第14話 逃げるしかない馬
サビツキノエンジンが黒川厩舎に来たのは、その三日後だった。
正式に買ったわけではない。
まずは数日、様子を見る。
調教で手に負えないなら、この話はなかったことにする。
黒川先生はそう言った。
そして、厩舎に来た初日。
サビツキノエンジンは、さっそく馬房の壁を蹴った。
「……元気ですね」
俺が言うと、黒川先生は無表情でこちらを見た。
「元気、という言葉で片づけるのは危険です」
「すみません」
「この馬は、かなり前向きです。いい意味でも、悪い意味でも」
馬房の中で、黒鹿毛の牡馬は落ち着きなく身体を動かしている。
耳を絞る。
首を振る。
鼻を鳴らす。
人が近づくと、目だけで睨む。
ハルサメノツキの不機嫌とは違う。
ハルは、触られるのが面倒くさいという顔をする。
サビツキノエンジンは、人間が自分を止める存在だと最初から決めつけているようだった。
「扱う側が怯むと、馬が勝ちます」
黒川先生が言う。
「でも、人間が力で抑え込もうとしても喧嘩になる。このタイプは一番難しいです」
「はい」
「三上さん、本当にこの馬を見たいんですね?」
「はい」
「救いたい、ではなく?」
その言葉に、俺は少し黙った。
救いたい。
その気持ちはある。
負け方を間違えられた馬。
走り方を許されなかった馬。
人間に合わない形を押しつけられた馬。
そういう馬を見ると、放っておけない。
でも黒川先生が言いたいことも分かる。
馬は物語のために走っているわけじゃない。
俺の感情で無理をさせれば、壊れるのは馬だ。
「見たいです」
俺は答えた。
「この馬が、本当に走れる形を」
黒川先生はしばらく俺を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「では、今日の運動を見て判断しましょう」
朝の馬場。
サビツキノエンジンが引かれて出てきた瞬間、周囲の空気が少し変わった。
「あれが中央から来た馬か」
「気性きつそうだな」
「黒川先生、また癖馬引き受けたのか」
調教助手たちの声が聞こえる。
サビツキノエンジンは、周りの馬を見るだけで身体に力が入っていた。
首を高く上げ、前へ前へと行こうとする。
乗っているのは黒川厩舎のベテラン助手、田崎さんだった。
最初は常歩。
それだけでも、サビツキノエンジンは我慢できない。
もっと行かせろ。
前へ行かせろ。
そう言っているみたいに、口を割り、手綱に反抗する。
「きついですね」
俺は思わず呟いた。
「ええ」
黒川先生は腕を組んだまま答える。
「抑えると、上に逃げます」
「はい」
「でも、完全に行かせると制御できなくなる可能性がある」
「……はい」
「この馬で逃げるというのは、ただ放すことではありません」
その通りだった。
俺は映像で見た。
そして、相馬眼でも見た。
この馬は、逃げることで力を出せる。
だが、それは暴走させるという意味じゃない。
先頭に立たせる。
砂を被らせない。
揉まれない。
けれど、馬の気持ちだけで走らせない。
それができなければ、ただの暴走だ。
馬場に入ったサビツキノエンジンが、軽くキャンターに移る。
最初の数完歩で、明らかに行きたがった。
田崎さんが手綱を抑える。
サビツキノエンジンの首が跳ねる。
背中が硬くなる。
リズムが崩れる。
脚が前へ出ているのに、身体全体が噛み合っていない。
「これです」
黒川先生が言った。
「中央で何度も見せていた形でしょう。抑える。怒る。背中を使えない。最後に止まる」
「はい」
「では、あなたならどうしますか?」
俺は息を吸った。
「一度、行かせます」
「どこまで?」
「先頭に立つまで」
「そのあと、止められなかったら?」
「……止まります」
「レースなら、それで終わりです」
「はい」
「調教でも危険です」
「はい」
黒川先生の言葉は厳しい。
でも、俺は目を逸らさなかった。
「それでも、この馬は先頭に立たせないと分からないと思います」
「根拠は?」
来た。
いつもの質問。
俺は、頭の中に浮かぶ文字を必死に現実の言葉に変える。
《脚質:逃げ》
《条件:揉まれない単騎先行》
《注意:抑える競馬では能力低下》
そのまま言うわけにはいかない。
「この馬、抑えられること自体に反応してる気がします」
「気がする」
「はい。前へ行きたい馬を、無理に後ろへ置こうとしている。だから喧嘩になる。喧嘩した時点で、脚を使う前に体力も気持ちも削られている」
「続けて」
「最初から行かせたら、少なくとも喧嘩は減ると思います。抑えて負けるより、先頭でどこまで粘れるかを見たいです」
黒川先生は黙っていた。
馬場では、サビツキノエンジンがまた首を上げている。
田崎さんも無理はしていない。
だが、あれ以上抑えると本格的に喧嘩になる。
黒川先生が、馬場の方へ声を飛ばした。
「田崎さん、一度前へ」
田崎さんが軽く頷いた。
手綱が少し緩む。
その瞬間、サビツキノエンジンの走りが変わった。
首が前へ伸びる。
背中が沈む。
脚の回転が速くなる。
黒い馬体が、馬場の外めをすっと抜け出した。
速い。
ただ速いだけじゃない。
抑えられていた時のぎこちなさが消えた。
前へ進む力が、まっすぐ地面に伝わっている。
「……変わった」
俺は呟いた。
黒川先生も目を細めている。
サビツキノエンジンは先頭に立つと、少しだけ落ち着いた。
耳は立っている。
口も割っていない。
前へ行きたがる気持ちは強いままだが、喧嘩はしていない。
これだ。
この馬は、誰かの後ろで我慢する馬じゃない。
先頭で、ようやく息ができる。
しかし、良かったのはそこまでだった。
直線に入る手前で、サビツキノエンジンはさらに行こうとした。
田崎さんが軽く抑える。
また首が上がる。
リズムが乱れる。
さっきまでのまっすぐな走りが、少しずつ荒くなる。
「止め時が難しい」
黒川先生が低く言った。
「はい」
「行かせれば良くなる。でも行きすぎると危ない。これは、乗り手をかなり選びます」
サビツキノエンジンが一周を終えて戻ってくる。
息は上がっている。
だが、目は死んでいない。
むしろ、さっきより少しだけ機嫌がいいようにも見えた。
田崎さんが苦笑しながら下りる。
「いやあ、これは難しいですね」
「どうでした?」
黒川先生が聞く。
「抑えると喧嘩します。行かせると気持ちよく走ります。ただ、気持ちよくなりすぎる。こっちが主導権を持てないと、レースになりません」
「使うなら?」
「逃げしかないでしょうね」
田崎さんは即答した。
「ただし、半端な逃げじゃダメです。出して、主張して、馬に“今日は前でいいんだ”と分からせる必要があります」
俺の胸が鳴った。
同じだ。
俺が見たものと、現場の感覚が重なっている。
黒川先生が俺を見る。
「嬉しそうですね」
「顔に出てましたか」
「出ています」
「すみません」
「謝るところではありません。ただし、ここからが問題です」
「騎手、ですよね」
黒川先生は頷いた。
「浅倉くんではありません」
「はい」
俺もそう思っていた。
浅倉蓮は丁寧な騎手だ。
馬のリズムを壊さず、待てる。
だからハルサメノツキには合った。
でもサビツキノエンジンに必要なのは、待つ騎手じゃない。
腹を括って、行き切れる騎手だ。
「南関で、逃げ馬に乗せるなら何人か候補はいます」
黒川先生が言う。
「ただ、この馬の場合は綺麗に乗る騎手より、多少強引でも主張できる騎手がいい」
「いますか?」
俺が聞くと、黒川先生は少しだけ嫌そうな顔をした。
「一人、います」
「嫌そうですね」
「癖が強いので」
「騎手もですか」
「ええ。馬も騎手も癖が強い組み合わせになります」
その時、厩舎の外から笑い声が聞こえた。
「先生、俺の悪口っすか?」
振り向くと、派手な赤いジャケットを着た騎手が立っていた。
年齢は三十代半ばくらい。
細身だが、目つきが鋭い。
笑っているのに、どこか油断ならない雰囲気がある。
黒川先生がため息をついた。
「呼んでいません」
「でも俺の名前出そうな空気でしたよね?」
「まだ出していません」
「じゃあ今出してくださいよ」
騎手は俺の方を見る。
「新しい馬主さん? ハルサメノツキの?」
「三上透です」
「へえ。あの雨の日の月の馬主さんか」
彼はにやっと笑った。
「俺、荒尾迅です。逃げる馬なら、だいたい俺に回ってきます」
荒尾迅。
名前は知っていた。
南関の中堅騎手。
勝率は特別高くない。
人気馬を安定して持ってくるタイプでもない。
だが、逃げ馬に乗せると妙に怖い。
行く時は行く。
引かない。
絡まれても主張する。
その代わり、沈む時は派手に沈む。
馬券客からはよく言われている。
荒尾は逃げるか沈むか。
黒川先生が言った。
「荒尾騎手。まだ依頼すると決めたわけではありません」
「この黒いの、見てましたよ」
荒尾騎手はサビツキノエンジンの方を見た。
「あれ、抑えたらダメなやつでしょ」
俺は思わず反応した。
「分かりますか?」
「見りゃ分かりますよ。俺も似たような馬に何度も振り落とされかけてるんで」
荒尾騎手は笑った。
「前に行きたいやつを後ろで我慢させるから怒るんです。だったら行かせりゃいい。まあ、行かせたあと止められるかは別問題ですけど」
黒川先生が冷たい目で見る。
「その“別問題”が一番大事です」
「分かってますって」
「分かっていない時があるから言っています」
「先生、俺に厳しいなあ」
「あなたは自分に甘いので」
会話だけで、二人の関係が少し分かった。
黒川先生は荒尾騎手を信用している。
ただし、全面的には任せたくない。
荒尾騎手は癖が強い。
でも、逃げ馬の感覚は確かだ。
荒尾騎手が俺を見る。
「三上さん、この馬買うんですか?」
「まだ決めていません」
「でも、気になってる顔してますね」
「分かりますか」
「馬主って、買う前の馬を見る時が一番顔に出るんですよ」
痛いところを突かれた。
荒尾騎手は、サビツキノエンジンの馬房を見て笑った。
「錆びついたエンジンねえ」
「どう思います?」
俺が聞くと、彼は即答した。
「錆びてるんじゃなくて、ずっとローギアで無理やり走らされてたんじゃないですか」
心臓が跳ねた。
俺が感じていたことと、ほとんど同じだった。
荒尾騎手は続ける。
「一回、最初からアクセル踏ませてみたいですね」
黒川先生が眉をひそめる。
「踏み抜かないでください」
「そこは馬と相談で」
「相談できないから困っているんです」
「先生、馬は意外と話聞いてますよ。こっちが腹括ってれば」
荒尾騎手は軽く肩をすくめた。
「で、三上さん」
「はい」
「もしこの馬を買って、ダート一四〇〇くらいで逃げさせるなら、俺に声かけてください」
一四〇〇。
また、同じ数字が出た。
俺が相馬眼で見た距離。
そして、俺が映像から導いた距離。
荒尾騎手も、同じ場所を見ている。
「一二〇〇じゃないんですか?」
試すように聞くと、荒尾騎手は首を横に振った。
「一二〇〇だと忙しすぎる。速い馬に絡まれて、ムキになって終わり。一六〇〇だとまだ長い。最初は一四〇〇。そこでハナ取って、どこまで粘れるか」
黒川先生が、ほんのわずかに目を細めた。
「三上さんと同じ見立てですね」
「へえ」
荒尾騎手が面白そうに俺を見る。
「馬主さん、分かってるじゃないですか」
褒められたのに、少し怖かった。
俺の見立ては、完全に自分だけのものじゃない。
ちゃんと現場の人間が見ても、筋は通っている。
それは安心でもあり、同時に逃げ道をなくすことでもあった。
この馬は、走れるかもしれない。
ただし、正しい乗り方をした時だけ。
そして、間違えれば危ない。
黒川先生が俺に向き直る。
「三上さん。今日見た通りです」
「はい」
「この馬には可能性があります。でも、ハルサメノツキより危険です」
「分かっています」
「買うなら、覚悟してください。勝つかもしれない。けれど、まったく制御できずに終わる可能性もあります」
俺はサビツキノエンジンを見た。
馬房の中で、黒鹿毛の牡馬はまだ落ち着きなく首を動かしている。
愛想はない。
扱いやすくもない。
きっと人気もない。
でも、先頭に立った瞬間だけ、あの馬は初めてまっすぐ走った。
それを見てしまった。
「買います」
言葉は、自然に出ていた。
黒川先生が小さくため息をつく。
「言うと思いました」
荒尾騎手が笑う。
「いいですねえ。こういう馬主さん、嫌いじゃないです」
「荒尾騎手」
黒川先生が釘を刺すように言った。
「まだあなたに頼むと決まったわけではありません」
「分かってますって」
荒尾騎手は笑ったまま、サビツキノエンジンを見た。
「でも、もし乗るなら」
その目が、一瞬だけ騎手の目になった。
「逃げますよ。半端には乗らない」
俺は頷いた。
「お願いします」
黒川先生はまたため息をついた。
「癖馬に、癖騎手に、癖馬主」
「先生も十分癖ありますよ」
荒尾騎手が言うと、黒川先生は冷たい視線を向けた。
「次に言ったら依頼しません」
「すみませんでした」
即座に頭を下げる荒尾騎手を見て、俺は思わず笑ってしまった。
サビツキノエンジンが馬房の中で鼻を鳴らす。
まるで、早く決めろと言うみたいに。
ハルサメノツキは、勝てる場所を見つけて初めて輝いた。
この馬は違う。
勝てる場所へ連れていく前に、まず走り方を許してやらなきゃいけない。
逃げるしかない馬。
その逃げが暴走なのか、武器なのか。
次のレースで、確かめることになる。




