第16話 錆びついたエンジン、点火
大井第六競走。
三歳未勝利、ダート一四〇〇メートル。
サビツキノエンジンの地方初戦は、乾いた馬場で迎えることになった。
馬場発表は良。
ハルサメノツキの時とは真逆だ。
雨はない。
湿った砂もない。
外からじわじわ伸びる展開でもない。
今日必要なのは、たった一つ。
前に行くこと。
それだけだった。
「単勝、二十一・七倍か」
俺はスマホのオッズ画面を見て呟いた。
サビツキノエンジンは七番人気。
一番人気は、前走二着の安定馬、ノーブルリード。単勝二・八倍。
二番人気は、調教時計が抜けていたトウカイアッシュ。単勝四・一倍。
三番人気は、内枠から先行できるマルヨシグラン。単勝五・三倍。
七番、サビツキノエンジン。
六枠七番。
単勝二十一・七倍。
複勝四・九倍から七・二倍。
中央からの転入初戦としては、まったく売れていないわけではない。
けれど、信用されているわけでもなかった。
近くの馬券売り場から、客の声が聞こえてくる。
「七番、中央帰りだろ?」
「成績見てみろよ。先行して止まってばっかりだぞ」
「荒尾が乗るなら逃げるんじゃね?」
「逃げて四角で沈むやつだろ」
「名前がもう沈みそうなんだよな。サビツキノエンジンって」
「でもこういうの、地方替わりで一変あるぞ」
「あるかもしれんけど、二十一倍は罠っぽい」
言いたい放題だった。
でも、仕方ない。
サビツキノエンジンはまだ何も証明していない。
中央で六回負けた馬。
前に行って、直線で止まる馬。
気性難で、抑えが利かない馬。
馬柱だけ見れば、そういう馬だ。
でも。
俺には、違って見えた。
抑えられて怒る馬。
行きたいのに止められ続けた馬。
先頭に立った時だけ、ようやく息ができる馬。
「三上さん」
黒川先生が隣に立った。
「荒尾騎手とは話しました」
「作戦は?」
「逃げます」
短い答えだった。
分かりきっていることなのに、胸が鳴る。
「ただし、暴走ではありません」
「はい」
「出していく。主張する。ハナを取りに行く。でも、馬だけに任せない。荒尾騎手が主導権を持つ」
「はい」
「それができなければ、今日は終わります」
黒川先生の言葉は冷静だった。
その通りだ。
今日のサビツキノエンジンに、保険はない。
ハルサメノツキのように、後方から外へ出して脚を見る競馬ではない。
逃げる。
逃げられなければ終わり。
逃げても、気分よく行きすぎれば終わり。
抑えすぎても終わり。
細い糸の上を走るような作戦だった。
「怖いですね」
俺が言うと、黒川先生は少し意外そうに見た。
「怖いんですか?」
「怖いです」
「そう見えませんでした」
「顔に出さないようにしてるだけです」
「では、少し安心しました」
「安心?」
「怖さを分かっているなら、まだ大丈夫です」
黒川先生はそう言って、パドックへ視線を向けた。
サビツキノエンジンが出てきた。
黒鹿毛の馬体。
太い首。
力のある前脚。
目つきは相変わらず鋭い。
落ち着いている、とは言いがたい。
耳を動かし、首を高くし、時折ぐっと前へ行こうとする。
引き手の人間がそれをなだめる。
近くの客が言った。
「七番、気合い入りすぎじゃね?」
「いや、うるさいだろあれ」
「返し馬で暴走しそう」
「荒尾なら行かせるだろ」
「行かせて終わりだよ」
俺は、その声を聞きながらサビツキノエンジンを見続けた。
確かに危うい。
でも、中央時代の映像で見たような、怒り切った顔ではない。
今日は、前へ行きたがっているだけだ。
走る気持ちはある。
むしろ、ありすぎる。
それをどう使うか。
荒尾騎手がパドックに現れた。
赤い勝負服。
いつもの軽い笑み。
彼はサビツキノエンジンに跨る前に、俺の方を見た。
「馬主さん」
「はい」
「行きますよ」
それだけだった。
勝ちます、ではない。
頑張ります、でもない。
行きます。
この馬には、その言葉が一番合っていた。
「お願いします」
荒尾騎手が跨る。
サビツキノエンジンの耳がぴくりと動いた。
馬が騎手を確認する。
騎手も、馬を確認する。
荒尾騎手は手綱を短く持ちすぎない。
押さえつけない。
けれど、好き勝手にはさせない。
返し馬。
サビツキノエンジンは、馬場に入ると一気に前へ出ようとした。
しかし、荒尾騎手は喧嘩しなかった。
行かせる。
少しだけ行かせて、そこで収める。
黒鹿毛の馬体が乾いたダートを蹴った。
速い。
スタンドから声が上がる。
「七番、やっぱ速いな」
「でも掛かってないか?」
「いや、荒尾が持ってる」
「これハナ行けたら面白いかもな」
評価が、少しだけ揺れる。
オッズは最終で二十・三倍。
七番人気のまま。
発走時刻が近づく。
『まもなく大井第六競走、発走です』
各馬がゲート裏へ向かう。
一番人気ノーブルリードは落ち着いている。
二番人気トウカイアッシュは馬体がよく見える。
三番人気マルヨシグランは内枠から先行するだろう。
サビツキノエンジンは六枠七番。
真ん中より少し外。
内に速い馬が二頭。
外にも前へ行きたい馬が一頭。
簡単にハナを取れる並びではない。
「荒尾騎手、出しますかね」
俺が呟くと、黒川先生は言った。
「出すしかありません」
ゲート入りが進む。
サビツキノエンジンは一瞬だけ嫌がった。
だが、荒尾騎手が軽く首を撫でると、すっと収まった。
意外なほど、静かだった。
『全馬、ゲートに収まりました』
心臓の音が大きくなる。
ハルサメノツキの時とは違う緊張。
あの時は、届くかどうかを祈った。
今日は、まず前に行けるかどうか。
ゲートが開いた。
『スタートしました!』
サビツキノエンジンは、速かった。
一完歩目から、他の馬より前に出る。
内のマルヨシグランも出していく。
外のカイザーロードも押してくる。
だが、荒尾騎手は引かない。
押す。
さらに押す。
サビツキノエンジンの首が前へ伸びる。
『先手争いは激しくなりました! 内から三番マルヨシグラン! 外から七番サビツキノエンジン! さらに九番カイザーロードも前へ!』
「速いぞ」
「やり合ってる」
「荒尾、行きすぎだろ!」
「止まるぞこれ!」
スタンドの声がざわつく。
俺も一瞬、息を呑んだ。
速い。
確かに速い。
でも、サビツキノエンジンは怒っていない。
抑えられて首を上げる姿ではない。
前へ行けることを理解して、まっすぐ走っている。
荒尾騎手が、ほんの少しだけ手綱を絞る。
サビツキノエンジンは反抗しかけた。
だが、すぐにまた前へ出される。
喧嘩にならない。
騎手が馬の気持ちを折らず、ぎりぎりの線で操っている。
『先頭は七番サビツキノエンジン! ハナを取り切りました! 二番手にマルヨシグラン、三番手カイザーロード! 一番人気ノーブルリードは好位の内!』
ハナを取った。
その瞬間、サビツキノエンジンの走りが変わった。
首が安定する。
背中が沈む。
脚の回転が、荒々しさから力強さに変わる。
先頭。
誰にも前を塞がれない場所。
この馬が、初めて息をできる場所。
「いい」
俺は思わず言った。
黒川先生も黙って頷いている。
向こう正面。
サビツキノエンジンは先頭。
リードは一馬身半。
マルヨシグランが二番手。
カイザーロードが三番手。
ノーブルリードは四番手でじっとしている。
『先頭サビツキノエンジン、快調に飛ばしています! リードは二馬身! 荒尾迅、迷わず行きました!』
快調。
実況はそう言った。
だが、快調すぎるのも怖い。
「これ、持ちますかね」
近くの客が言う。
「いや、速いだろ」
「四角で捕まるやつ」
「でも気分よさそうだぞ」
「気分だけじゃ勝てねえよ」
そうだ。
気分だけでは勝てない。
逃げた馬は、最後に必ず問われる。
それは本物の脚なのか。
ただの前半の勢いだったのか。
三コーナー。
後続が少しずつ詰めてくる。
マルヨシグランが並びかけようとする。
ノーブルリードも外へ出して進出開始。
サビツキノエンジンの耳が動いた。
後ろの気配を感じたのかもしれない。
荒尾騎手の手が動く。
追うのではなく、なだめるように。
けれど、前へ進めと伝えるように。
『三コーナーへ! 先頭はまだサビツキノエンジン! マルヨシグランが迫る! 外からノーブルリードも上がってくる!』
「来たぞ」
「捕まる!」
「荒尾、残せ!」
スタンドの声が大きくなる。
四コーナー。
マルヨシグランが半馬身差まで迫る。
ノーブルリードも外から来る。
サビツキノエンジンは、まだ先頭。
だが、リードはない。
ここからだ。
中央では、ここで止まった。
抑えられ、怒り、直線に入る前に気持ちが切れていた。
今日は違う。
先頭で直線に入る。
自分の形で。
『四コーナーから直線へ! 先頭はサビツキノエンジン! マルヨシグランが並びかける! 外からノーブルリード!』
直線。
サビツキノエンジンの脚色が、一瞬鈍った。
俺の心臓が跳ねる。
止まるのか。
やっぱり、最後は甘いのか。
マルヨシグランが並ぶ。
ノーブルリードも迫る。
スタンドから声が飛ぶ。
「ほら止まった!」
「七番終わり!」
「ノーブル来る!」
その瞬間、荒尾騎手が右ムチを一発入れた。
サビツキノエンジンの耳が立つ。
止まりかけた黒鹿毛の馬体が、もう一度前へ出た。
『サビツキノエンジン、粘る! サビツキノエンジン、まだ先頭! マルヨシグラン並べない! 外からノーブルリード!』
「粘れ!」
俺は叫んでいた。
「粘れ、エンジン!」
荒尾騎手は追う。
サビツキノエンジンは応える。
速い脚じゃない。
伸びているわけでもない。
ただ、前を譲らない。
誰にも抑えられず、誰にも前を塞がれず、初めて自分の形で走っている。
その走りを、最後まで手放そうとしていない。
『残り百! サビツキノエンジン先頭! ノーブルリードが外から迫る! マルヨシグランは苦しい! サビツキノエンジン! ノーブルリード!』
差が詰まる。
一馬身。
半馬身。
クビ差。
ノーブルリードが迫る。
サビツキノエンジンの脚はもう限界に近い。
でも、首を下げた。
黒い馬体が、もう一度だけ地面を蹴った。
『サビツキノエンジン! サビツキノエンジン粘る! 外ノーブルリード届くか! サビツキノエンジン、今ゴールイン!』
ゴール板。
サビツキノエンジンが、先頭で駆け抜けた。
一瞬、音が消えた。
次の瞬間、スタンドがざわめきに包まれる。
「七番残った!?」
「逃げ切った!」
「二十一倍だぞ!」
「荒尾やりやがった!」
「買ってねえ!」
「単勝持ってる! 単勝持ってる!」
俺はその場で動けなかった。
勝った。
また、勝った。
ハルサメノツキとはまったく違う形で。
雨の大井を外から差した牝馬。
乾いたダートを先頭で逃げ切った牡馬。
勝ち方が違う。
必要な条件も違う。
騎手も違う。
でも、同じだった。
勝てる場所を見つけた時、馬は変わる。
「三上さん」
黒川先生の声が聞こえた。
振り向くと、彼女はいつもより少しだけ驚いた顔をしていた。
「逃げ切りましたね」
「はい」
「かなり危ない逃げでした」
「はい」
「でも」
黒川先生は、戻ってくるサビツキノエンジンを見た。
「この馬が初めて、最後まで走る気をなくさなかった」
その言葉に、胸が熱くなった。
引き上げてくるサビツキノエンジンは、息を荒くしていた。
全身から湯気が立っている。
黒鹿毛の馬体は砂まみれ。
目は鋭いまま。
でも、どこか満足げに見えた。
荒尾騎手が馬上で笑っている。
「馬主さん!」
「はい!」
「エンジン、回りましたよ!」
その言葉に、俺は思わず笑った。
サビツキノエンジンは鼻を鳴らした。
荒く、強く。
まるで、最初から壊れてなんかいなかったと言うように。
周囲の声が耳に入る。
「三上の馬、また穴開けたぞ」
「ハルサメノツキの馬主だろ?」
「今度は逃げ切りかよ」
「差し馬も逃げ馬も当てるのか?」
「いや、さすがに偶然だろ」
「でも二頭連続だぞ」
俺は、その声を聞きながらサビツキノエンジンを見た。
偶然。
そう思ってくれていい。
むしろ、そう思われているくらいでいい。
俺は《相馬眼》のことを誰にも話せない。
だから、結果で示すしかない。
ハルサメノツキは、勝てる場所を見つけた。
サビツキノエンジンは、走り方を許された。
どちらも、最初から強い馬だったわけじゃない。
ただ、人間が間違えていただけだ。
荒尾騎手が下馬し、俺の方へ歩いてきた。
「いやあ、危なかったですね」
「危なかったで済むんですか」
「勝ったので」
荒尾騎手は悪びれもなく笑う。
黒川先生が冷たい声で言った。
「最後、少し行きすぎです」
「でも残しました」
「次も同じだと捕まります」
「分かってますって」
「本当に?」
「半分くらい」
「荒尾騎手」
「すみません、全部分かってます」
そのやり取りに、俺はまた笑ってしまった。
サビツキノエンジンは、近くでまだ息を弾ませている。
俺はその首にそっと手を伸ばした。
一瞬、噛まれるかと思った。
でも、サビツキノエンジンは顔を背けただけだった。
触らせてはくれない。
けれど、拒絶もしなかった。
「よく走ったな」
俺は言った。
「錆びてなかった」
サビツキノエンジンは、こちらを見ないまま鼻を鳴らした。
勝ったから、すべて解決したわけじゃない。
この馬はまだ危うい。
逃げられなければ脆い。
気分を損ねれば走らない。
次は研究される。
それでも、今日の一勝は大きい。
人間がブレーキを踏み続けていた馬が、初めてアクセルを踏むことを許された。
そして、最後まで止まらなかった。
単勝二十・三倍。
七番人気。
二頭目の人気薄が、また大井の砂を騒がせた。
俺は空を見上げる。
今日は月も雨もない。
ただ乾いた砂の匂いと、まだ熱を持った黒い馬体がそこにあった。
ハルサメノツキとは違う。
それでいい。
馬にはそれぞれ、勝てる場所がある。
そのことを、また一頭が証明してくれた。




