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六章

六章


**ユキナ**


 ユキナは、スキーに行った。


「大学受験をする娘を、滑らせるわけにはいかなかった」


 ユキナの母親はそう言って笑った。そういえばそうだ。そういう理由だったのか。確かに中学生くらいの時は、よく滑りに行っていたのに。


 ユキナは、雪に映えた。黒髪は、雪を流れる墨の川のようにしっとりと黒く、肌は、雪のように白かった。背筋を伸ばして遠くを見る様子は、気高い猛禽類のようだった。


 滑っている時、ユキナは、一人の女の子が、ルートを外れる動きをしているのを見かけた。少し考えて、ユキナはその子を追いかけた。スノボでぐんぐん進んでいく。かなりのスノボ上級者だ。十三歳か十四歳くらいの、可愛い感じの女の子。


「ねえ」


 ユキナが女の子に声をかけた。すごい勢いで、女の子が振り返る。


「こんにちは」

「こんにちは。そっちは、ルートを外れているよ」

「ルート?」

「帰れなくなるよ」

「すみません。ありがとうございます。兄がいなくなったから、兄が迷ったのかと思って、探しに行こうとしていました」

「それは優しいね。方向としてはこっち。それじゃあ」


 ユキナは、道を指し示した。


 スキー場の待合で、バスを待っていると、さっきの女の子が、家族を連れてやってきた。

 ユキナはウェアも道具もしまって、ただスマホを見ているだけだったが、その女の子は、ユキナに気づいたようだった。


「お姉さん」


 そう呼ぶ声は、話し方に比べて、ずいぶん大人びているように聞こえた。


「こんばんは」

「こんばんは。お姉さん。お兄ちゃん、さっき助けてくれた人の話したでしょ? お兄ちゃんがどっか行くから、心配してたのに、逆にミイラになっちゃった」


 女の子の兄は、ぺこりと頭を下げた。


「大学生ですか?」


 女の子の兄はうなずいた。


「東京から。地元の方ですか?」

「地元は近いです。大学は東京ですが」

「どこですか?」

「慶應です」

「僕は横国です」

「姉が横国に通っています」

「奇遇ですね」


「お兄ちゃん、しょうがないな。ユキナさんの隣の席は、譲ってあげてもいいよ」

「お前は、動画観るのに忙しいもんな」

「そういう言い方なくない?」

「後で聞いてやる。僕は、久々に他大の人と話せて、嬉しいんだよ」


 そういう、品のいいコミュニケーション。半歩前へ出る感じが、ユキナにはとても興味深く感じられた。

 浦ハルア。彼はそう自己紹介した。


「ハルアと呼んでください。友達はみんな名前で呼ぶ」

「ハルアくん。私は、仏瀬ユキナです。姓名どちらでも」

「よろしく、ユキナさん」


 ユキナがハルアとバスで話したのは、本当に他愛のないことだった。ハルアの話し口は、軽妙で、久々に男と話して楽しいと感じた。連絡先を交換したが、その先のことは、どちらも考えていなかった。

 鎌倉で、また雨音と生活を再開して、さりげなく、ハルアの話をした。


「会ったら?」


 雨音は言った。少し口元を引き結んで、浮つかないように。ユキナを茶化すのは本意ではない。


「いいのかな」

「ユキナから連絡もらって、嫌がる男なんかいないよ」

 ユキナは、スタンプを押して「もしよかったら、一緒に勉強でもしませんか?」とLINEした。

「よろこんで」


 返事はすぐに帰ってきた。

 授業のない平日に、二人は横浜駅で会った。


「どこに行きましょう?」


 ユキナは言った。勉強、などというのは、都合のいい口実でしかない。


「有隣堂でも歩きながら、少し話しましょう。外はまだ少し寒いから」


 ハルアの出身は東京の目黒だった。教育学部で、理科を専攻していた。背は、ユキナより、少し高く、短髪で、服の趣味が良かった。


「僕たちは勉強をするんでしたっけ?」

「そんなこと、誰か言いました?」


 二人でくすくす笑った。


「妹は、ユキナさんに会うと言ったら、実に生意気な顔で『私のおかげだね、お兄ちゃん』と言っていました。実に憎たらしい」

「私も、おかげを被っています。妹さんによろしくお伝えください」


 二人で笑った。


「どこに住んでいるんですか?」

「鎌倉です。姉と住んでいます」

「鎌倉は、いいところですよね。たまに、家族でご飯を食べに行きます」

「目黒から?」

「少し、海を見たい時もあるんです」


 飲茶を目当てに、中華街へ行った。失敗したと思った。よく行く店で、常連ぶってみたいと思っていたが、常連だから、男友達を連れていることもすぐに目についてしまう。「二名様ですか?」と、言われた時は、もう顔が真っ赤だった。


「行きつけがあるんですね」

「言わないでください」

「なんで? 地元でも、行きつけなんて、なかなか作れないですよ」


 味も、ハルアのお気に召したようだった。


「中華街って、当たり外れが激しいから、挑戦できなかったし、飲茶なんて、なかなかやらないからさ、勉強になったよ」

「一緒に勉強しましたね!」


 ユキナは、自分があまりに優等生的に振る舞うのに、驚いていた。遠慮しているのだろうか。最初だからだろうか。なんであれ、ハルアは、瑞江とは違った。


**雨音**


 春休み。雨音は、死ぬほどバイトとデートを入れた。ユキナには、自分のことは気にしないでくれと伝え、死ぬほど稼いで、死ぬほど使った。ナヅキと、ナヅキが捕まえた大学院生に紹介してもらった年上の男と付き合って、ダブルデートをした。東大生と付き合うのは楽だ。褒めていればいいのだ。知的なよいしょができるのが、雨音の美点だった。


 雨音があまりに可愛いので、ナヅキの彼氏がそちらになびきそうになる。ナヅキは、全然気づいていなかったから、大事には至らなかったけど、東大生のモラルの低さに、雨音は呆れ返るばかりだった。


「送るよ」

「いいえ、新宿まででいいです」

「でもさ。ほら心配だし」

「四六時中付き纏ったら、ストーカーですよ。はーと。ほらほら、彼女を信頼するのも、彼氏の役目ですって。心配しないで?」

「だけど、なんかあったらさ」

「だめ。鎌倉まで来たら、どうやって帰るの? 少しは考えてよね」

「すみません」

「物欲しそうにしていると、その弱み、突かれちゃうかもしれませんよ?」

「でもさ」

「愛の言葉は最後まで取っておいてください。それでは」


 背中を眺める彼氏に、一度だけ振り向いてやるのが、雨音流だった。


「やっぱり東大生は楽だねえ」

「雨音、見下していると痛い目に遭いますよ」

「大丈夫だよ。奴ら、純朴だから」

「雨音は、男の子の鋭い感性を知らないんですか?」

「鋭い感性?」

「単なる恋人と、人生を賭けた恋っていうのは、違うってことです」

「本の読み過ぎじゃない?」

「んんんー!」

「ごめんごめん。わかってるよ。年上もいいなって、少し思ったから行動してみただけだよ」


 ユキナは湯を沸かして、紅茶を作った。夜ふかしするための準備はできている。

 ユキナは、履修登録をして、雨音は、音楽を聴いて勉強していた。

 インターホンが鳴った。


「はいはいーッ、と、ユキナ出て。適当にはぐらかして」

「雨音、言わんこっちゃない。『こんばんは。どなたですか?』」

「雨音さんですか?」

「いえ。違います」

「あの、僕、仏瀬雨音さんの恋人の、谷と申します」

「こんばんは。どうかしましたか?」

「ちょっと、話がしたくて」

「雨音は今いません。日中に、お約束されてもいいかと思いますが」

「……」

「何か、伝言しましょうか?」

「あの、少し待っていてもいいですか?」

「お約束されていないのなら、どんなタイミングでもお会いできないと思いますが」

「でも僕、彼女の恋人ですので」

「でしたら、なおのこと、お約束されてからの方がいいかと思います。恋人関係というのは、礼儀や形式があってのことだと思いますので」

「あなたは、雨音さんの、ご家族ですか?」

「そのようなものです。印象が、最悪なのわかりますか?」

「でも、今日会わないと、死んでしまいそうで」

「おそらく、今日は会えないと思いますが、死なれるのですか? 救急車が必要でしょうか?」

「そういうことではなく、胸がはち切れそうで」


 雨音は、腹をよじって笑っていた。ユキナも、冷血の仮面はとっくの昔に溶けている。


「夜も遅くて、男の人が、訪ねてくるというのは」

「早く、開けろよ。いるんだろッ」


 ユキナがビクッとして、身を引いた。

 ドンと扉が叩かれる。

 雨音はインターホンの画面を消すと、速攻で警察を呼んだ。何度も鳴らされるインターホンを、ユキナはもう取らなかった。外で、警察と一悶着あったみたいで、時間をおいて再度インターホンが鳴った時、そこには谷はもういなかった。


「ユキナ、ごめん」

「怖かったです。東大生ってバカなんですね」

「本当にね」

「雨音が、弄ぶから」

「体が目当てなの、嫌だよねえ」


 雨音のスマホが鳴った。警察の電話だった。外にはもう、谷はいない。もう一度インターホンが鳴った。ユキナが声を出さずに繋げた。


「警察ですよー」

「こんばんは」

「110くれましたよね? お兄さんはもう警察署です」


 後ろに女性刑事もいた。ユキナはゆっくり扉を開けた。


「こんばんは」

「こんばんはー。警察ですよっと、美人姉妹だ。こりゃ気持ちわかるなー」

「冗談は嫌いですよ。おまわりさん」


 ユキナの後ろから、雨音が言った。女性刑事が、笑顔を見せた。


「大丈夫よ。怖かった?」

「少し」

「夜遅いけど、大丈夫? 風邪とか引いてない?」

「大丈夫です」


 ユキナが答える。


「じゃあ、ちょっと話を聞こうかな。警察署とか、来たことないよね? 緊張すると思うけど、我慢して」

「着替えよう、ユキナ。水筒とか持って行った方がいいかな?」

「雨音、ピクニックじゃないんだから」


 女性刑事は、くすくす笑った。警官もニコニコしている。


 警察署に行くまでに、白紙に基本情報を書き記していく刑事。

「へえ、お姉さんが横国で、妹さんが慶應。お父さんとお母さんは?」

「あ、それめんどくさいやつじゃん」


 雨音の口をついた。ユキナも眉間を押さえている。


「面倒?」

「母は、もういないんです。死んでいて、父は、親戚に私たちを預けて、どこにいるのやら」

「じゃあ、ご家族は、ご親戚ってことかしら?」

「はい」


 雨音が言った。「で、ユキナは違う親戚に預けられて、実家は松本なんです」


「長野の」

「だから、大学入った時、私たちは合流して。だから今の後見は、私の、仏瀬雨音の父母になると思います」

「仏瀬ユキナさんのご実家にも、連絡は入れていい? というか、入れるけど」

「はい……。ごめん、ユキナ」

「いいんですよ。でも言いましたよね、雨音。油断してるから」

「ごーめーんー」

「あなたたち、仲良いのね」


「徹夜しちゃったねえ」

「誰のせいですか」

「コーヒー飲む? 奢ってあげるよ?」

「これから寝るんですよ。雨音」

「そうだよねえ」


 お母さん来たよ。と、声があった。


 雨音はめちゃくちゃ怒られていた。ユキナには、とても申し訳なさそうに、松本には、きちんと伝えておくから、心配しないでくれと、声を低めていた。

 雨音の母親は、車に二人を入れて、警察署を後にした。警察にも腰低く、何度も頭を下げて、恐縮していた。

 雨音は、警察の言うとおり、谷をLINE上でブロックした。ナヅキにも、しばらく連絡がないと言うように伝えた。そうでなくとも、警察は、東大のブランドが台無しになるぞという脅しを、谷に加えていた。


 鎌倉の部屋に送ってもらえるのかと思っていたら、西新宿の実家に搬送された。雨音は気づいていなかった。というか寝ていた。

 起きたら西新宿で、朝七時。父親の雷が落ちて、雨音は涙目だった。家族はみんな、雨音のことを心配していた。父親は雨音の顔を見て、会社に行った。本当にホッとしているみたいだった。もちろん、警察から連絡きてから、ずっと起きている。つまり、ほとんど寝ていない。


 雨音とユキナは「眠さが限界.com」だったので、雨音の部屋で眠った。

 雨音は、昼過ぎに起きて、雨音の母親が作った食事をガツガツと食べた。ユキナも姉に倣って、食べられるだけ食べた。

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