四章
四章
**ユキナ**
大学受験のシーズンがやってきた。
本ばかり読んでいたから、ユキナは受験勉強なんてほとんど手をつけていなかった。
育ての親は、お金は出すと息巻いていた。だから、慶應にすることにした。
英語は、そんなに苦手ではなかったし、授業はちゃんと聞いていたから、徐々に形にはなってきた。小論文はよくわからなかったが、文章を書くことは好きだったし、語彙もそれなりにあったから、参考書を一冊買って整えた。
慶應を目指したのは、ただ、大学の名前を知らなかったからなのかもしれない。瑞江にはもちろん言わなかった。
しばらく彼とは話さなかった。
松本には雪が降っていた。山肌は、白く、筋が通っていた。
この街から離れるんだ。青く、白く、濃い灰の、山々と別れることになる。
「そばがこんなに美味しいのに」
慶應の文学部は、私大の文学部の中では、間違いなく最難関で、そんなところを目指していると言ったら、笑われてしまうだろう。MARCHと日東駒専にもきちんと滑り止めを出して、雪で遅れがちな特急あずさに乗り、東京へ出た。
ホテルを取ろうと思ったのだが、受験生の流れに乗り遅れて、高級ホテルしか予約できない状況だった。
ユキナの育ての親は、考えて、仕方なく親戚の雨音の家に連絡した。
電話を取ったのは、雨音だった。
「いいーですよー。もーちろん。ユキナはいますか?」
「仏瀬ユキナです」
「仏瀬雨音です。こーんにちはー」
「こんにちは。お姉さん」
「初めまして?」
「そうかも」
二人は笑った。
「慶應受けるんだってー? やるう。お姉さんはねえ、横国なんだッ。勉強教えてあげるよー?」
「それは心強い」
「JR新宿駅南口で待ってる。西口はねえ、ちょっと待ち合わせしにくいから。南だよ? 南!」
「わかりました。お姉さん」
新宿駅で、待ち合わせしている雨音は、ダウンジャケットに短いスカート、黒ストッキングにブーツ。
やってきたユキナは、制服にコートを着ていた。
「お姉さん。ずいぶん人界仕様ですね」
「埋没しちゃう? そりゃ確かにそうかもな、って、せいふくー? せっかくの晴れ舞台なのに」
「だからですよ」
「学校が好きだった?」
「いい友達がいました。大学も同じところを受けるんです」
「一緒に来たの?」
「まさか、嫌われているんです」
「そりゃ、なかなかいい友達だ」
雨音は手を広げた。
「おかえり」
「ただいま。お姉さん」
ぎゅっと抱きしめる。
「いい匂いがするね」
「そりゃ、女の子ですから」
「ご飯何食べたい?」
「何でもいいです。お姉さんと一緒なら」
「東京は初めて? 今日の寝床は西新宿のタワマンだぞ」
「それはすごい」
「笑顔が可愛いね」
「友達には、いつも皮相的と揶揄されますが」
「表情に必然性を求めるなんざ、二流のすることよ」
「わかります、わかります。お姉さん」
「っと、私は、雨音だよ、ユキナ」
「はい、雨音」
「はい、じゃなくて、うん」
「うん。雨音」
「あー、ごめんごめん。机使いたいよね、課題が散らかってて、収拾がついてないや」
「いいですよ、雨音」
「ほとんどゴミみたいなもんだよ。片づけます! 待ってて、おかーさん。ユキナに家のこと教えるのは、私がやるからー」
「こちらの仏瀬さんにも、ご挨拶をと、父からお手紙と、お菓子を持って来ていて」
「あ、気にしなくていいのに。ねえ? お母さん」
「そういうわけには」
「家族なんだから。シーツ替えたし、ユキナはベッド使って。私は布団敷いて寝るね。勉強はとりあえずリビングで。お菓子もお茶もあるから、まずは、東洋大学ね。偉い! 滑り止めの過去問持ってるの、偉いよー」
「雨音、お願いがあるのですが」
「ん? 何だい?」
「電車に疎くて」
「任せなさい。受験会場には一緒に行くよ。お母さんに車出してもらってもいいけど、渋滞しちゃうと詰んじゃうから、電車で。そんな不安そうな顔しないで。あなたは、私の家族なんだから」
「ありがとう」
「彼氏も、慶應受かるといいね」
「彼氏じゃないです」
「何よ、嬉しそうに」
「嬉しそうじゃないです」
**雨音**
「眠れない?」
「少し。でも、それなら勉強をすれば」
「そんなことしてたら朝になっちゃうよ。ユキナ、雪が降り始めた。受験は、持久戦だよ。先走ったらダメ。最後に勝てばいいんだから」
「では、どうすれば」
「ココア作ってあげる」
寝室からリビングに移動して、雨音がキッチンでココアを作っている間、ユキナは英単語帳を見返していた。
「一年前、私もその『戦争』に行ったの。友達が泣いて帰ってきてさ、慶應の英語でvocationって単語が出たの」
「天職」
「そう。さすがだねえ」
「いえ」
「彼女はvolcanoだと思ったんだって」
「火山。……全然違う」
「でも、そう思ったの。ひどい『戦争』よね。弱い奴は確実に死ぬんだから」
「明日、vocationが出たら、感謝します」
ココアをトンとリビングテーブルの上に置いた。
「どう?」
「甘い。甘くて、温かいです」
声を聞いて、雨音の「母親」は廊下まで来たが、リビングへ通じる扉を開けなかった。
雨音の言葉は、緊張をほぐす。そういうように作られた、言語行為者なのだ。
「日吉まで行くのは、少し面倒だけど、お姉さんがついていく。でも、あんまり受験の話はしちゃダメだよ」
「どうしてですか?」
「他の受験生の反感を買うからね」
「関係ないでしょう」
「まあまあ、今日はどこでも受験やってんだ。終了は?」
「大体十七時です」
「お迎えに行くよ。お疲れ様会をしよう。ほらほら、雪だよ。そんなんじゃ寒くない?」
「寒くない」
「風邪ひくよー? ふふ、でも、これが終わったら、いくらでも風邪が引けるね」
「いやですよ」
「ほら行くよ。お弁当持った」
「何から何まですみません。雨音の受験は手伝えなかったのに」
ひらひらと雨音は手を振った。
「おかーさーん。いってきまーす」
都庁を抜けて、新宿駅西口に降りる。山手線で渋谷へ。渋谷駅から東横線の改札まで直行。
渋谷駅にはもう、慶應まっしぐら臨戦態勢の男の子女の子。
(半分は、雑魚だから、相手にしなくていいよ)
(受験の話はしないんじゃなかったんですか)
「雪は、蒸すね。暖房がうざったいね」
「ええ、送風にしてくれた方が、まだありがたいですよ」
「受験票、大丈夫? 濡れてない?」
「大丈夫です。きちんとありますよ」
「自由が丘乗り換えだよ」
「え、ええ?」
「さっきのは特急だからね」
「特急? 特急料金払ってないですよ!?」
「気にしなくていーの」
日吉に着く。
「気をつけて、いってらっしゃい」
「いってきます」
日吉駅で十七時にユキナを待ってた。十分経っても、二十分経っても、ユキナは来なかった。
メッセージアプリで様子を聞いたけれど、既読がつかなかった。
「まあ、いっか」
寒い中、水筒に入れた温かいお茶を飲みながら、彼女を待っていた。
「焼肉、予約していたんだけどなぁ」
電話が鳴った。
「雨音、どこですか」
「日吉駅だよー」
「すみません。同級生とばったり会って、話し込んでいました」
「好きな人?」
「ここでは言えません」
「お」
雨音は電話を切った。手を振る。
「後ろのが? ふん。なんだ、見たことがあるな」
「仏瀬」
瑞江がつぶやいた。
「お前、確か一個下だろ? 仏瀬先輩と呼べよ」
「嫌だね」
「何だ、ユキナが好きなのか。私に相手にされなかったから、次は妹かよ」
「相手を頼んだ覚えなんかないんだがな」
瑞江は言った。
「ユキナが慶應受けてるって知って、動揺したか?」
響きのいい声だった。矢のように突き刺さる、鋭いせりふ。
「少しな。悪趣味だから、糾弾したまでだ」
「女の子の気持ちがわっかんないんだねえ。よくそれで、そんな尊大に振る舞えるね」
「やっぱ姉妹だな。言うことが一緒だ」
「そりゃ、姉妹っていうより、お前に対する評価が、全世界共通ってことなんじゃないですかねえ? ユキナ、渋谷のパルコの上に、美味しい焼肉屋さんがあるんだー。予約してあるよ! 行こう」
「いつもすみません、んん」
雨音がユキナの手を取って引き寄せた。
「っと。危ない。ユキナの腕を取らないで」
「話は終わってねえんだよ」
「私の妹に触れるな。警察呼ぶよ?」
「呼べよ、仏瀬、関係ねえだろが」
ギリギリと雨音は歯軋りする。焼肉に間に合わない。
「いいじゃないですか、また、慶應で会いましょう?」
(PASMO用意して)
(右手に握りしめてますよ)
「走るよ!」
電車に滑り込む、ずんずんと車両を変えて、次の駅に着くと、すぐに降りて乗り換え、瑞江を撒いた。




