八章
八章
**ユキナ**
慶應で、瑞江とすれ違っても、もう挨拶もしなくなった。すれ違う時は、いつも二人とも、一人で歩いている時なのだから、話してもよかったのに。
瑞江が、雨音の働く喫茶店に来ることは聞いていたから、ユキナは、やるせなさを感じていた。瑞江は、世界から嫌われている。彼は、世界と絡み合うことができない。誰かが突き放してくれることもない。
瑞江の偏見によって強いられた歪みを遠ざけるために、ユキナはハルアを選んだのだと思う。そうすると、全ての行動の原因は、瑞江に端を発するものとなる。癪だ。
でも、とても人間らしいコミュニケーションだ。一方通行で、齟齬があって、不愉快で、無意味で……。人間関係というものが、精妙にできていることを、強くユキナにわからせるものだ。
逆にハルアとのやりとりは、一つの定型に自分を落とし込む作業だ。
男女という両項の間のバランスを保つために、重りを天秤にかける作業。偏りすぎてはいけない。性格というものの一貫性を、失してしまってはいけない。ただ、それさえ守れば、快適なコミュニケーションが待っている。快適が最後の目的だとするなら、目的は全て達成されているし、これからやることも、それに類する作業だ。
こんなふうに、ハルアを軽んじることができるのも、翻って、瑞江のおかげだし、ハルアをそういう意味で評価することができるのも、同じように瑞江のおかげだった。
「どうしたの?」
「なんでもありません」
ユキナはハルアの前では、いつも笑っていた。その笑顔は、瑞江に向けていたものとは違っていた。瑞江はいつも、ユキナのおためごかしの笑顔を引き出していた。防御を必要とする、徹底した攻撃を加えていた。ハルアに向けた笑顔は、簡単な作り物の仮面で、外界と接触するための薄い膜のようなものだった。
話すことがないな、と、ハルアに対して思うようになったのは、七回目のデートの時だった。ユキナは、ハルアが話しかけてくるのを待つようになった。無言でいられるのは、信頼しているからだ、というような言説を、ユキナは信じていなかった。雨音と会話が途切れないのだから、それはすでに反証されている。ハルアは、言葉を探す時間が多くなった。
「ごめん、つまらなくて」
ハルアは、たびたび詫びた。それを否定するのが面倒だと、ユキナは感じていたが、ユキナは微笑んで首を振った。ユキナが、本当はどう思っているのか、表情から読み取れないのは、ハルアにとってもストレスだった。言い訳を挟む理由のほとんどが、ユキナの反応を解し損ねているからだ。
ハルアの理解は、とても貧弱なものだった。無口系とか、田舎者とか、そういう単純な解釈だ。都会的で洗練された会話が当たり前の空間で暮らしているハルアが、ユキナの心の深いところまで辿り着くのは、困難を極めた。表出することのない心情は、解釈できない。
でもユキナは、その現象に反して、豊かで深い感情を有していた。
「姉の方が、お似合いかもしれませんね」
と、言ったのは、ユキナがこぼした、鬱屈に対するささやかな抵抗だった。
**雨音**
横国の授業で、たまたま仏瀬という姓の女の子と、会話した。
それが、ユキナの姉だと、ハルアは信じられなかった。
「んー? どうしたのかなー? 私の顔に何かついている? それともメガネでも無くしちゃった?」
よく焼けた肌は、ユキナの白雪の肌とは違う。服装は、夏にふさわしいノースリーブのシャツで、背は、ユキナより五センチは低かった。
「いえ。珍しい苗字ですね」
雨音は、それが、ユキナの彼氏だということに、全く思いが至らなかった。授業が終わった後、雨音は、ハルアと学食で食事をした。
「浦、くん、っつうの?」
「ええ。浦ハルアです」
「ハルア? どっかで聞いたか。まあいいよ。東京?」
「目黒です」
「へえ、いいとこだね。きっと、私には想像もできないほど、美味しいものを食べて育ってきてるんだね? そうじゃなきゃ、そんなに背が高くならないよね」
ユキナが「姉の方が」と言った理由が、わかった気がした。こちらが話さなくても、いくらでも話題があふれてくる。
「高校は私立?」
「ええ」
「浦くんの生活って、割と上流だったりするの?」
「さあ、どうでしょう」
「比較したことがない?」
その挑戦的な瞳に、ハルアは囚われた。喉を鳴らす。視線を定める。意識して見ると、ユキナにはない美しさが、雨音から滲み出ているのに気づいた。
ユキナが青白いとしたら、雨音は赤橙だった。体温が高いだろう、活力があった。
「上流だったら何かあるの?」
「にっひひ、そんなこと、聞かなきゃわからない?」
「そんなこと、気にするタイプには見えないけど」
「学部は?」
「教育学部。理科専攻」
「今頃一般教養なんか取ってるんだ」
「それ、おんなじ質問していい?」
「だめだよ。当たり前じゃん。女の子困らせて楽しい?」
ハルアは首を振った。
「いい子だ。またどこかで会えたらいいね。LINE聞いてもいい?」
雨音は、その「浦ハルア」というLINE IDを登録して、風のように立ち去った。
「バイトがあるんだ。またね」
その授業の度に、ハルアは雨音を探した。雨音は、いつも大体同じ場所にいて、ハルアのために席を取っておいてくれていた。昼食を一緒に取るのが、その半期の習慣になった。
「目黒は、どの辺? 祐天寺? なんだおぼっちゃまか」
「そっちは?」
「私は、西新宿。おい、田舎者だと思ったな?」
「思ってないよ。ただ騒がしそうな街だと思っただけで」
「やっぱ軽蔑する? 新宿の女の子なんて、産み落とされし堕天の子みたいなとこあるよね」
「それで都立も新宿か」
「まだ、早稲田に行ってないだけ、上品だと思わない?」
「早稲田を悪く言うなよ」
「早稲田に恋人でもいるの?」
「いない。友達は何人かいるけど」
「そいつぁ重畳。友達がいるのは素敵なことだ。恋人はどこにいるの?」
ハルアは息を一瞬詰まらせた。
「どこでもいいか。ごめんね、変なこと聞いちゃって」
雨音は桁違いに駆け引きが上手い。
「最近、少しすれ違ってるんだ」
ハルアがそう言うのも、想定内。完全に誘導している。
「そう。私でガス抜きしてるんだ。ああ、いいのいいの。私だって、似たようなものだし」
「似たようなもの?」
「何でもないよ、お兄さん。ああ、私これからバイトだから、バイト上がりの私と、晩御飯でも一緒に食べる? それともお家でママが夕ご飯を作ってくれているのかな?」
「どこでバイトなんだ?」
「新宿」
「好きだな」
「そうね。それに、あなたと夜遅くまで、ご飯食べて、最悪鎌倉に帰れなくても、実家に寄れば、ねえ? 私の部屋あるし」
高島屋のレストランフロアで、雨音とハルアはベトナム料理を食べていた。
「こういうさあ、春巻きみたいなものを、女の子が好きだと思ってんでしょ?」
「違うの?」
「違わない。そういうのがさあ、癇に障るっていうかさあ」
「そりゃ悪かったね」
「すごいと思うよ。もったいないなあ」
「何が?」
「私の方が、いいと思わない?」
頬杖をついて、髪が垂れる。
「何と比べて?」
口の中がさぞや乾くだろうな。雨音はそう思った。ハルアは唾液を呑み込む。
「妹。ユキナと比べて」
「気づいていたのか」
「LINEアカウントの写真、ユキナの肩越しに見ていた」
「悪いと思わないのか?」
「浦くんは?」
「思うよ。罪悪感しかない」
「それにしては、ノリノリの顔しているけど」
「仏瀬さんが、引き出すのが上手いんだよ」
「ああ、妹と比べているの? よくないなあ。ユキナとは、寝たの?」
ハルアは首を振った。
「私も、別に男と寝ないよ? それでもいいの?」
「そんなことのために、人と付き合ったりしない」
「でも姉妹を同時に恋人にしようとしている」
ハルアは苦々しい笑みを浮かべた。
高島屋のレストランフロアから下りて、サザンテラスの、線路にかかった大橋を、手を繋いで渡った。高く聳えた新宿のビルは、月から、二人を隠していた。




