第15話 逃げるか、沈むか
サビツキノエンジンを買うと決めた翌日、黒川先生は俺に一枚の紙を差し出した。
「まず、これを見てください」
出走想定表だった。
大井第六競走。
三歳未勝利。
ダート一四〇〇メートル。
サビツキノエンジンの名前が、そこにあった。
「……もう出すんですか?」
「出すと決めたわけではありません。候補です」
黒川先生は淡々と言った。
「ただ、この馬を試すなら一四〇〇。そこは三上さんも荒尾騎手も同じ見立てでしょう」
「はい」
「問題は、試すだけでは済まないことです」
「どういう意味ですか?」
「この馬は、レースで下手な経験をさせるとさらに悪くなる可能性があります」
俺は黙った。
ハルサメノツキの時とは違う。
ハルは、競馬を覚えさせるために負けることができた。
砂を被る。
馬群を知る。
外へ出した時に走れることを確認する。
負けても次につながるレースができた。
でもサビツキノエンジンは違う。
抑えれば怒る。
揉まれれば終わる。
中途半端に競馬を覚えさせようとすれば、また人間を信用しなくなる。
「この馬に必要なのは、教育ではなく成功体験です」
黒川先生は言った。
「先頭に立って、気分よく走って、最後までやめない。たとえ勝てなくても、そういう形を一度作りたい」
「はい」
「そのために荒尾騎手を使うかどうかです」
紙の上で、サビツキノエンジンの名前がやけに重く見えた。
荒尾迅。
逃げる馬なら怖い騎手。
ただし、沈む時は派手に沈む騎手。
馬券客からの評価は分かりやすい。
逃げるか、沈むか。
「荒尾騎手でお願いします」
俺は言った。
黒川先生はすぐには頷かなかった。
「理由は?」
「この馬には、半端に乗る騎手より、腹を括って前へ行ける騎手が必要です」
「浅倉くんではダメですか?」
「浅倉騎手は丁寧です。ハルには合います。でもサビツキノエンジンには、丁寧さがブレーキになると思います」
「荒尾騎手はブレーキが壊れているかもしれませんよ」
「そこは先生が止めてください」
「私に丸投げですか」
「すみません」
黒川先生は呆れたように息を吐いた。
「でも、見立ては同じです」
その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。
「荒尾騎手には、今日の追い切りに乗ってもらいます」
「今日ですか?」
「ええ。そこで合わないと判断したら、依頼はしません」
朝の馬場は乾いていた。
ハルサメノツキが勝った日のような湿った砂ではない。
白っぽいダート。
軽く舞う砂。
乾いた空気。
サビツキノエンジンには、悪くない。
馬場の外で待っていると、荒尾騎手が赤いジャケット姿で現れた。
「おはようございます、馬主さん」
「おはようございます」
「顔が硬いですね」
「初めての馬で、初めての追い切りなので」
「ハルサメノツキの時もこんな顔してたんですか?」
「たぶん」
「じゃあ勝てますね」
「そんな簡単に言わないでください」
荒尾騎手は軽く笑った。
その余裕が本物なのか、ただの軽さなのか、まだ分からない。
サビツキノエンジンが馬場に出てくる。
黒鹿毛の馬体。
太い首。
鋭い目。
今日も機嫌が良いとは言えない。
ただ、馬場へ向かう足取りは力強かった。
「いい馬じゃないですか」
荒尾騎手が言った。
黒川先生はすぐに返す。
「見た目だけで判断しないでください」
「見た目で半分くらい分かりますよ」
「あなたは半分で全部分かった顔をするから危ないんです」
「先生、今日も厳しい」
「厳しくしています」
荒尾騎手は苦笑しながら、サビツキノエンジンに跨った。
その瞬間、馬の耳が動いた。
人間を確かめるように。
乗ってきた相手がどんなやつか、測るように。
荒尾騎手は手綱を短く持ちすぎなかった。
抑え込まない。
でも、放さない。
サビツキノエンジンはしばらく首を高くしていたが、前へ歩き出すと少しだけ落ち着いた。
「……意外と喧嘩しませんね」
俺が呟くと、黒川先生が答える。
「荒尾騎手は、逃げ馬の扱いだけは上手いです」
「だけ?」
「だけ、と言うと怒られますね」
「聞こえてますよー」
馬上の荒尾騎手が振り返らずに言った。
黒川先生は無視した。
追い切りは単走。
無理に時計は出さない。
ただし、最初の入り方を見る。
荒尾騎手が軽く促す。
サビツキノエンジンが前へ出た。
一完歩目から違った。
抑えられていない。
だから怒っていない。
首は高いが、前回ほど暴れていない。
口を割って抵抗する気配も少ない。
そのまま馬場の外めを進む。
速い。
でも、暴走ではない。
荒尾騎手は手綱を完全に緩めていない。
馬の前向きさを殺さず、ぎりぎりのところで線を引いている。
「これが、逃がすってことですか」
俺は思わず呟いた。
黒川先生が静かに頷く。
「ええ。行かせるのと、持っていかれるのは違います」
サビツキノエンジンは向こう正面に入っても、前へ行く気を失わなかった。
むしろ楽しそうにすら見える。
黒い馬体が乾いた砂を蹴る。
誰にも前を邪魔されず、ただ先頭を走る。
俺の頭の奥で、また文字が淡く浮かんだ。
《条件接近》
《単騎先行/乾いたダート/一四〇〇》
《能力発揮率:上昇》
俺は目を細めた。
やっぱり、合っている。
この馬は、抑える馬じゃない。
三コーナー手前。
荒尾騎手が少しだけ手綱を抑えた。
サビツキノエンジンの首が一瞬上がる。
だが、喧嘩にはならない。
荒尾騎手がすぐに少しだけ前へ出す。
馬が納得したように、もう一度首を前へ伸ばした。
「上手いですね」
俺が言うと、黒川先生は少しだけ悔しそうに見えた。
「癖馬には上手いんです」
「やっぱり“だけ”なんですね」
「本人には言わないでください」
最後の直線。
荒尾騎手が軽く追う。
サビツキノエンジンは、すっと反応した。
切れる脚ではない。
だが、前へ行く力が強い。
後ろから差す馬ではない。
誰かを待つ馬でもない。
先頭で、前だけを見て走る馬だ。
ゴール板を過ぎ、荒尾騎手がゆっくり減速させる。
サビツキノエンジンは少し不満そうに首を振ったが、暴れはしなかった。
戻ってきた荒尾騎手は、馬上で笑っていた。
「面白いですね、この馬」
黒川先生が聞く。
「どうでした?」
「逃げ馬です」
即答だった。
「抑えたらダメ。後ろに馬を置かれてもダメ。内で揉まれたら最悪。だけど、外からでもハナを主張して、自分の形に持ち込めれば走ります」
「距離は?」
「一四〇〇」
また同じ答え。
「一二〇〇だと速いやつに絡まれてムキになる。一六〇〇だと最後に気持ちが切れる可能性がある。今なら一四〇〇が一番いいです」
黒川先生が俺を見る。
俺は頷いた。
「俺も同じです」
「でしょうね」
荒尾騎手がにやりと笑う。
「馬主さん、やっぱり分かってるじゃないですか」
「俺はまだ勉強中です」
「勉強中でハルサメノツキ当てたなら、卒業したら怖いですね」
「当てたって言い方はやめてください」
「じゃあ、勝てる場所を見つけた?」
その言葉に、俺は一瞬だけ黙った。
荒尾騎手は何気なく言ったのだろう。
でも、それは俺の中の芯に近い言葉だった。
「……そうできるようになりたいです」
「いいですねえ」
荒尾騎手はサビツキノエンジンの首を軽く叩いた。
「こいつにも、見つけてやりましょうよ。勝てる場所」
サビツキノエンジンは鼻を鳴らした。
まるで、余計なことを言うなとでも言うみたいに。
調教後、事務所で正式に次走の話になった。
「大井一四〇〇を使います」
黒川先生が言った。
「騎手は荒尾迅。作戦は逃げ。ただし、暴走ではなく主導権を取る逃げ」
「はい」
「枠はできれば内すぎない方がいい。砂を被らないことが最優先です。ただ、逃げるなら内枠でも出していく選択はあります」
ハルサメノツキの時とは違う。
ハルは外枠が欲しかった。
砂を被らず、自分のリズムで外から動くために。
サビツキノエンジンは、枠よりもハナを取れるかどうかが重要だ。
前に出れば砂を被らない。
前に出なければ終わる。
分かりやすい。
だからこそ怖い。
「想定人気は?」
俺が聞くと、黒川先生は資料を見た。
「中央からの転入初戦なので多少は売れるかもしれません。ただ、戦績が悪い。気性難も知られている。荒尾騎手で逃げると読まれれば、嫌う人も多いでしょう」
「だいたい、どのくらいですか」
「現時点の想定では、単勝二十四・八倍。八番人気前後」
ハルサメノツキの二戦目よりは売れる。
でも人気とは言えない。
前評判は、低い。
ちょうどいい。
「馬券的には面白そうですね」
思わず言うと、黒川先生の目が冷たくなった。
「馬主がそれを言わない」
「すみません」
「まったく」
黒川先生は資料を閉じた。
「今回の目的は、勝つことです」
「はい」
「ただし、勝てなかったとしても、この馬が“逃げれば走れる”と分かる内容にすること」
「はい」
「一番ダメなのは、中途半端に控えて、怒って、何も分からずに負けることです」
その通りだった。
サビツキノエンジンに必要なのは、はっきりした答えだ。
逃げて通用するのか。
それとも、逃げても止まるのか。
どちらでもいい、とは言えない。
できれば勝ってほしい。
いや、勝たせたい。
でもまずは、この馬に教えなきゃいけない。
人間が邪魔をしないレースもあるのだと。
レース前日。
出走表が出た。
大井第六競走。
三歳未勝利。
ダート一四〇〇メートル。
サビツキノエンジンは、六枠七番。
悪くない。
内すぎない。
外すぎない。
出していけば、十分ハナを主張できる。
単勝予想オッズは、二十二・九倍。
七番人気。
現地の予想欄には、短くこう書かれていた。
『中央では先行力見せるも終い甘い。転入初戦で変わり身どこまで』
変わり身。
その言葉を見て、俺はスマホを伏せた。
違う。
この馬は変わるんじゃない。
たぶん、初めて本来の形で走るだけだ。
厩舎に寄ると、サビツキノエンジンは馬房の中で相変わらず落ち着きなくしていた。
「明日だぞ」
俺が声をかけると、黒鹿毛の耳が少しだけ動いた。
「お前はたぶん、我慢する馬じゃない」
返事はない。
「だから明日は、逃げろ」
サビツキノエンジンが鼻を鳴らした。
荒く、強く。
まるで、最初からそのつもりだと言うように。
「ただし、勝手に逃げるなよ」
俺は苦笑した。
「荒尾騎手と一緒に逃げろ」
馬房の奥で、黒い馬体がわずかに揺れた。
ハルサメノツキは、雨の大井を外から差した。
サビツキノエンジンは、乾いた砂を先頭で駆ける。
同じ勝ち方なんて、しなくていい。
馬にはそれぞれ、勝てる場所がある。
明日、それを証明する。
逃げるか、沈むか。
錆びついたエンジンが、本当に回るかどうかは、ゲートが開いた瞬間に分かる。




