第18話 良血の馬主
サビツキノエンジンが逃げ切った翌日、黒川厩舎には妙な空気があった。
浮かれている、というほどではない。
黒川先生はいつも通り冷静だったし、助手たちも普段通りに馬房を掃除し、飼葉を用意し、馬を歩かせている。
けれど、時々聞こえてくる会話が違った。
「昨日の七番、すごかったな」
「荒尾さん、あれよく残したよ」
「三上さん、また当てたって言われてましたよ」
また当てた。
その言い方には少し引っかかった。
馬券を当てたわけじゃない。
たまたま穴馬を拾ったわけでもない。
ハルサメノツキには、ハルサメノツキの走れる形があった。
サビツキノエンジンには、サビツキノエンジンの走れる形があった。
ただ、それを探しただけだ。
……と言えれば格好いいが、実際には俺もまだ手探りだ。
《相馬眼》で見えるのは、あくまで輪郭。
それを現実の競馬に落とし込むには、黒川先生や騎手たちの力が必要になる。
だから、俺一人で勝たせたなんて、とても思えない。
「三上さん」
馬房の前でサビツキノエンジンを見ていると、黒川先生が声をかけてきた。
「はい」
「昨日の勝ちで、少し問い合わせが来ています」
「問い合わせ?」
「サビツキノエンジンについてです。次走はどこか、荒尾騎手継続か、距離は延ばすのか、と」
「もうですか」
「勝てばそうなります」
黒川先生は馬房の中を見た。
サビツキノエンジンは、昨日勝った馬とは思えないほど普段通りだった。
人間の騒ぎなど知らない、という顔で壁の方を向いている。
ただ、飼葉はしっかり食べている。
脚元も大きな問題はないらしい。
「次もすぐ使いますか?」
俺が聞くと、黒川先生は即座に首を横に振った。
「状態を見てからです。この馬も簡単ではありません。逃げ切ったからといって、気性の難しさが消えたわけではありません」
「はい」
「それと、ハルサメノツキもまだ休ませます」
「分かっています」
「本当に?」
「本当にです」
俺が答えると、黒川先生は少しだけ目を細めた。
「ならいいです」
最近、この確認が多い。
たぶん、俺がすぐ次の番組表を見たがるからだろう。
その時、厩舎の入り口の方から、聞き慣れない声がした。
「黒川先生はいますか」
落ち着いた、よく通る声だった。
作業着姿の厩舎スタッフとは明らかに雰囲気が違う。
振り向くと、スーツ姿の若い男が立っていた。
二十代後半か、三十代前半くらい。
整った顔立ちで、髪も服も隙がない。
靴には泥ひとつ付いていない。
厩舎にいるには、少し綺麗すぎる男だった。
黒川先生の表情がわずかに変わる。
「鳳条さん」
鳳条。
その名前に、俺は一瞬だけ反応した。
掲示板で見た名前だ。
鳳条怜央。
若手馬主。
良血馬を買うことで知られている。
ロードグランシャリオの馬主。
男は黒川先生に軽く会釈した。
「突然すみません。近くに来たものですから」
「厩舎に来るなら事前に連絡をください」
「以後、気をつけます」
言葉は丁寧だ。
けれど、謝っているようには聞こえなかった。
鳳条怜央の視線が、俺に向く。
「あなたが三上透さんですね」
「はい」
「ハルサメノツキとサビツキノエンジンの馬主」
「……そうです」
「昨日のレース、見ました」
鳳条はそう言って、サビツキノエンジンの馬房に目を向けた。
「思い切った競馬でしたね」
「荒尾騎手が上手く乗ってくれました」
「ええ。あれは騎手の勝利でもある」
でも、と鳳条は続けた。
「そもそも、あの馬を地方のダート一四〇〇で逃がそうと思ったのは、あなたですか?」
いきなり核心を突かれた。
黒川先生が横から言う。
「陣営で相談して決めたことです」
「もちろん、そうでしょう。ですが、最初にその方向を示したのは三上さんなのでは?」
鳳条の目は、柔らかい。
だが、笑っていない。
俺は少し考えてから答えた。
「映像を見て、そう感じました」
「感じた」
「はい」
「ハルサメノツキの時も?」
胸の奥が、わずかに冷えた。
この人は、見ている。
ただ嫌味を言いに来たわけじゃない。
「ハルサメノツキは、短いところでは忙しいと思いました。砂を被ると嫌がるので、外から運んだ方がいいとも」
「そして一八〇〇で勝った」
「結果的には」
「サビツキノエンジンは、抑えず逃がした」
「はい」
「結果、勝った」
鳳条は静かに笑った。
「面白いですね」
褒め言葉に聞こえる。
でも、素直に喜べない。
「ありがとうございます」
「ただ、勘違いしない方がいい」
空気が変わった。
黒川先生の目が少し鋭くなる。
「鳳条さん」
「失礼。悪意はありません」
鳳条は俺を見たまま言った。
「条件を選べば勝てる馬はいます。弱点を避ければ走る馬もいます。あなたは、それを見つけるのが上手いのかもしれない」
「……かもしれない、ですか」
「ええ。まだ二頭ですから」
言い返せなかった。
その通りだ。
俺はまだ、二頭を勝たせただけだ。
しかも、どちらも未勝利戦。
地方競馬の片隅で、一つずつ勝っただけ。
「競馬は、条件を合わせるだけでは上へ行けません」
鳳条は続ける。
「相手が強くなれば、弱点を隠すだけでは足りない。馬自身の地力が問われる。血統、馬体、育成環境、調教の積み重ね。結局、最後に残るのは強い馬です」
その言葉には、重みがあった。
ただの嫌味ではない。
鳳条怜央は、たぶん本気でそう信じている。
強い馬は、強い血統から生まれる。
強い牧場で育ち、強い厩舎で鍛えられ、強い騎手が乗る。
それが王道だと。
「そうですね」
俺は答えた。
鳳条が少し意外そうに眉を動かす。
「否定しないんですか?」
「強い馬が強いのは、事実です」
俺はハルサメノツキの馬房の方を見た。
今日は軽い運動だけで、もう馬房に戻っている。
小柄で、まだ未完成で、条件を外せば簡単に負ける馬。
「でも、強い馬だけが勝っていいわけじゃない」
鳳条の目が細くなった。
「どういう意味です?」
「どの馬にも、走れる形はあると思っています。全部の馬が重賞を勝てるとは思いません。でも、勝てる条件があるのに、それを知らないまま終わる馬はいる」
カザマノリュウセイの姿が頭に浮かんだ。
合わない条件を使われ続け、静かに引退した馬。
「俺は、そういう馬を減らしたいだけです」
鳳条はしばらく黙っていた。
厩舎の奥で、サビツキノエンジンが鼻を鳴らす。
重い沈黙を破ったのは、鳳条だった。
「理想論ですね」
「はい」
「馬主としては危うい」
「よく言われます」
「でしょうね」
鳳条は小さく笑った。
今度の笑みには、ほんの少しだけ興味が混じっていた。
「ですが、嫌いではありません」
「え?」
「その理想論でどこまで行けるのか、少し見てみたくなりました」
鳳条は懐から一枚の出走想定表を出した。
「ロードグランシャリオ。次走、大井の一七〇〇か一八〇〇を考えています」
ロードグランシャリオ。
良血馬。
馬体が抜けていると噂される、鳳条怜央の所有馬。
「ハルサメノツキも、そのあたりを使うのでは?」
俺はすぐに答えられなかった。
ハルはまだ休ませる。
馬体も戻さなきゃいけない。
勝った勢いで使うつもりはない。
けれど、いずれは条件戦へ向かう。
そして大井の一八〇〇は、ハルサメノツキにとって合う条件だ。
黒川先生が口を開いた。
「ハルサメノツキは状態次第です。今は次走を決めていません」
「もちろん。馬優先で考えるべきです」
鳳条はそう言った。
丁寧だ。
だが、言葉の奥に圧がある。
「ただ、もし同じレースになれば、面白いでしょうね」
俺は鳳条を見た。
「ロードグランシャリオは、強い馬ですか?」
「ええ」
即答だった。
迷いがない。
「血統も、馬体も、調教の動きも、今の条件戦では上位です。弱点を探すより、長所で押し切れる馬だと思っています」
強い馬。
鳳条は自分の馬を、迷いなくそう言った。
少し羨ましいと思った。
俺はまだ、自分の馬をそんなふうには言えない。
ハルサメノツキは強い馬ではない。
条件が合えば走る馬だ。
サビツキノエンジンも強い馬ではない。
逃げられれば粘れる馬だ。
でも、それでも。
「もし同じレースになったら」
俺は言った。
「うちの馬の勝てる場所を探します」
鳳条の笑みが深くなった。
「そういう答えになりますか」
「はい」
「では、楽しみにしています」
鳳条は黒川先生に会釈し、厩舎を出ていこうとした。
だが、入り口のところで足を止める。
「三上さん」
「はい」
「あなたの馬は、見ていて面白い。けれど、面白い馬と強い馬は違います」
その言葉は、静かに刺さった。
「覚えておきます」
「ええ。次に競馬場で会いましょう」
鳳条怜央は、泥のない靴で厩舎を出ていった。
その背中を見送りながら、俺はしばらく動けなかった。
黒川先生が隣で言う。
「言い方は少しきついですが、鳳条さんの言うことにも一理あります」
「分かっています」
「ハルサメノツキもサビツキノエンジンも、条件が合ったから勝てました。でも上へ行けば、条件が合っても勝てない相手が出てきます」
「はい」
「その時、どうするかです」
どうするか。
俺には《相馬眼》がある。
でも、それは万能じゃない。
勝利を保証する力じゃない。
勝てる場所が見えても、そこに強い馬がいれば負ける。
条件が合っても、地力の差で届かないことはある。
鳳条怜央は、それを言いに来たのだ。
「先生」
「はい」
「ロードグランシャリオって、どんな馬ですか?」
黒川先生は少し考えた。
「馬体はいいです。骨格がしっかりしている。トモも強い。前走は余裕残しで勝ちました。次も人気になるでしょう」
「弱点は?」
「今のところ、大きくは見えません」
「……強いですね」
「ええ。強い馬です」
その言葉を聞いて、胸の奥がざわついた。
強い馬。
俺たちが今まで勝ってきたのは、条件を間違えられていた馬たちだ。
では、条件も合っていて、地力もある馬と当たったらどうなるのか。
ハルサメノツキは、どこまで通用するのか。
いや、その前に。
ハルを本当にそのレースへ出すべきなのか。
俺はハルサメノツキの馬房へ向かった。
ハルは奥で静かに立っていた。
こちらを見ると、面倒くさそうに耳だけを動かす。
「ハル」
声をかける。
ハルサメノツキは顔を背けた。
いつもの反応だ。
俺は思わず笑う。
「強い馬がいるらしいぞ」
もちろん、返事はない。
「お前はまだ、強い馬じゃない」
その言葉を口にすると、少し胸が痛んだ。
でも、嘘はつけない。
「でも、お前にはお前の走れる場所がある」
ハルサメノツキが鼻を鳴らした。
怒ったようにも、呆れたようにも聞こえた。
俺は馬房の柵に手を置く。
「焦らない。無理はさせない。だけど、いつか当たるかもしれない」
良血の馬主。
強い馬。
条件を選ばず、地力で押し切る存在。
俺たちが勝てる場所を探す馬主なら、あちらは強い馬を正面から走らせる馬主だ。
どちらが正しいのか。
きっと、競馬場でしか答えは出ない。
厩舎の外では、サビツキノエンジンがまた壁を蹴る音がした。
ハルサメノツキは静かに耳を動かす。
二頭とも、まるで違う。
けれど俺にとっては、どちらも大事な馬だ。
鳳条怜央の言葉が、頭に残っている。
面白い馬と、強い馬は違う。
なら、証明するしかない。
面白い馬にも、強い馬に届く瞬間があるのだと。




