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安馬しか買えない弱小馬主の俺、スキル《相馬眼》で“勝てる場所”を見抜く  作者: ペンは休み休みもて(ペンもて)
第三章 良血の馬主

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第19話 人気で負ける馬

 ハルサメノツキの次走が決まった。


 大井第八競走。

 三歳一組。

 ダート一六〇〇メートル。


 未勝利を勝って、初めてのクラス上がり。

 相手は当然、前走より強くなる。


 それでも、出走表にハルサメノツキの名前を見つけた時、胸の奥が熱くなった。


 七番、ハルサメノツキ。


 前走、大井一八〇〇メートルを外から差し切り勝ち。

 単勝一三・六倍。


 あの日から、少しだけ周囲の目が変わった。


 もう、誰にも見向きされない安馬ではない。

 馬券売り場で名前が出る。

 新聞にも印がつく。

 現地の客が、あの春雨の月か、と言う。


 それは嬉しかった。


 嬉しかった、けれど。


「二番人気……ですか」


 俺はスマホのオッズ画面を見ながら呟いた。


 レース当日。

 締切三十分前。


 一番人気は一番、カイセイノーブル。

 単勝二・七倍。


 二番人気が七番、ハルサメノツキ。

 単勝三・九倍。


 三番人気は十番、ミズノクラウン。

 単勝五・八倍。


 前走一三・六倍だった馬が、今日は三・九倍。


 人気している。


 俺の胸の中に、妙な重さが生まれた。


 人気があるということは、期待されているということだ。

 馬券を買う人が、この馬なら走ると思っているということだ。


 でも、俺には不安があった。


 距離は一六〇〇。

 前走より二〇〇メートル短い。


 馬場は良。

 乾いたダート。


 そして枠は、二枠二番。


 内。


 ハルサメノツキにとって、一番避けたい場所だった。


「どう見ます?」


 隣に立った黒川先生が聞いた。


 俺はしばらく返事ができなかった。


「正直、嫌です」


「でしょうね」


「一六〇〇は少し忙しい。良馬場もそこまでプラスじゃない。内枠で砂を被る可能性が高い」


「ええ」


「勝ち切る条件ではないと思います」


 そう言うと、黒川先生は静かに頷いた。


「私も同じです」


「それでも、出すんですね」


「出します」


 黒川先生の声は迷っていなかった。


「馬体は戻りました。前走の疲れも抜けています。調教の動きも悪くない。ここで一度、クラスが上がった相手と、条件が少しズレた時にどこまでやれるかを見る必要があります」


「勝つためじゃなく?」


「勝ちに行かないわけではありません」


 黒川先生はパドックの方を見た。


「ただし、今日の目的は勝つことだけではありません。この仔が苦手な条件で、どれだけ我慢できるか。内で砂を被った時に、前より競馬をやめないか。直線で外へ出せた時、もう一度脚を使えるか。それを見るレースでもあります」


 負けを前提にした言葉ではない。


 でも、勝利だけを見ている言葉でもない。


 俺は頷いた。


「人気してるのが、怖いですね」


「人気は馬の状態とは関係ありません」


「分かっています」


「分かっている顔ではありませんね」


「……はい」


 黒川先生は少しだけ笑った。


「三上さん。人気で馬は強くなりません。オッズが下がっても、この仔の脚が速くなるわけではない」


「はい」


「逆に、人気で馬が弱くなるわけでもありません」


 その通りだった。


 勝手に期待しているのは人間だ。

 勝手に怖がっているのも人間だ。


 ハルサメノツキは、いつも通り自分の走りをするだけ。


 問題は、その走りが今日の条件でどこまで通じるか。


 パドックにハルサメノツキが出てきた。


 小柄な鹿毛。

 前走より馬体は戻っている。

 毛艶も悪くない。


 ただ、周囲の客の声が前とは違った。


「あ、ハルサメノツキだ」


「前走強かったよな」


「今日も買うわ」


「でも内枠どうなん?」


「二番人気はちょっと売れすぎじゃね?」


「いや、前走見たら買いたくなるだろ」


 その声が耳に入るたびに、胸の奥がざわつく。


 前は、笑われていた。

 今は、期待されている。


 どちらも、思ったより重い。


 浅倉騎手が騎乗する。


 今日は浅倉騎手の表情も、いつもより少し硬く見えた。


「浅倉騎手」


 俺が声をかけると、彼は軽く会釈した。


「今日は、難しいですね」


「はい」


「内で砂を被るかもしれません」


「分かっています」


「無理に出していくと、この馬のリズムが崩れます。でも下げすぎると、外に出す前に終わる」


「はい」


「勝ちに行きます。でも、喧嘩はしません」


 その言葉に、少しだけ救われた。


「お願いします」


 返し馬。


 ハルサメノツキは落ち着いていた。

 だが、いつもの外ラチ沿いではなく、内めへ誘導されると少し耳を動かした。


 嫌がっている、というほどではない。


 でも、分かっているのかもしれない。


 今日は、あの馬の好きな場所ではない。


 最終オッズが出た。


 ハルサメノツキ、単勝四・二倍。

 二番人気。


 複勝一・五倍から二・二倍。


 馬券売り場から声が聞こえる。


「四倍つくなら美味いだろ」


「いや、前走がハマりすぎただけかも」


「二枠だぞ。砂被るぞ」


「浅倉なら外出すだろ」


「外出せるまでに置かれたら終わり」


 みんな、見ている。


 前よりずっと、ハルサメノツキのことを見ている。


 それは嬉しい。


 でも同時に、苦しい。


『まもなく大井第八競走、発走です』


 ゲート入りが始まる。


 二枠二番、ハルサメノツキ。


 いつもより早くゲートに収まった。


 俺は息を止める。


『全馬、ゲートに収まりました』


 スタート。


『スタートしました!』


 ハルサメノツキは、まずまず出た。


 悪くない。


 だが、内枠の分、すぐ前に馬が入る。


 一番人気カイセイノーブルが好スタートを切り、内から前へ。

 外のミズノクラウンも出していく。

 ハルサメノツキはその後ろ、内の中団。


 前から砂が飛ぶ。


 ハルの首が、少し上がった。


「……やっぱり」


 俺は奥歯を噛んだ。


 前走のように外でリズムを作れない。

 内で、前の馬の砂を浴びながら、我慢する形。


『先手を取ったのはカイセイノーブル! 二番手にミズノクラウン! その後ろ、内にハルサメノツキがつけています!』


 実況に名前が呼ばれる。


 前よりずっと早い位置で。


 でも、俺は嬉しくなかった。


 位置はいい。

 着順だけを考えれば悪くない。


 けれど、ハルサメノツキの走りは硬い。


 首が少し高い。

 リズムが浅い。

 後ろ脚で押し切れていない。


 人気の馬の位置取りとしては悪くない。

 でも、ハルの勝てる形ではない。


「浅倉くん、我慢していますね」


 黒川先生が言った。


「外に出したいでしょうね」


「ええ。でも今は出せません」


 向こう正面。


 前は遅い。


 カイセイノーブルが楽に逃げている。

 ミズノクラウンも無理をしていない。


 スロー気味。


 外から一頭が動くが、ハルサメノツキは内に閉じ込められたまま。


 浅倉騎手の手がわずかに動く。


 出したい。

 でも出せない。


『三コーナーへ向かいます。先頭はカイセイノーブル、リード一馬身。二番手ミズノクラウン。内で脚をためるハルサメノツキ、外からセイランフラッグも上がってくる!』


 脚をためる。


 実況はそう言った。


 でも違う。


 ためているというより、使えずにいる。


 ハルサメノツキは、内でずっと窮屈そうだった。


 四コーナー手前。


 ようやく前が少し開く。


 浅倉騎手が外へ出そうとする。


 だが、その瞬間、外の馬が被せてきた。


 出られない。


「くっ……」


 思わず声が出た。


 スタンドからも声が飛ぶ。


「二番、詰まった!」


「外出せないぞ」


「ハルサメ、そこじゃ無理だろ!」


 黒川先生は無言だった。


 その横顔は険しい。


『四コーナー! 先頭はカイセイノーブル! ミズノクラウンが迫る! ハルサメノツキは内で進路を探す!』


 直線。


 カイセイノーブルが先頭。

 ミズノクラウンが外から迫る。


 ハルサメノツキは、まだ内。


 浅倉騎手が進路を探す。


 残り三百。


 ようやく、内の馬が少し外へ膨れた。


 わずかな隙間。


 浅倉騎手がハルサメノツキをそこへ通す。


 砂を被って、我慢して、ようやく前が開いた。


 ハルサメノツキの首が下がる。


「あ」


 変わった。


 遅い。


 遅すぎる。


 でも、変わった。


『残り二百! 先頭カイセイノーブル! 外ミズノクラウン! 内からハルサメノツキも伸びてくる!』


 ハルサメノツキが脚を使う。


 前走のような大外一気ではない。

 泥を蹴って伸びる形でもない。


 乾いた砂を浴び、内で我慢し、ようやく見つけた狭い進路。


 それでも、伸びる。


「行け!」


 俺は叫んだ。


「行け、ハル!」


 だが、前は遠い。


 カイセイノーブルが止まらない。

 ミズノクラウンも粘っている。

 外からセイランフラッグがもう一度伸びる。


 ハルサメノツキは、その後ろからじわじわ迫る。


 じわじわ。


 でも、届かない。


『カイセイノーブル先頭! ミズノクラウン迫る! 内からハルサメノツキ! 外セイランフラッグ! 今ゴールイン!』


 ゴール板を過ぎた。


 掲示板に着順が点く。


 一着、一番。

 二着、十番。

 三着、六番。

 四着、二番。


 ハルサメノツキは四着だった。


 勝てなかった。


 馬券内にも届かなかった。


 二番人気で、四着。


 周囲から、ため息が漏れる。


「うわ、ハルサメ飛んだ」


「やっぱり前走ハマっただけか」


「内枠ダメだな」


「最後は伸びてたけどな」


「人気で買う馬じゃないわ」


「次、外枠ならまた買う」


 いろんな声が聞こえた。


 悔しさと、納得が同時に来た。


 負けた。


 でも、理由はあった。


 砂を被った。

 内で包まれた。

 外へ出せなかった。

 前が止まらない流れだった。

 距離も少し短かった。


 条件がズレた時、ハルサメノツキは勝ち切れない。


 それが、今日の答えだった。


 引き上げてくるハルサメノツキは、息を弾ませていた。


 泥ではなく、乾いた砂で白く汚れている。


 浅倉騎手が下りて、悔しそうに頭を下げた。


「すみません。出せませんでした」


 俺は首を横に振った。


「いえ。最後、よく伸ばしてくれました」


「もっと早く外に出せていれば……」


 浅倉騎手の声には、強い悔しさがあった。


 黒川先生が言う。


「今日の枠と流れでは難しかったです。無理に出そうとしてぶつける方が悪い」


「はい」


 浅倉騎手はハルサメノツキの首を撫でた。


「でも、この馬、やっぱり走ります。内で砂被っても、最後はやめてません」


 その言葉に、少しだけ胸が軽くなった。


 そうだ。


 今日は負けた。

 でも、前とは違う。


 初戦なら、砂を被った時点で完全に嫌がって終わっていた。

 今日は違った。


 嫌がりながらも我慢した。

 内で耐えた。

 最後に進路が開いた瞬間、脚を使った。


 勝てなかったけれど、成長はしている。


「三上さん」


 黒川先生が俺を見た。


「はい」


「悔しいですか?」


「悔しいです」


「では、覚えておいてください」


 黒川先生は、ハルサメノツキの砂だらけの馬体を見ながら言った。


「勝ち方だけではなく、負け方も財産です」


 その言葉が、胸に落ちた。


 負け方も財産。


 今日の負けで、また一つ分かった。


 ハルサメノツキは、条件が合えば勝てる。

 でも、条件がズレれば人気を背負っても負ける。


 そして、負けても完全には崩れなくなっている。


 それは弱点であり、成長でもあった。


 俺はハルサメノツキに近づき、小さく声をかけた。


「悪かったな。今日は走りにくかっただろ」


 ハルサメノツキは鼻を鳴らした。


 不機嫌そうだった。


 たぶん、怒っている。


 俺にか、砂にか、内枠にか。

 もしかすると、自分が負けたことにか。


「次は、もっと走れる場所を選ぶ」


 そう言うと、ハルサメノツキは顔を背けた。


 いつも通りだ。


 でも、耳だけはこちらを向いていた。


 その時、少し離れた場所から視線を感じた。


 振り向く。


 スタンド側の関係者エリアに、鳳条怜央がいた。


 スーツ姿で、腕を組んでこちらを見ている。


 目が合うと、鳳条は軽く会釈した。


 笑ってはいなかった。


 馬鹿にしているようにも見えない。


 ただ、何かを確認したような顔だった。


 面白い馬と、強い馬は違う。


 昨日の言葉が、頭に蘇る。


 今日、ハルサメノツキは負けた。


 人気を背負い、条件が少しズレたレースで、四着に負けた。


 それが今の実力だ。


 なら、次にやるべきことは決まっている。


 勝てる場所を、もっと正確に選ぶこと。


 そしていつか、強い馬に届くために。


 俺は鳳条から視線を外し、ハルサメノツキを見た。


 この負けは、終わりじゃない。


 次に勝つための、輪郭だ。

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