第22話 良血馬の背中
レース当日の大井は、小雨だった。
強くはない。
けれど、朝から細く降り続いている。
ダートは黒く湿り、照明を受けて鈍く光っていた。
馬場発表は、稍重。
悪くない。
いや、ハルサメノツキにとってはかなりいい。
大井一八〇〇メートル。
七枠十番。
外めの枠。
少し湿ったダート。
前走の一六〇〇、内枠、良馬場とはまるで違う。
俺はスマホでオッズを確認した。
大井第九競走。
三歳一組。
ダート一八〇〇メートル。
一番人気は、五番ロードグランシャリオ。
単勝一・八倍。
圧倒的、とまでは言わない。
けれど、はっきりと抜けた一番人気だった。
二番人気は、前走二着のセイランオーガ。単勝四・九倍。
三番人気は、逃げ馬のワイルドアーク。単勝七・二倍。
そして。
十番、ハルサメノツキ。
単勝九・八倍。
四番人気。
前走は二番人気で四着。
それでも、今回はまた売れている。
たぶん、条件を見て買った人間がいるのだろう。
外枠。
一八〇〇。
稍重。
ハルサメノツキの買い条件を、もう知っている客がいる。
スタンドの馬券売り場近くで、そんな声が聞こえた。
「十番、条件はいいよな」
「ハルサメノツキだろ? 外枠なら買える」
「でも相手がロードグランシャリオだぞ」
「鳳条の良血馬か。あれは強いわ」
「ハルサメは面白いけど、勝ち切るならロードじゃね?」
「単勝一・八倍は安いなあ」
「十番の複勝で遊ぶか」
面白い馬。
強い馬。
その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。
ハルサメノツキは、面白い馬として見られている。
条件が合えば走る馬として、少しずつ知られ始めている。
でも、ロードグランシャリオは違う。
強い馬として見られている。
馬体がいい。
血統がいい。
前走内容がいい。
そして、勝つだろうと思われている。
その差は、オッズにも出ていた。
「三上さん」
黒川先生が隣に来た。
「はい」
「顔が硬いです」
「そうですか」
「ええ。かなり」
隠せていなかったらしい。
「相手が強いので」
「それは事実です」
「先生から見ても、ロードグランシャリオは強いですか」
「強いです」
即答だった。
「前走も余裕がありました。馬体の完成度も高い。今日の馬場も苦にしないでしょう。内すぎない五番枠もいい」
「弱点は?」
「大きなものは見えません」
重い言葉だった。
弱点が見えない。
それは、ハルサメノツキとは真逆だ。
ハルには分かりやすい弱点がある。
砂を被ると嫌がる。
距離が短いと忙しい。
乾いた良馬場で前が止まらないと届かない。
内枠で包まれると力を出し切れない。
だから、条件を選ぶ。
ロードグランシャリオは違う。
多少の不利を、地力で押し返せる馬。
「それでも、ハルの状態は悪くありません」
黒川先生が言った。
「馬体は戻りました。追い切りも良かった。今日はこの仔の走れる条件に近い」
「はい」
「ただし、勝ち切るには展開が必要です」
「前が流れること」
「ええ。ワイルドアークが逃げて、セイランオーガが早めに動くような流れになれば、外から脚を使いやすい。逆にロードグランシャリオが楽に好位を取って、直線で先に抜け出す形になると厳しいです」
分かっている。
ハルサメノツキは、瞬間的に切れる馬ではない。
長く脚を使う馬だ。
前が止まらない展開で、直線だけの勝負になれば分が悪い。
ロードグランシャリオのような強い馬に、先に抜け出されると届かないかもしれない。
「勝つためには、ロードより先に動く必要がありますか」
「難しいところです」
黒川先生は馬場を見た。
「早く動きすぎれば、最後に甘くなる。遅ければ届かない。浅倉くんの判断になります」
騎手に任せる。
馬主にできることは、もうほとんどない。
パドックに馬たちが出てきた。
ロードグランシャリオは、すぐに分かった。
栗毛の牡馬。
大きな馬体。
無駄な力みがない歩き。
首をゆったり使い、四肢を大きく見せる。
派手に暴れるわけでも、気合いを見せすぎるわけでもない。
ただ、歩いているだけで目を引く。
周囲の客がざわつく。
「五番、やっぱ馬いいな」
「これ一組にいる馬じゃないだろ」
「鳳条さんの馬だしな」
「トモが違うわ」
強い馬は、歩いているだけで強そうに見える。
俺はそれを認めざるを得なかった。
その数頭後ろを、ハルサメノツキが歩いてきた。
小柄な鹿毛。
雨に濡れて、毛色が少し濃く見える。
ロードグランシャリオと比べれば、馬体の迫力はない。
完成度も違う。
胸前も、トモの張りも、ひと目で勝っているとは言えない。
けれど、今日のハルは悪くない。
首の位置が低い。
耳は忙しく動いているが、怯えてはいない。
歩きに前走のような硬さも少ない。
黒川先生が小さく頷いた。
「いいですね」
「はい」
「ただ、ロードグランシャリオもいい」
「……はい」
隠せない差がある。
でも、勝負にならないとは思わなかった。
ハルサメノツキには、ハルサメノツキの形がある。
馬体で勝てなくても、血統で勝てなくても、値段で勝てなくても。
この条件で、この馬の走りができれば。
「三上さん」
声をかけられた。
振り向くと、鳳条怜央が立っていた。
今日もスーツ姿。
ただし、足元は雨用の靴に変わっている。
ほんの少しだけ、厩舎の空気に慣れたようにも見えた。
「いい馬場になりましたね」
「ハルには悪くないです」
「ええ。ハルサメノツキには合うでしょう」
鳳条はパドックの自分の馬を見た。
「ですが、うちのロードグランシャリオにも悪くありません」
その言葉に、俺は頷くしかなかった。
「そう見えます」
「ハルサメノツキは、いい気配ですね」
「ありがとうございます」
「前走より、今日の方が走れるでしょう」
鳳条は、普通に見抜いている。
この人も馬を見ている。
ただ良血馬を買っているだけの馬主ではない。
「ロードグランシャリオも、前走より良く見えます」
俺が言うと、鳳条は少しだけ笑った。
「ありがとうございます。今日は勝ちに来ました」
「俺もです」
「でしょうね」
鳳条は視線をパドックへ戻した。
「面白い馬が、どこまで強い馬に迫れるか。楽しみにしています」
少し前なら、その言葉に腹が立ったかもしれない。
でも今は違った。
鳳条は本気でそう思っている。
そして、俺も本気で確かめたい。
ハルサメノツキは、強い馬にどこまで迫れるのか。
騎乗合図がかかった。
ロードグランシャリオには、南関でも上位の騎手、城崎大吾が跨る。
落ち着いた所作だった。
馬もまったく動じない。
一方、ハルサメノツキには浅倉蓮。
派手さはない。
でも、ハルの呼吸を知っている騎手だ。
浅倉騎手は、馬上から俺に軽く頭を下げた。
「今日は、早めに動くかもしれません」
「はい」
「ロードを待ちすぎると届かない。けど、早すぎてもハルが苦しくなる」
「任せます」
俺がそう言うと、浅倉騎手は少しだけ目を見開いた。
「いいんですか?」
「ハルを一番分かってるのは、今日乗っている浅倉騎手ですから」
浅倉騎手は、少しだけ笑った。
「分かりました。ハルの脚を信じます」
返し馬。
ロードグランシャリオは、ゆったりとしたフォームで駆けていく。
無駄がない。
力を使っていないのに、進む。
強い。
その言葉が自然に浮かぶ。
ハルサメノツキは、外ラチ沿いを少しずつリズムを作りながら走った。
速くはない。
派手でもない。
でも、首は下がっている。
雨を含んだ砂を、嫌がらずに踏んでいる。
こちらも、悪くない。
最終オッズが出た。
ロードグランシャリオ、一・七倍。
ハルサメノツキ、九・五倍。
オッズの差は、そのまま世間の評価だった。
強い馬と、面白い馬。
『まもなく大井第九競走、発走です』
ゲート裏へ、馬たちが向かっていく。
五番ロードグランシャリオは落ち着いている。
十番ハルサメノツキも、今日は大きく気負っていない。
逃げると思われる三番ワイルドアークが少しうるさい。
セイランオーガも気合いが乗っている。
ゲート入り。
ハルサメノツキは十番枠へ。
ロードグランシャリオは五番枠へ。
俺は息を吸った。
ここから先は、馬と騎手の時間だ。
『全馬、ゲートに収まりました』
一瞬の静寂。
ゲートが開いた。
『スタートしました!』
ワイルドアークが速い。
予想通り、三番が前へ出る。
外からセイランオーガも押していく。
ロードグランシャリオは慌てない。五番枠からすっと好位の外につける。
完璧な位置だ。
『先手を取ったのはワイルドアーク! 二番手にセイランオーガ! その後ろ、ロードグランシャリオは三番手の外!』
ハルサメノツキは、後方四番手。
外。
砂を被らない位置。
浅倉騎手は無理に押していない。
リズムを優先している。
「いい位置です」
黒川先生が言った。
「はい」
だが、前にいるロードグランシャリオの位置が良すぎる。
強い馬が、いい位置で、楽に走っている。
それだけで、圧がある。
一周目のスタンド前。
ワイルドアークが逃げる。
セイランオーガが二番手。
ロードグランシャリオは三番手の外で、まったく力んでいない。
ハルサメノツキは後方外め。
スタンドから声が聞こえる。
「ロードいい位置だな」
「もう勝ちパターンだろ」
「ハルサメは後ろか」
「外にはいるけど、届くか?」
俺も同じことを思っていた。
届くのか。
この位置から、あのロードグランシャリオに。
『一周目のスタンド前を通過。先頭はワイルドアーク、リード一馬身。セイランオーガが二番手。ロードグランシャリオは三番手外、絶好の手応えです』
絶好の手応え。
実況の言葉が重い。
向こう正面。
雨はまだ降っている。
馬場は湿っている。
前のペースは遅くない。
悪くない。
でも、ロードグランシャリオも楽だ。
浅倉騎手の手が、少しだけ動いた。
ハルサメノツキが、じわっと前へ近づく。
まだ早い。
でも、遅くはない。
ロードを待ちすぎれば届かない。
浅倉騎手はそう言っていた。
『向こう正面半ば。先頭ワイルドアーク、二番手セイランオーガ。その後ろでロードグランシャリオ、城崎大吾はまだ動かない。後方外からハルサメノツキが少しずつ進出を開始しています』
実況が名前を呼ぶ。
ハルサメノツキが、外からゆっくりと上がっていく。
派手な脚ではない。
でも、止まらない。
浅倉騎手は追いすぎない。
馬のリズムを壊さず、少しずつ前へ。
三コーナー手前。
ロードグランシャリオの騎手、城崎が手綱を持ったまま外を見る。
ハルサメノツキを確認した。
見られた。
強い馬の騎手が、ハルを見た。
それだけで、胸が熱くなる。
『三コーナーへ! 先頭ワイルドアーク! セイランオーガが並びかける! ロードグランシャリオは三番手で手応え十分! 外からハルサメノツキも差を詰める!』
ロードグランシャリオが動いた。
ほんの少し促されただけで、前との差が詰まる。
強い。
加速が滑らかだ。
無理がない。
ハルサメノツキも外から動いている。
でも、ロードの方が楽に見える。
それが地力の差なのか。
「ハル」
俺は小さく呟いた。
「まだだ。まだ止まるな」
四コーナー。
ワイルドアークが苦しくなる。
セイランオーガが先頭に立つ。
その外から、ロードグランシャリオ。
さらに外から、ハルサメノツキ。
距離ロスはある。
でも砂は被っていない。
ハルの首が下がる。
来る。
ハルサメノツキの走りになっている。
『四コーナーから直線へ! 先頭はセイランオーガ! 外からロードグランシャリオが並びかける! さらに大外、ハルサメノツキも伸びてくる!』
直線。
ロードグランシャリオが、あっさり先頭に立った。
強い。
セイランオーガを楽に交わす。
城崎騎手の手応えには、まだ余裕がある。
その背中を、ハルサメノツキが追う。
雨を含んだ砂を蹴り、外からじわじわ伸びる。
『残り三百! ロードグランシャリオ先頭! セイランオーガ二番手! 外からハルサメノツキ! ハルサメノツキが三番手に上がる!』
スタンドがざわつく。
「ハルサメ来た!」
「外から来てるぞ!」
「でもロードが楽すぎる!」
「届くのか!?」
届くのか。
俺も分からない。
ロードグランシャリオの背中は、まだ遠い。
でも、ハルサメノツキは伸びている。
確かに、伸びている。
浅倉騎手が追う。
ハルが応える。
少しずつ、少しずつ。
強い馬の背中が、近づいていく。
『残り二百! 先頭ロードグランシャリオ! 外からハルサメノツキ! ハルサメノツキ、二番手に上がる! ロードグランシャリオとの差は二馬身!』
二馬身。
遠い。
でも、初めて届く距離に見えた。
鳳条怜央がいる方は見なかった。
見る余裕がなかった。
俺の目には、ハルサメノツキしか映っていない。
「行け」
声が震えた。
「行け、ハル」
ロードグランシャリオの騎手が、初めて本気で追い始めた。
その瞬間、ロードがもう一度伸びる。
強い馬が、さらに脚を使った。
それでも。
ハルサメノツキも止まらなかった。
『残り百! ロードグランシャリオ先頭! ハルサメノツキが外から迫る! 差は一馬身半! 一馬身!』
スタンドの声が爆発した。
「ハルサメ来るぞ!」
「ロード粘れ!」
「差せ!」
「届くか!?」
俺は叫んだ。
「ハル!」
雨の大井。
濡れたダート。
外から伸びる鹿毛。
あの日見た光景と、ほとんど同じだった。
ただ一つ違うのは。
前にいる馬が、あまりにも強いこと。
ハルサメノツキは、最後まで脚を伸ばす。
ロードグランシャリオは、先頭で踏ん張る。
その背中が、初めて近く見えた。




