七章
七章
**ユキナ**
ハルアとのやりとりは、徐々に色を帯びていった。ユキナは、わずかな微笑みを頼りに、少しずつ好意を伝えていった。映画を見に行ったり、喫茶店巡りをしたり、食事を重ねたりして、打ち解けていった。
「東京は慣れた?」
ハルアは聞いた。
「ええ。ハルアくんのおかげです。いろんなところに連れて行ってもらって」
「どこか、将来住みたい町はある?」
「スカイツリーのあたりが、好きです」
「押上? いいよね。浅草も近いし」
「ハルアくんの目黒も、古い街ですけど、綺麗ですよね」
「お姉さんは西新宿だっけ?」
「あんなところには住みたくないですよ」
「便利だろうけど」
ユキナは首を振った。
よくユキナは松本のそばの話をする。ハルアは、それを聞くたびに、そばを啜っているユキナを想像しては、像が結べなくてフラストレーションを溜めていた。近似値を測ることを思い立って、ラーメンに誘う。
「私、ラーメンって食べたことないかもです」
ユキナの言葉に、ハルアは唖然とした。
ハルアは、行きつけの五反田のラーメン屋にユキナを連れて行った。高校時代に発掘した、自分だけの店だった。そこに連れていくのに、抵抗を感じなかったことからすると、ユキナは、ハルアの本命だった。もちろん、そんなこと、ユキナは知る由もない。店内は綺麗で、値段もそれなりにした。
醤油系のラーメン。トッピングがデフォルトで、かなりついていた。女性向けのメニューもあり、ユキナは、恐る恐る注文すると、麺を啜った。
音がプロだった。ちゅるん、という綺麗な音がした。その後、ユキナは顔を顰めた。
「美味しくなかった?」
「あちゅい」
ユキナは、そばを啜る感覚で、熱々の麺を啜ったものだから、舌を火傷してしまったらしい。水をごくごく飲んで、またちゅるんと啜った。今度はちゃんとふーふーしていた。
ユキナは結構健啖家なのか、汁も残さず飲んでいた。
会計の時、店主が、ハルアに目線で「よくやった」というメッセージを送っていた。いい女を捕まえたな、ということらしい。
小さい声で、ごちそうさまでした、と、ユキナは言った。ハルアもぺこりと頭を下げた。
「五反田も、初めて降りました」
「気づいたら、たくさんの駅で、ユキナさんと遊んでるね」
「おかげさまです。ありがとうございます」
「ユキナさん。改まって言うけど、僕の彼女になってくれませんか?」
「え、もう彼女なのかと思っていましたけど」
「え?」
「冗談です。ありがとうございます。喜んで、ハルアくん。私は、あなたの彼女ですよ」
「つまり、僕は、ユキナさんの彼氏ってことで、いいですか?」
「よくないはずが、ありません」
恋人になるのに、手続きがいるのは、人の本当の気持ちがわからないから。それが、絶対のテーゼだとしたら、人を好きになるというのは、一面エゴイスティックでもある。
ユキナは、気持ちを表現するのが苦手だから、想像や類推が必ず介在する。自然な関係、気の置けない仲。そういうSNSに載っている紋切り型を、どこか気にしながら、自分の人間関係を作っていく。
ユキナの恋人になるのは、とても大変だ。ユキナが、嬉しいと思っているかどうかを、表情から確かめることはできない。
「姉が、いつも言います。『私は表情豊かだけど、内心では人を侮蔑して生きている』。それは、高貴なことだと思います。自分を飾れるということです。それは、女の嗜みですから」
「無表情系も、最近は、流行りなんだよ?」
「ふ、私もあざとくなりましたね」
外で、手を繋いだりすることは、ほとんどなかった。それは、外聞を重んじているわけではなく、本当にどうしたらいいのかわからないからだった。でも何かを線引きしているようにハルアには感じられただろう。
東京の都会っ子付き合っていると、ユキナは全く意識してなかった。それは、少しだけハルアのプライドを傷つけた。ユキナには新宿に雨音がいた。姉が、導いてくれる東京の景色は、ユキナにとって新鮮であっても、特別なものではなかった。雨音が姉であることを、ユキナは自然なことだと思っていたから。
それに、松本も、空間の特別さで言えば、東京と何ら遜色がなかった。その美しい街は、街路も、川も山も、全てが清澄だった。
あのくっきりとした山肌を、東京の商業施設の空色のガラスに劣後していると、ユキナが思うはずがなかった。
**雨音**
新宿の喫茶店で働いている雨音は、その店に瑞江が来たことに、気づかなかった。午後五時で閉めるその喫茶店で、瑞江は「話すために」残っていた。瑞江は、雨音のシフトがわかると、その日だけ、最後まで店にいた。でも特に話しかけるわけでもなく、無言でコーヒーを飲んでいた。瑞江がコーヒーを飲んで、むすっとしているのは、実に似つかわしかった。
七回くらい、顔を合わせたところで、雨音は聞いた。
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
ユキナには、あれほど居丈高に振る舞うのに、雨音には全然だった。声をかけてほしいのだけれど、かけられると口を閉ざす。そんな来店の反復には意味が生じる。何か言いたいことがあるのではないかと、想像させる。瑞江は、何も言わなかった。何を考えているのかを考えさせる狙いがあるわけでもないだろう。ただ瑞江に心臓がついているだけだ。
無言のやり取りを交わすことで、影がないとか、風化した背中とか、そういうものを瑞江の風貌から見出したが、雨音はその原因を全て自分に帰した。勘違いかもしれないとか、自意識過剰とか、そんなことが脳裏をかすめることもなく、瑞江が、自分に会いに来たのだと、雨音はわかっていた。
「妹が、松本にいたのは、偶然だったのか?」
「運命の配剤だと思う?」
「妹のことなんかどうでもいい」
「私も、あなたのことはどうでもいいけど」
「重要なのは、お前だよ」
真面目くさって言う。
雨音は頭を傾けて、肩に向かって頭を振った。
「最近、大阪に行ったんだけどさ、行こうとしていたオムライス屋さんを探して、御堂筋を逆走していたの。どんどん目的地のオムライス屋さんから遠ざかる。おかしいなあって思ってたんだけど、私は、しばらく歩いて、このビルかなって思って、ビルに入った。そこには、オムライス屋さんがあったんだよね。そういうことでしょ?」
「そういうことじゃない。俺はたぶん逃げたんだ」
「あなたの引越しは、家族の事情だよね? 物語にしないでくれる。ただの偶然だから。私は、本当に、あなたのことがどうでもいい」
「そうか」
「この喫茶店に来るのは、いいよ。瑞江は、お客さんだから」
「お前、他の男には、軽口を叩くのに、俺には辛辣なんだな」
雨音は、そのせりふを聞き逃さなかった。返事を考える間もなく、瑞江は言葉を接いだ。
「でも、敵意は感じない」
「瑞江。そういうやり方で、何かを得たことはある?」
「お前も、ユキナと一緒だな。俺を諭して、突き放して、満足しようとする。相手を見下している人間の口調だよ」
「あなたは、私に懐柔されたいの?」
「いいや」
「一つだけ、あなたを評価するとしたら、無意識を抑圧していないこと。常に、自分のねじれた欲望を直視している」
「それがなんだ?」
「あなたの人間性は評価しないけど、あなたが自分の人間性に忠実であることは伝わる。正直に生きている。自分に酔っているのが伝わるから、あなたを否定するのは、とても心苦しい」
「仏瀬はどうして、俺を否定する?」
「単に、嫌いなだけよ」




