十章
十章
**ユキナ**
三年生の年末年始に、松本の実家へ帰った。松本は、例によって雪が降っていた。
駅前に、母親が車をつけてくれていて、そのまま行きつけの焼肉屋に直行して、一年の労苦をねぎらってくれた。
正月は、家の手伝いもさせてもらえなかった。ユキナは、ただ本を読んでいた。
届いた年賀状を仕分けするくらいが、ユキナの仕事だった。手が止まる。
差出人、仏瀬冬紀。父だった。大阪の天王寺とあった。
その手紙をすっと抜き取って、カバンに仕舞い、何食わぬ顔で年賀状を家族に手渡した。
間をおかずに天王寺に行った。松本から特急で名古屋まで行き、それから近鉄でなんばまで出た。父親の住所は、タワーマンションの一部屋を指し示していた。住所以外、何の手がかりも書かれていない年賀状。それをカバンに忍ばせたまま、スマホのマップとにらめっこする。
素早くインターホンを押した。何の言葉もなく、ユキナをマンション内に引き入れる。
それから29階の2号の前に立った。
自分の心が、平静を保っているのは、これまでの道中に障害がなかったから。
冬紀。父親の名前だ。
「お父さん?」
部屋に入ると、一人の女の人がいた。父親がいる気配はなかった。
「ユキナさん? それとも雨音さん?」
「私はユキナです」
「こんにちは。私は、仏瀬先生の秘書の濱宮です」
「こん、にちは」
「年賀状は、お姉さんにもお送りしましたが、お姉さんは、興味がなかったのかしら?」
「さあ。今更どうでもいいと思ったのかもしれません」
「お父様が危篤です。病院は、済生会です。今、私は、お部屋の整理をしていました」
「父は、何をしている人ですか?」
「作家です。ペンネームは秘匿していますから、ユキナさんが知ることは、ないと思います。もしかしたら、ユキナさんのことですから、もう読んでいるかもしれませんが」
「作家。」
「そうです。ユキナさん。最期を看取ってあげてください」
済生会までは、そう遠くはなかった。父は強い意志で、自分の身分を秘匿した。それが、どうしてなのか、確かめたかった。済生会の、ロビーで、二、三度首を振り、道を確かめる。濱宮が、見舞いの予約をしてくれていた。お菓子も何も持っていかなかった。
「お父さん」
父は、人工呼吸器に繋がれたまま、声を聞いたことにうなずくように、目を閉じたまま、首を動かした。
「お父さん?」
そこにいたのは、ただの歳を取った老人だった。自分の父と認めるところは、一切見当たらなかった。ユキナは、父親の荷物を漁った。でも何も出てこなかった。名刺の一枚たりとも、手がかりはなかった。
仏瀬冬紀が、どんな作家で、どんな人で、どうして自分たちを遠ざけたのか、ユキナは知りたかった。でも、冬紀の方は、それを決して知らせまいとしていた。ユキナは、落胆した。
どうでもいい。どうでもいい人の、死に目だ。
目を薄く開き、ユキナを見る老人から、言葉を聞き出すことは、容易なことではなかった。
年齢は、六十半ば。医師がやってきて、病状を説明した。癌らしかった。そんなことも、どうでもいい。ユキナは早く帰りたかった。
「何か、手紙とか、預かっていたりしませんか?」
ユキナは聞いた。きっとないだろうな、とは思っていた。想像通り、そんなものはなかった。
持ってあと数日。言伝のようなものも、特に医師は受け取っていなかった。
「お母さんは、どんな人だったの?」
ユキナが聞くと、冬紀は笑ったようなかすれ声を漏らした。それだけで、冬紀は死んだ。天王寺の部屋を再度訪れた。部屋は、実に綺麗さっぱりとしていた。業者が入ったのだろう。本や家具は取っ払われていた。じきに、部屋は売られる。
遺産の話だけ、簡単に濱宮から説明があった。あまり、熱心に聞いていなかったが、ユキナと雨音には、数千万円の遺産が入る。西新宿と松本の両家にも、一千万程度の遺産が配分される見込みだった。両家は、すでにその遺言の説明を受けていた。父親などなかったことにするくらいの勢いで両家は、その存在をユキナにも雨音にも伝えなかった。それが何だというのか。遺産が、一体何になる?
自分が知りたいのは家族のことだ。仏瀬冬紀なんて名前の作家は、知らないから、そのペンネームだけでも、知ることができないかと、ユキナは濱宮に喰い下がった。
濱宮は、口を割らなかった。
父親の、無様な姿を見て、悔しかった。もっと壮健で、威厳があって、特別な人だと思っていた。かつてはそうだったのかもしれない。
ユキナは空っぽの骨壷を渡されたみたいな、虚しい気持ちで、五反田へと帰った。
西新宿には届いていなかったのかと疑うくらい、雨音はそのことについて何も言わなかった。
父親に会いに行ったなんて、ユキナの口からは言えなかった。それに、あれが父親だったのだとしたら、それは、父親じゃなくてもよかった。自分とは何の関係もない人。それそのものだった。
父親のことなんか、忘れて、振り返ることもなく、自分の人生を送る。
そりゃそうだ。ユキナと雨音を育てたのは、父親ではなく、松本と西新宿の仏瀬の家だった。何が今更、父親なのだろう。
おそらく、雨音はもっとドライになれる。ユキナはそれがわかっていた。「どうでもいいよ」と、笑うだろう。「お金は、そりゃあるにこしたことないけどね」と、無邪気に言ってのけるだろう。
見返されることのない履歴に、ユキナはめまいを起こしそうだった。
母親についてだって、何の手がかりもない。
結局、ユキナはこの父親との接見を、雨音に伝えることはなかった。
全く長きに渡って、ユキナはこの記憶を深層心理に埋めた。例えば「鬼を見た」というような怪談が、人には全くフィクションとしてしか聞かれないように、ユキナは「父親に会った事がある」というフィクションを、誰にも話さなかった。それは、自分にとっても、人にとっても、余計な事だった。誰に何も付け足さないばかりか、人から温かみを引き剥がし、空虚にする。
生まれた子どもを埋めた。そういう挿話を思い出した。
自分は埋められた子どもなのだという自覚を強く持った。文学的な体験だった。
もしかしたら、雨音はすでにそういう感覚を持ち合わせているのかもしれない。全てを知っていて、なお、全てを等閑に付す事ができるのかもしれない。だとしたら、雨音は、立派な父親の娘である。
ユキナは、仮置きした父親の視点を得て、何となく納得するものがあった。「さようなら」とも言えない、醜い顔だった。そういう特別なことができる人だったのだから、孤独だったのだろう。母親を亡くしたのが、悔しかっただろうか。それとも、それも、どうでもよかったのだろうか。子どもの前に姿を現さない父親は、やはり、自分のことを余分だと考えていたのだろうか。
仏瀬の両家は、内々に葬式を済ませたらしい。
それも、ユキナは後から、伝え聞いた。
「どうでもいいよね」
雨音は笑っていた。「私の父親と母親は、まだ生きているしね」
「顔を見たいとは思わなかった?」
ユキナが聞くと、雨音は、大笑いして言った。
「それはさ、数回しか会ったことのない遠い親戚の『叔父さん』の死に顔みたいなもんだよ。見てもなんとも思わないさ。実質他人より遠いんだよ」
他人より遠い、というのはかなりわかりやすい例えだった。属性と感情の相性は必ずしもいいわけじゃない。
父の死に、ユキナは意味づけができなかった。それは、そもそも意味づけする必要がないということではなかった。必ず、明確にすべきことだったのに、その手立てが手元には存在しなかった。悲しんだり、惜しんだりするべきだと思う一方で、それをうまく消化できず、冷淡にもなりきれない自分がいた。雨音なら、そんなこと悩みもしないだろう。
住所だけ書かれた年賀状が届いたら、葬式があるということなのだ。
**雨音**
ハルアは、結構長続きする彼氏だった。
ハルアが、卒業して教師になり、雨音が、銀行に勤めて転勤をするようになっても、浮気なんかせず、適度に会って、関係を深め合った。
結婚するのは、流石にユキナに悪いかと思い、そんな軌道に話が行かないように、雨音は努めた。
ユキナに連絡を取るのもまばらになった。
雨音は、大阪で支店の営業に回された。
関西の地でも友達がたくさんできた。
中には、いいな、と思わせる人もいた。ユキナに軽蔑されたくないという思いで雑念を振り払う。
雨音は、時折、自分の心中深くに沈み込み、鬱々とした時間を過ごした。
誰にも理解されない悲しみを受け取り、そこから養分を搾り取った。気がつかないうちについた傷の痛みこそが、生の手応えとでもいうように。




