五章
五章
**ユキナ**
東京の雪は雨に変わった。湿気がある分、寒さは余計に堪える。
「あの男を彼氏にするのは、ハードルが高いよね」
「あいつは、バカなんです。単に、私の容姿が好きなだけです。あとは全て、後からくっついてきた尾ひれですから」
「そんな単純には見えなかったよ?」
「何か、あいつにあるんですか?」
「何か、見えてるのかもね、知らんけど」(重ねていたのかもね、私と)
「ん? 何か言いましたか?」
「いいや」
「お世話になりました!」
「東京の部屋探しは手伝うよ。何なら一緒に住んでもいいし」
「受かっているかはわからないですよ」
「大丈夫だよ。心配するな」
新宿駅まで見送ってもらい、特急あずさに乗った。
姉の笑顔が移ったのか、何度も思い出して笑顔になってしまう。
甲府を抜ける頃から、雪になった。しんしんと雪が地面を埋める。
「お前、あんな笑顔するんだな」
「あんな? どんな笑顔?」
「自然で、安心した、反吐が出るほど嫌いな笑顔だ」
「私を指弾して、何か得られるものはありました?」
「あの笑顔は悪くなかった」
「反吐が出たのでは?」
「でも、悪くなかった。写真に収めておけば良かったと思った」
「大変お世話になりました」
その笑顔は、自然で、好意に満ちあふれていた。
「慶應で、会うだろ?」
「あなたが、話しかけてくれるのなら」
それは美しい「非」対称性だった。興味や好意といった人間的関心を全て後ろに追いやった、意味のある社交辞令だった。本音、というやつだろう。
「受からないと思ったか?」
「いいえ。あなたは、受かるだろうなと思っていました」
「まるで、見透かしたように言うんだな」
首を傾げると、髪がさらりと肩からこぼれた。
「でも、残念ですね。頭の悪い私が、受かってしまいました」
「黙れ」
「でも、あなたは、私に言葉以外では迫ることがなかった。感謝しています」
「そんなの、当たり前だ」
「まあ、いいです。取り憑かれたままではやっていけない。雨音が好きだったんですか?」
「もう覚えていないよ。久々に会った時、その人だとはわからなかった。言葉遣いも、化粧も、顔つきも、変わっていた」
意気消沈したように、言葉を漏らす。瑞江は、肩を落とし、表情も老けて見えた。
「気をつけて。東京で会いましょう」
「仏瀬、俺は、お前に本音で話してほしかったんだ」
「何でですか? どうでもいい相手から、世辞や嘘を吐かれても、普通は気にしないですよね」
「だから、俺にとって、お前は、どうでもいい相手では、なかったん、だと、思う」
「私にとって、あなたは、最初はどうでもいい相手でした。でも、どんどん、重要な人になっていった。逆ですね。あなたにとっての私は、徐々に重要性を失っていった。当然です。私は、雨音の代わりではないのですから」
「お前さ、なんで敬語になったんだ?」
「さあ、何ででしょう? あなたに親近感が湧いたのかもしれません」
**雨音**
鎌倉に、2LDKの部屋を借りて、雨音とユキナは、暮らし始めた。
ユキナはかなりしっかりしていて、家事をこなし、リビングと自室の平穏は、維持し続けた。
「あまねーっ」
「ごめ、ごめって。ゴミでしょ? 洗濯物? お菓子の食べ残し? ごめー」
「全てです、全て。虫が湧きますよ?」
「それは嫌だ。あ、シャワー浴びるから、風呂掃除しておくよ」
「それは終わりました。早く浴びてください。知ってますよ? 三限終わりからデートですよね? 服は私が見繕い、クリーニングに出しておいたので。洗面所に畳んでありますから、それを着てください。レストランも予約しました。渋谷ですよね?」
「そうだよおー、ごめんて」
「じゃあ、私先出ますからね? 二度寝しないでくださいね」
あくびをしつつも雨音は、授業を割と真面目に受けて、昼ごはんを食堂で食べ、三限終わりに渋谷まで急行する。渋谷のTSUTAYA前で待ち合わせするのは、昔っからやり方が変わらない。相手が、どんな奴だろうと、TSUTAYA前で会い損ねることなどないのだ。
「んん〜、そっかあ。音楽やってんだ。私、音楽は詳しくないんだよね。でもでも大丈夫。きっと好きになるよ。だって、私は君が好きだからな」
髪を纏めて、うなじを出す。握る手のひらが、運動していたからか、少し硬いのが、気になるだろうなとは思う。
わかりやすい趣味みたいなものはない。特に器用でもない。
ただ、相手が、どんなことを言われたいかが、わかるだけだ。男の子には、「好き」と言ってあげることにしている。言いづらいだろうから。それに、女から言っても、誰も困らない。どうせ、本当のことではないのだから。
「雨音は、そう言いますけど、私のことも、好きではないんですか?」
「そうだよ」
「少し傷つきます。でも、そのことを教えてくれるのは、私だから、ではないですか?」
「どうだろうねえ。私って、客観性ってものが欠落しているから。全ては自分の中の流行り廃りだよ」
「今どんな気分かってことですか?」
コーヒーを置いて、夜の勉強に備える。最近は二人で勉強している。
「気分っていうのは、私の心そのものだからさ」
「心そのものなんて、ないですよ。空洞に決まっています。でも、雨音は心があると思っているんですよね?」
「誠実なんだよ。そうは思わない?」
「主観的であることを、誠実だと言い換えたのは、雨音が初めてだと思います」
「面白いことを言うねえ」
鎌倉には冷たい雨が降っていた。二人で、鎌倉を散策する。二人の傘が、近づいたり、離れたりを繰り返しながら、峠とも言えるような坂を登り、中国式の長大な寺社を巡った。
海岸沿いの入り組んだ道の奥にある、二人の隠れ家的喫茶店で、窓の外を見ながらコーヒーを楽しむ。鎌倉に移ってから何度か来ているから、もう常連さんだった。
「チーズケーキおいひいね」
「ええ。雨音は、本当に甘いものを食べるのが好きですね」
「ユキナは? なんか好きなものないの?」
「私は、松本のそばが、本当に好きなんです」
「そばねえ。東京ではそばは食べないね」
「おいしくないし、高い」
「そうかもねえ」
唇でティースプーンを咥えながら、窓の向こうを見る。
夜になりかかっていた。点灯する街路灯が、鎌倉の輪郭を浮き彫りにする。
「綺麗だね」
「ええ。私は、雨音と暮らせて幸せです」
「お父さんは、何をしているんだろうね」
「さあ。微塵も噂を聞かないですね」
しばらく時間をおいて、ユキナが言った。
「お母さんはどんな人だったんでしょうね」
「そんなふうに言うの、初めてでしょ?」
雨音はユキナを指差した。
「育ててくれたお父さんとお母さんには、感謝していますよ」
「私もだよ」




