九章
九章
**ユキナ**
雨が降っていた。冬の雨だった。冷たい雨。
三田にキャンパスが移ったことで、ユキナは五反田へ引越しをして、一人暮らしを始めた。
ハルアからデートの誘いが来ないのは、逆にありがたい。自然に、ハルアとの関係が解消されるのだとしたら、それも「あり」かと思われた。五反田に住まいを決めたのは、ハルアの家が近いからだったが、それも今となってはどうでもいいことだった。
五反田は、上品さと粗雑さを両方とも持っている。
ぷらっと居酒屋に行って酒を呑む。ユキナは、ワインより日本酒の方が好きだった。
小料理屋や小さな居酒屋に通うと、ユキナは、すぐに顔を覚えられた。そういう店では、カウンターに座ることが多く、ユキナは一杯の酒を、ものの五分で飲み干してしまう。いつも三杯くらい呑んだところで、お会計だった。
古老の常連さんと顔馴染みになる。
大学生だとわかると、大学を聞いてくる。慶應だと言うと、にんまりと、自分も慶應だと言うおじさんもいた。
「慶應なんざ、珍しくも何ともねえよ」
俊成というおじさんは、よく酒を奢ってくれた。
その代わり、お猪口に注いであげたりもしたが、それくらいのサービスは、全然嫌じゃなかった。
五反田の居酒屋では「ユキナちゃん」という名前は、よく通った。
新しく、また若い人が仲間になるのは、嬉しくないはずがなかった。
俊成さんは、品川に本社のある石油会社の人事部長で、ユキナの就職活動には、多大なる恩恵をもたらした。サクッと面接して、サクッと内定をもらった。俊成さんは、また、会社の若い衆を連れて、その居酒屋に来ることも度々あった。多くの若い男は、ユキナを好きになった。
もうほとんど同僚みたいなもので、戯れに一人がデートに誘うと、抜け駆けは許さんとばかりに、別の人からもデートの申し込みがあった。それは、ユキナにとっては、とても愉快なことで、ハルアのことを忘れて、年上の男と関わりあった。
「どいつがいいんだ?」
ユキナとサシ呑みの俊成さんは、ユキナに聞いた。「誰が一番好きだ?」
「大井さん」
「そうだと思ったよ」
大井鼎は二十八歳。鹿児島の出身で、九州大学を出ている。技術系で、研究職。給料もいい。どちらかというと無口な方だが、酒を呑むと陽気に変貌する。
ゲームをやったり、数学や物理、化学の本を読んだりするのが、休日の趣味で、恋愛なんてほとんど経験していなかった。でも、なんとなく雰囲気がよく、よくこんな人が、フリーでいるものだなと、感心する。おそらく、スペックが高すぎて、普通の女じゃ話が合わないのだろう。もちろん、ユキナも理系のトークができるわけではなかった。
でも鼎は、人に話を合わせに行くことが上手かった。鼎は、読んだ本の話を、わかりやすく説明する技術に長けていた。それが呼び水となって、ユキナは、最近読んだ小説の話を、訥々とではあるがするようになった。大井は、それを、とても丁寧に拾った。
「ユキナさんの説明は、とても親切ですね。それが面白い本であるとわかるように伝える術を持っている」
ユキナは、首を振ったが、嬉しかった。一度本を紹介すると、その本や、同じ作者の本を書店で探して、読んでくれる。それは、もしかしたら点数稼ぎなのかもしれないけど、純粋に自分に興味を持ってもらえていると、ユキナが思うのに、そう時間はかからなかった。
「職場の昼休みに本を読んでいると、からかわれます。また、ユキナさんのおすすめかー? って。その通りなんですがね。少し、恥ずかしい」
素直に思いを言葉にする。でも、ユキナのことを、本当に好きなのかと問われると、おそらく鼎は、逡巡した挙句に否定するだろう。大学生を恋人にすることへの抵抗感とか、年下すぎる感じとか、なんとなく直感している、ユキナの背後にいる「彼氏」の存在とか、さまざまなことが、鼎を躊躇させていた。
デートに誘われることは、一、二回あった。その時のユキナの戸惑いに、鼎は少し遠慮していた。妹にお昼ご飯を奢るくらいの感覚で、恋愛とは程遠いと、鼎は思っていた。
品川の水族館に行った時、ユキナは実に楽しかった。が、鼎の方といえば、サービスを提供するホテルマンのような顔で、ユキナはそれがとても不満だった。お昼ではなく、酒が入った夜だったら、思いの丈をぶつけることができるのに。そう思う自分に驚いた。
「私に興味ないですか?」
口をついて出た言葉に、ユキナはびっくりした。でもびっくりしたままで、終わらなかった。
「酔ったわけじゃないですよ。本心ですよ」
「ユキナさん、彼氏いるでしょ?」
「もうほとんどデートもしません!」
ユキナから、デートに誘った日。鼎と東京駅で待ち合わせて、鼎が予約してくれた日本料理屋に入った。「それにまだ、まだ一杯しか呑んでいないんです」
「興味がないわけじゃないですよ。でも、特別な人ってわけでもない」
「鼎さんにとって、特別って何ですか?」
「それがわかったら、苦労はしないよね?」
「特別じゃなくてもいいとは思わないってことですか?」
「僕の性格からすれば」
「デートしてくれるのは、どうしてですか?」
「もう少し、酒をお呑み」
そう言って、鼎は盃を空けて、もう一杯注文した。悔しくなって、ユキナもクッとあおり、同じタイミングでおかわりする。
ユキナは、すんと、洟を啜った。
「可愛げがないってことですか?」
「理解してもらえないのを、人のせいにしているってこと」
「嫌な言い方ですね」
「でも、そうだよね?」
鼎は微笑んだ。「違う?」
「違います。単に、うまく言葉が見つからないだけです」
「別にそれは、大した不自由ではないですよ。単に、感情の方がよっぽど複雑というだけで。いつか、その言葉を、引き出してくれる男が見つかるはずです。男じゃなくてもいいか。そういう人が、特別なんですよ」
「その突き放し方、好みです。鼎さんは、恋人が欲しくないんですか?」
「忙しいからねえ」
鼎は、この会、この会話を、肴にして実に美味しそうに酒を呑んだ。
**雨音**
「ハルアくん。私の部屋に来る?」
「どうしたの? いきなり」
「部屋掃除、手伝ってくれない?」
「部屋掃除? いいけど。『妹さん』は?」
「引っ越した」
横国での授業が終わった後、雨音は、ハルアを鎌倉の家に誘った。
実際、部屋はすごく散らかっていた。
ユキナがやっていた家事。主に洗濯と料理は、散々なことになっていた。
ゴミ出しだけは、なんとかやっていたけれど、それでもシンクは洗われていない皿やコップで一杯で、服は脱ぎ散らかしてあった。その整理だけで、半日かかるほどだった。服をたたみ、掃除機をかけ、シーツを洗濯し、皿を洗った。
「いやー、こういうの、得意じゃないんだよねー」
「雨音は、何が得意なんだ?」
「お、そんな挑戦的な態度で来る。キスは得意だよ」
唇を重ねる。
かちゃりと鍵が開いた音がした。
「雨音ー」
「ユキ、な」
「連絡が、つかないから、心配したんですよ。そっか、彼氏と部屋の掃除をしていたんですね」
「ゆき、な。」
「別にいいですよ。もう別れようと思っていたところでしたから」
雨音は、クッとハルアの胸を押した。
「ハルアくんは? 妹から姉に乗り換えたの?」
ハルアは無言だった。ただ、やましいことがあるという表情ではなかった。もうすでに、ユキナとは切れている。そう思っている顔だった。
ハルアはユキナのいる玄関の方へ、カツカツと寄って、途中でカバンを拾い、そのまま外に出て、帰ってこなかった。
「ゴミかよ」
ユキナは毒づいた。
「ユキナ。ごめん」
「雨音は、わかっていたんですか?」
「わかっていた。ごめん」
「すごいですね。私、そんなことができるお姉ちゃんの妹なんですか。いやですね。私も、そういうふうなこと、しちゃうんですかね?」
「ユキナ」
「私は、どうでもいいですよ。そろそろ、雨音の部屋すごいことになってるだろうなーって、この前のチャットを、雨音は、私の恋人との相引きの材料に使ったんですね?」
雨音は、唇を内側に噛み寄せて、眼球を引き寄せ、今にも膝をつきそうだった。
「ユキナ、ごめん。私が悪かった。こんなの、続くはずなかったんだ。たまたま、偶然ユキナと同じ人を好きになっちゃったけど、私にとって、ユキナは失いたくない、大切な存在だ。だから」
「帰ります。食材買ってきていたんですけど、使ってください」
「ユキナ。本当に、ごめん」
かちゃんと、また鍵がかかった。外から、心を閉ざすことなんて、簡単だとでもいうように、あっさりと。
鎌倉駅のホームで、ユキナとハルアは出くわした。待っていたのかもしれない。上から、ユキナを見下ろしていた。
「どうしたんですか? 一緒に帰りますか?」
ハルアは答えなかったが、首を振ったわけでもなかった。少し話さなくてはいけないと、思っていたのかもしれない。
「考えると、かなりゾッとしますね」
「そりゃそうだろうね」
「雨音の方が、楽でしたか?」
「そういう側面は否めない」
ユキナは、笑んだ。
こういうことがあって、ユキナを見ると、ハルアには意外にも、ユキナのことをまだ好きな自分がいることに気づいた。でもそれは、かつて好きだったという事実の残滓でしかない。
ハルアは、別れを切り出した。
「雨音とは別れるんですか?」
「別れない」
最低なやつだな、と思ったが、ハルアの恋愛の自由は、それなりに認められるべきだ。ここで、表面的に「別れる」と言ったところで、本心はどうかわからない。
「いいですよ。私とハルアくんは、別れる。このことを確認するだけで、私は満足です。いい女になれなくて、すみませんでした」
ユキナはぺこりと頭を下げた。さらさらの髪がはらりと落ちた。
「こちらこそごめん。うまく、話ができなくて」
「雨音は可愛かったですか?」
「そんなこと、ユキナさんには、どうでもいいと思うけど」
「まあ、確かにそうですね。でも、姉に劣後しているという事実を突きつけられるのは、妹としては屈辱ですから」
「変わらないよ。ちょっとした特性と、生育環境の違いじゃないかな」
「都会人は、都会人が好き、と」
ユキナは、冗談を言ったつもりだった。でもその自嘲気味の自分の言葉が、雨音と自分の違い、飲み込めない事実を、突きつけられているような気がした。
ユキナのスマホに、雨音から着信があった。
「ユキナ」
「もしもし、どうしました雨音」
ユキナの声は、平常運転も平常運転。姉を気遣う声は、本当に何も含むところがないみたいだった。
「ユキナ、ご飯食べたい。新宿から鎌倉帰るのやだ。五反田に泊まっていい?」
「いいですよ。ユキナ。私の行きつけの居酒屋に行きましょう。雨音を紹介しますよ」
「行きつけの居酒屋ぁ? お酒呑むの、ユキナ?」
「呑みます。何歳だと思っているんですか」
「そっか、ユキナ、お姉さんだね」
「何時に五反田ですか?」
「うーん、八時」
「二十時ですね。では五反田駅で」
駅から少し行ったところ、呑み屋街の一角。
「ユキナちゃん。っと、お友達かい?」
「俊成さん。姉です姉」
「こんばんはー」
「こんばんは、おじさま。雨音と言います」
「姉妹揃って、美人だねえ」
(ユキナ、あのおじさん誰?)
(石油会社の人事部長です)
(へえ。見えねー)
ユキナはカウンターに座って、隣に雨音を置くと、早速おつまみと日本酒を頼んだ。
「私、ビールでもいい?」
「もちろんですよ、雨音。遠慮しないでください」
ユキナが、楚々とした風情を保ちつつ、綺麗に酒を呑む姿は、じんわりくるものがあった。
ユキナは酒に強く、雨音がビール二杯で結構酔っ払ったのに対して、崩れることがなかった。
「だって、しょうがないじゃんかよお。ユキナが彼氏ができたって、そんなの嬉しくないわけがないよ。でもさあ、なんか欲しくなっちゃったんだもんよお」
「そんなこと言われましても。ハルアくんにはきちんと言うんですよ? 浮気だけはダメだって」
「言われなくても。今度会ったら、ちゃんと聞くから。ユキナとはどんなことしたの? って」
「そんなの、何もないですよ。ラーメンに行ったくらいです」
「ラーメン? 何それ。ただの太る塩味のお湯じゃん」
「私もそういう認識でしたよ。でも、五反田のラーメン屋は、結構美味しかったです」
「『ラーメン絹糸』かい?」
俊成が、こちらを見ずに、グラスを傾けた。
「さすが俊成さんですね。なんでも知っていらっしゃる」
「女の子を連れて行くのにはいいラーメン屋だよね。スープも上品で。彼氏かい? 鼎くんが、嫉妬するね」
「私の彼氏ではなくなりました。今は、姉の彼氏です」
「そりゃすごい。二人はそれで仲がいいの?」
「仲がいいわけないですよ。めっちゃ怒ってますからね」
「ごーめーんーって。ユキナ、奢るから、許してッ」
「本当にもう」
ユキナはキュイっとグラスをあおる。
「鼎くんもそろそろ仕事終わりだろ。今日は金曜日だし、呼んでカラオケでもどうだ?」
「いやです。また姉に取られるから」
「ユキナ、彼氏いるの?」
ユキナは、含みを持たせてから神妙に首を振った。
「この前振られちゃいました」
(なんだこいつ)
かすれる意識の中で、雨音は、妹を蔑んだ。
酒をかっくらった後で、ユキナの部屋に行く。すぐに冷たい麦茶が出てきた。
それを二杯飲むと、雨音はユキナのベッドの上にダイブして、寝た。
ユキナは目も当てられないとばかりに布団を敷いて、そこに自分の体を差し込んだ。
雨音が起きると、ユキナはもう支度をして、自宅を出ていた。「今電車」というスタンプがLINEに押されていて、冷蔵庫を開ける指示があった。冷蔵庫を開けると、小さなヨーグルトパックと、バナナがあった。他にもいろんな食材があったが、雨音はユキナの意を汲み取り、バナナとヨーグルトをいただいた。
「鍵はオートロックだから、物を忘れて締め出されないようにしてください」
「あいよ〜」
「バナナ食べました?」
「いただいたよ」
品川まで出るのがいいか。不思議な順路だ。
それにしても、ハルアが来ている時に限って、ユキナの連絡を取り損ねてしまう。運が悪いのか、いいのかわからない。傷は深くない。それに、いざとなればユキナなんて切ってしまえばいい。
雨音は、自分が心中でどれほど冷酷なのか、きちんと自覚していた。
恋愛は、大体の場合、いつでも「解答」を出せるものだ。
そんなに深くならない。誰も、雨音の深いところまで手を伸ばすことはできない。たとえユキナであっても、雨音が本当に考えていることはわからない。
講義を受けた後、雨音は図書館で勉強し、一時間ほどで切り上げると、ハルアに連絡した。いつものように、正門で待ち合わせる。
「もう連絡くれないかと思ったけど」
「ユキナに気兼ねして? 私が?」
「そういうタイプだと思っていた」
「みくびられたなー」
「それは失礼」
雨音はハルアの腕を肩で押した。よろけたハルアの右手に手を差し出した。
正門から、地下鉄まで少し長い距離を歩く。横国はこれが難儀なのだ。
ポニーテールにしている長い髪、後ろにのぞくうなじ、焼けた肌に赤い唇。ユキナの方が、可愛いかとも思うけれど、ハルアにとっては、これはこれで悪くない。
横浜で、タイ料理の店に入った。駅ビルの商業施設のレストランだ。
「どうして鎌倉にしたの?」
「鎌倉は、ユキナが選んだんだ。きっと、松本に似ていると思ったんだろうね」
ユキナの名前が出て、ハルアは押し黙った。
「なになに? 気にしちゃってる感じかな? 私だって、そりゃわだかまりはありますよー? でも、私のこと好きなら、胸を張ってよね」
「難しいよ」
「正直だね。私とユキナなんて、ほとんど他人みたいなものだよ。ユキナだって、ハルアと別れる前に、他の男とデートしていたみたいだし。そんなの、気にするだけ損。そうじゃない?」
ハルアは、首を振った。
「僕は最初からわかっていたから」
「私だってわかってた。同じ穴のムジナね」
「嫌にならない?」
「こういう、薄暗いところがある方が、よっぽど楽しい」
「どうして?」
「だってそっちの方が、ハルアは私に自己開示するでしょ?」
「自己開示?」
「ハルアの、のっぺりとした表面が、ユキナは嫌になったんでしょ? 私だって嫌になるよ。深みがないとか、厚みがないとか。でも、私は、そうは思わない。ハルアは綺麗なだけじゃないと、私は思いたいんだよ。男が内面に抱える孤独に触れられるのは、女の特権だと思うんだよね」
「内面なんて、大したものないよ」
「だとしたら、なんで人と付き合うの? そうだなー。単に女の子と話すのが楽しいから、とか? それとも、彼女持ちっていうステータスの問題? それでもいいよ。結構だよ」
「なんでそんなに人を受け入れられるの?」
「受け入れているんじゃないよ。関心がないんだよ」
「関心がない? 逆じゃないのか?」
「私は、わかるってだけ。私の本心は、どこか別のところにある」
雨音は、ニンマリと笑った。
雨音は、手を繋げば嬉しそうにするし、話せば興味深そうにうなずいた。むすっとして、エスカレーターを行く他のカップルとは違った。会話は機知に富んでいて、笑顔はとても魅力的だった。その裏に、深くたたえられた内面の海あるなんて、誰も知らなかった。その存在を、雨音本人でさえ、完全に理解しているわけじゃなかった。
瑞江だったら?
あの、コーヒーを飲んで、閉店を待つ瑞江の「繰り返し」が、どんな意味を持つのかはわからないまでも、何かを雄弁に語っているのは、間違いない。
そういえば、もうしばらく瑞江を見ていなかった。




