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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第三章 良血の馬主

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第20話 負け方も財産

二番人気、四着。


 文字にすると、それだけだった。


 馬券を買った人間からすれば、期待を裏切った結果。

 新聞の成績欄に残るのも、ただの四着。

 勝ち馬との差、着差、通過順。


 そこに、砂を被って首を上げたことも。

 内で包まれて外へ出せなかったことも。

 最後の二百メートルで、ようやくハルサメノツキの走りに戻ったことも。


 ほとんど残らない。


「人気で負けるって、思ったより堪えますね」


 レース後の厩舎で、俺は思わずそう言った。


 ハルサメノツキは馬房の中で、いつもより不機嫌そうにしている。

 乾いた砂を洗い落とされたあとでも、まだ身体のあちこちに白っぽい跡が残っていた。


 黒川先生は、馬体を確認しながら答える。


「人気は人間が勝手に決めたものです」


「分かってます」


「でも、堪える」


「はい」


「なら、馬主らしくなってきましたね」


「これ、褒めてますか?」


「半分は」


 また半分だ。


 俺は苦笑しようとして、うまく笑えなかった。


 悔しい。


 勝てる条件ではなかった。

 それは分かっていた。


 一六〇〇メートル。

 良馬場。

 内枠。

 前が止まらない展開。


 ハルサメノツキが一番力を出せる形からは、少しずつズレていた。


 でも、それでも期待してしまった。


 前走で勝ったから。

 周囲が名前を覚えてくれたから。

 二番人気になったから。


 もしかしたら、今日も。


 そう思ってしまった。


「俺が一番、オッズに引っ張られてましたね」


 俺が言うと、黒川先生は少しだけこちらを見た。


「気づけたなら、次は少しマシになります」


「少しですか」


「一度で直るなら、馬主は苦労しません」


 正論だった。


 馬房の中で、ハルサメノツキが鼻を鳴らす。

 まだ怒っているみたいだった。


「ハルも悔しいんですかね」


「さあ。馬の言葉は分かりません」


「でも、不機嫌そうです」


「それはいつもです」


「確かに」


 少しだけ笑えた。


 黒川先生はハルサメノツキの脚元を見終えると、静かに言った。


「大きな異常はありません。ただ、楽な競馬ではなかったので、数日はしっかり見ます」


「次走は白紙ですか?」


「当然です」


「ですよね」


「不満ですか?」


「いえ」


 今度は、本当にそう思えた。


 勝った後に休ませることを覚えた。

 なら、負けた後に焦らないことも覚えなきゃいけない。


 今日の負けは、無駄じゃない。


 少なくとも、そうしなければならない。


「今日、分かったことがあります」


 俺は言った。


「言ってください」


「ハルは、内で砂を被っても完全にはやめませんでした。前なら、そこで終わってたと思います。でも今日は、最後に進路が開いてから伸びた」


「ええ」


「成長はしています」


「しています」


 黒川先生がすぐに頷いてくれたことが、少し嬉しかった。


「ただ」


 彼女は続ける。


「成長しても、苦手が消えたわけではありません」


「はい」


「この仔は、砂を被ればパフォーマンスが落ちる。短い距離では追走に脚を使う。乾いた良馬場で前が止まらなければ、差し届かない。今日、それも改めて分かりました」


「はい」


「つまり、三上さん」


 黒川先生は俺を見た。


「今日の負けは、この仔の取扱説明書に一ページ増えたということです」


 取扱説明書。


 その言い方に、妙に納得した。


 ハルサメノツキという馬の説明書。


 大井一八〇〇、外枠、稍重以上、外差し。

 砂を被らせない。

 前半で急がせない。

 直線まで気持ちを切らさない。


 そこに今日、新しい一文が加わった。


 内枠で包まれても、以前ほど簡単には諦めない。

 ただし、勝ち切るには外へ出す時間が必要。


「負け方も財産、ですか」


「ええ」


「でも、馬券を買った人たちはそう見てくれませんよね」


「見る人は見ます。見ない人は、勝っても見ません」


 黒川先生は淡々と言った。


 厩舎の外から、何人かの声が聞こえてきた。


「ハルサメ、やっぱ内枠ダメだったな」


「でも最後は伸びてたぞ」


「人気だと買いづらい馬だな」


「次、外枠ならまた買うわ」


「いや、もう信用しない」


 現地の声は正直だ。


 勝てば騒ぐ。

 負ければ離れる。

 でも、中には見ている人もいる。


 最後は伸びていた。

 内枠がダメだった。

 次、外枠なら。


 ハルサメノツキの条件が、少しずつ外の人間にも伝わり始めている。


「先生」


「はい」


「次にこの馬を使うなら、やっぱり大井一八〇〇以上ですか」


「現時点では、それが理想です。できれば外め。馬場は渋った方がいい。ただ、番組と状態次第です」


「クラスが上がると、相手も強くなりますよね」


「当然です」


「今日みたいに条件がズレたら、また負けますね」


「負けます」


 即答だった。


 でも、その厳しさがありがたかった。


「なら、ちゃんと選びます」


 俺は言った。


「人気や周囲の声じゃなくて、ハルが一番走れる場所を」


 黒川先生は、ほんの少しだけ表情を緩めた。


「それが馬主の仕事です」


 その時、厩舎の外で車の停まる音がした。


 少しして、鳳条怜央が姿を見せた。


 今日もスーツ姿だ。

 雨も泥もない日だから、前よりさらに場違いに見える。


 けれど、彼はまっすぐこちらへ歩いてきた。


「お疲れさまでした」


 鳳条は黒川先生に会釈し、それから俺を見た。


「ハルサメノツキ、四着でしたね」


「はい」


「最後は伸びていました」


「ありがとうございます」


「ただ、勝つには位置取りが苦しかった」


「そうですね」


 鳳条は馬房のハルサメノツキを見た。


 ハルは相変わらず顔を背けている。

 相手が良血馬の馬主でも、態度は変わらないらしい。


「面白い馬です」


 鳳条が言った。


「でも、やはり条件を選ぶ」


 その言葉に、胸が少し痛んだ。


 だが、今度は反発しなかった。


「はい。選びます」


 俺がそう答えると、鳳条は少し意外そうにした。


「認めるんですね」


「事実ですから」


「不利な条件でも勝てる、とは言わない?」


「言いません」


 俺はハルサメノツキを見た。


「この馬は、どんな条件でも勝てる馬じゃありません。でも、勝てる条件ならちゃんと走る。今日、それ以外の条件では足りないことも分かりました」


 鳳条は黙って聞いていた。


「だから、次はもっと選びます」


「なるほど」


 彼は小さく笑った。


「あなたは、負けた後の方が冷静なんですね」


「勝った後に浮かれたので、反省しました」


「正直だ」


 鳳条は懐から出走想定表を取り出した。


「ロードグランシャリオの次走が決まりました」


 その名前を聞いた瞬間、空気が少し変わった。


 ロードグランシャリオ。

 鳳条怜央の良血馬。

 馬体も血統も抜けていると噂される馬。


「大井一八〇〇メートル。次開催の三歳一組を予定しています」


 一八〇〇。


 俺の胸が鳴った。


 ハルサメノツキの理想に近い距離。


 けれど、ハルは今日走ったばかりだ。

 次開催に間に合うかどうかは状態次第。

 無理はできない。


 黒川先生も同じことを考えたのだろう。


「ハルサメノツキは今日走ったばかりです。状態を見て判断します」


「もちろんです」


 鳳条は丁寧に頷いた。


「無理に出てきてほしいわけではありません。ただ、いつか同じ舞台で走れればと思いまして」


 その口調は穏やかだった。


 だが、逃げ道を塞がれているような感覚があった。


 強い馬が待っている。

 お前の馬は、そこに出てこられるのか。


 そう問われている気がした。


「ロードグランシャリオは、条件を選ばないんですか?」


 俺は聞いた。


 鳳条は少し考えた。


「まったく選ばない馬はいません」


 意外な答えだった。


「ただ、強い馬は多少の不利を能力で覆せます。枠、馬場、展開。もちろん影響はありますが、それでも勝ち切る地力がある」


「それが、ロードグランシャリオ」


「ええ」


 迷いのない答え。


 俺は羨ましいと思った。


 同時に、少し怖いとも思った。


 もしハルサメノツキの条件が揃っても、地力でねじ伏せられる相手がいる。

 勝てる場所を見つけても、そこにもっと強い馬がいる。


 その時、どうするのか。


 鳳条は俺の表情を見て、静かに言った。


「三上さん。私はあなたの馬を軽く見ていません」


「え?」


「条件が合えば走る。弱点を理解して使えば、馬は変わる。その考えは正しいと思います」


 褒められるとは思っていなかった。


「ですが、上に行くほど、相手も条件を合わせてきます。強い馬を、強い条件で使ってくる」


 鳳条の目が、まっすぐ俺を見る。


「その時、あなたの相馬眼……いえ、馬を見る目がどこまで通じるのか。興味があります」


 一瞬、息が止まりかけた。


 相馬眼。


 そう言われたように聞こえた。


 いや、鳳条はただの表現として言っただけだ。

 昔から馬を見る目をそう呼ぶことはある。


 俺の能力を知っているわけじゃない。


 それでも、背中に冷たいものが走った。


「……俺は、見える範囲でやるだけです」


「見える範囲、ですか」


 鳳条はその言葉を拾った。


 しまった、と思った。


 だが彼はそれ以上追及しなかった。


「では、楽しみにしています」


 鳳条はそう言って去っていった。


 残された俺は、しばらくその背中を見ていた。


 黒川先生が隣で言う。


「出しますか?」


「ハルをですか?」


「ええ。ロードグランシャリオが出る予定のレースは、大井一八〇〇。条件だけ見れば、この仔にも悪くありません」


「でも、今日走ったばかりです」


「そうです」


「状態が戻らないなら、出しません」


「鳳条さんに言われても?」


「出しません」


 今度は、迷わず言えた。


 黒川先生は、少しだけ満足そうに頷いた。


「それでいいです」


 俺はハルサメノツキの馬房へ視線を戻した。


「ただ」


「ただ?」


「もし状態が戻って、走れるなら」


 ハルサメノツキは、こちらを見ない。


 でも耳だけは、また少しこちらを向いている。


「挑んでみたいです」


 黒川先生は否定しなかった。


「その時は、今日の負けを活かしましょう」


「はい」


「内で包まれない形。砂を被らない形。前が止まる流れ。外から脚を使える位置」


「大井一八〇〇、外枠、少し湿った馬場」


「注文が多いですね」


「ハルは注文を間違えると走れませんから」


 黒川先生が小さく笑った。


「少しは分かってきたようですね」


 その言葉に、ようやく胸の中の重さが少し軽くなった。


 人気で負けた。


 二番人気で四着。


 それは悔しい結果だ。


 でも、その負けで分かったことがある。


 ハルサメノツキは、まだ強い馬じゃない。

 けれど、勝てる条件ははっきりしている。

 そして、苦しい条件でも以前よりは我慢できるようになっている。


 負け方も財産。


 今日の四着は、次に勝つための地図になる。


 俺はハルサメノツキに向かって言った。


「次は、ちゃんとお前の場所を選ぶ」


 ハルサメノツキは、こちらを見ないまま鼻を鳴らした。


 その音が、少しだけ機嫌を直したように聞こえたのは、たぶん俺の都合のいい解釈だ。


 でも、それでいい。


 馬主は時々、都合よく信じることも必要なのだと思う。


 ただし、次は間違えない。


 人気でも、評判でも、挑発でもなく。


 馬を見る。


 その馬が本当に走れる場所を見る。


 ロードグランシャリオという強い馬が待っている。


 そこへ向かうかどうかは、ハルサメノツキ自身の状態が決める。


 俺ではない。

 鳳条でもない。

 掲示板でも、オッズでもない。


 走るのは、馬なのだから。

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