馬と鳳条の良血馬か」
「いや、さすがにロードだろ」
「ハルサメは外枠と雨ならワンチャン」
「でも相手が違うって」
現地の声が、自然と耳に入る。
評価は割れている。
けれど、軸ははっきりしていた。
ロードグランシャリオが強い。
ハルサメノツキは面白い。
その差は、思っていた以上に大きい。
レース二日前。
厩舎に鳳条怜央が現れた。
相変わらず、泥の似合わない男だった。
「登録、見ました」
鳳条は言った。
「ハルサメノツキ、出るんですね」
「状態が戻りましたので」
黒川先生が答える。
鳳条は俺を見る。
「逃げなかった」
「状態が悪ければ出しませんでした」
「ええ。それでいいと思います」
意外にも、鳳条は素直に頷いた。
「馬を無理に使わない。その判断ができるなら、あなたはただの穴狙いの馬主ではない」
「褒めてますか?」
「半分は」
黒川先生と同じようなことを言われて、少し困った。
「残り半分は?」
「確かめたい、です」
鳳条は静かに言った。
「あなたの“勝てる場所を探す”という考えが、強い馬相手にどこまで通じるのか」
俺は鳳条の目を見た。
「ロードグランシャリオは、自信がありますか」
「あります」
迷いのない答え。
「ハルサメノツキの理想に近い条件でも?」
「ええ」
鳳条は少しだけ笑った。
「強い馬は、相手の得意条件でも勝てる。少なくとも、私はそういう馬を持ちたいと思っています」
強い言葉だった。
でも、不思議と嫌味には聞こえなかった。
鳳条怜央は、本気でそう信じているのだ。
俺はハルサメノツキの馬房を見た。
小柄な鹿毛の牝馬は、こちらに興味なさそうに飼葉を食べている。
強い馬ではない。
それは分かっている。
でも、この馬は勝てる場所を見つけた。
そして今、その場所に強い馬が来る。
「俺は」
言葉を探しながら、俺は言った。
「強い馬を否定したいわけじゃありません」
鳳条が黙って聞いている。
「ロードグランシャリオが強いのも分かります。でも、ハルにはハルの走れる形がある。その形でどこまで届くのか、見たいんです」
「勝てると思いますか?」
簡単には答えられなかった。
見えているものはある。
大井一八〇〇。
外から脚を使うハルサメノツキ。
前にいるロードグランシャリオ。
でも、勝ち切る映像までは見えない。
届くかもしれない。
届かないかもしれない。
それくらい、相手は強い。
「勝ちに行きます」
俺は答えた。
「勝てると言い切れないんですね」
「競馬なので」
鳳条は、一瞬だけ目を丸くした。
そして笑った。
「いい答えです」
その笑みは、初めて少しだけ人間らしく見えた。
「では、競馬場で」
「はい」
鳳条が帰ったあと、黒川先生が言った。
「緊張していますね」
「してます」
「怖いですか?」
「怖いです」
「なら大丈夫です」
「最近そればっかりですね」
「怖さを忘れた馬主は、だいたい馬を見なくなります」
その言葉に、俺は黙った。
馬を見る。
オッズでも、評判でも、相手の名前でもなく。
自分の馬を見る。
レース前日。
枠順が発表された。
ロードグランシャリオは四枠五番。
好位を取りやすい、いい枠。
ハルサメノツキは七枠十番。
外め。
悪くない。
いや、かなりいい。
そして天気予報は、夜から小雨。
馬場はおそらく稍重寄り。
条件が、近づいている。
俺はスマホの画面を見つめながら、静かに息を吐いた。
大井一八〇〇。
外めの枠。
少し湿ったダート。
ハルサメノツキの勝てる場所。
ただし、そこには強い馬がいる。
ロードグランシャリオ。
面白い馬と、強い馬は違う。
鳳条の言葉が、頭に残っている。
なら、見せるしかない。
面白い馬が、強い馬に届く瞬間を。
俺はハルサメノツキの名前を指でなぞった。
「行こう、ハル」
誰にも聞こえない声で言う。
「お前の場所に、強い馬が来たぞ」




