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十一章

十一章


**ユキナ**


 慶應三田のキャンパスで、最後に瑞江とすれ違ったのは、四年生の秋だった。

 瑞江は、無表情でユキナを素通りした。昔は鬼の仇のように掴んで離さなかったのに、どうしてだろう。瑞江は、大学で何かをしているようには見受けられなかった。生きている感じがなかった。ただ、魂が遊離して、キャンパスを浮遊しているかのようで、あまりに生命力がなかった。


 警察から連絡が来たのは、冬のことだった。


「瑞江さんについて、聞きたいことがあります」


 警察手帳を持って、自宅まで来た。


「私に、ですか?」


 どうして自分なのだろう? ユキナは、少し訝しんだ。


「あなたが、同郷だと、日記に書いてあったんです」

「彼に何かあったんですか?」

「消息を絶っているんです」

「彼の実家は松本です。私とは、何の関係もないかと思うのですが」

「高校時代は、とても仲が良かったと、彼の同級生が話していました」


 瑞江が、消息を絶った? そんな繊細なやつだったのかよ。

 警察は、まず、ユキナとの人間関係を探った。

 それは、瑞江が、日記か何かで、ユキナや雨音への心情を吐露していたことを示していた。


「雨音さんというのは?」

「姉です」

「今はどこに?」

「大阪にいます。関係ないと思いますよ。だって」


 その瞬間、警察の中で、何かがつながったみたいだった。刑事は交代し、質問を続けるが、時間繋ぎみたいなところがあった。また元の刑事に戻り、雨音の住所を聞いた。電話が繋がるかどうかを聞かれた。ユキナは、半信半疑で、雨音に電話を繋いだ。


「もう、あんまり連絡を取っていないので」


 そう言って、何回かコールを鳴らしたが、雨音は出なかった。


「どこにお勤めですか?」

「都市銀行のなんば支店です」


 警察が急いで動いた。全ての情報が、ユキナの元にあるみたいだった。


「お姉さんの職場に電話をかけましたが、数日連絡が取れていないみたいです」


 ユキナは、ぎりりと歯を喰いしばった。ハルアに電話をかけた。

 こちらは繋がった。


「最近、雨音から連絡がありましたか?」

「ごめん、連絡ありがとう。僕から連絡しても、しばらく返事がなかったんだ。ユキナさんに……」

「それは、具体的に何日前ですか?」

「ちょっと待って、何かあったの?」

「何日前かだけ、答えてください。後で、連絡を入れます」

「五日前だ。それまではやり取りがあった。愛想尽かされちゃったかなって、思って……」

「のろけは後で聞きます。ありがとうございました」


 五日前です。とユキナは、言った。警察はバタバタと動いた。

 ユキナは、また雨音を呼び出した。徒労に終わるとわかっていても、せざるを得なかった。

 警察は、ユキナの安全にも気を遣っていた。


「もしかしたら、あなたの所在も掴んでいるかもしれません」


 誘拐や拉致監禁に言及する。警官を置くから、不要不急の外出はするなと言った。


「大学は?」

「もってのほかです。彼は、おそらく、あなたが大学のどこで授業を受けているかを把握しています」

「でも、まさか。だって、そんな。そんなはずないですよ。彼は変でしたけど、悪い人ではなかった。誰かを傷つけたりする感じは、微塵も見受けられなかったのに」

「彼の部屋を見る限り、そうとは思えませんでした」


 ユキナは、その部屋を想像した。雨音やユキナの写真をコルクボードに貼ったくらいの、可愛い部屋。雨音への恋情を吐露した、詩の書かれた日記。どれも、微笑ましいものばかりだった。


 追って連絡すると言っていたハルアに、警察から連絡が行った。「危険だから、注意しろ」という単純なメッセージだが、ハルアはそれで、雨音のことを思って気が気じゃなくなった。


 警察は、最初想定していた瑞江の捜索から、雨音の捜索へと操作を切り替えた。大阪府警と連携を取り、通勤経路の防犯カメラを当たった。

 じきに誘拐に使われた車のナンバーが割り出され、車が停まっている場所を特定した。


 警察が入った時、雨音は、手首を錠で繋がれて、眠っていた。乱暴にされた形跡はなかった。


「瑞江は?」


 警察に聞かれて、雨音は首を振った。


「やっぱり、ユキナがいいって」


 雨音は笑った。引き攣った笑いだった。

 錠を外して、警察が雨音を保護した。


 事情聴取の前に、入院が必要なほど、雨音は衰弱していたが、一刻を争う事件として、聴取は強行された。何日にどこで誘拐されたのか、と聞かれ、雨音は答えた。


「知り合いです。ご飯でもどうかと誘われただけです。なんか変だなとは思いましたが、抵抗するも何も、昔馴染みですから。ユキナだって、そうすると思います」

「何日ですか?」

「十二月の十日です。今は、何日ですか?」

「今は、十二月の十七日」

「結構、乱暴に扱われました。女の子のことがよくわからなかったんでしょう。喉が渇いてしょうがなかったですけど、たまに来て、水を飲ませてくれました。性的暴行? 私たちは知り合いですし、暴行されたとは、思わなかった。洗脳? アニメの見過ぎでは?」


 雨音の返事は、どこか要領を欠いていた。自分で納得するための、自己防衛的な側面は、軽視できなかった。警察は「彼氏がいたのでは?」と聞こうと思ったが、それは控えた。雨音はきっとそれにこう答えるだろう。「誰とやっても関係ないですよ」と。

 どんなことを話したのか、聞かれたが、雨音はそれにうまく答えられなかった。


「とても、抽象的な話です。私と、ユキナを論難するような口調でしたけど、私は、ほら、この通り、適当なので、はぐらかしてしまいました。それが瑞江は、嫌だったのかも。私の体に触れることも、彼は抵抗があったみたいです。ちぐはぐですよね」


 ユキナが、病院に駆けつけた時、ハルアは、病院のロビーで面会謝絶されていた。


「かわいそうに。あなたが一番雨音のことを心配しているでしょうに」

「そんなことないでしょ。ユキナさんが一番、不安なんじゃない?」

「雨音が、しくじるはずはありません。死んでいないのなら、雨音の勝利です」


 ユキナは、雨音の家族の間から、顔を見せた。


「ゆーきーなー」


 雨音から元気のいい声が聞こえた。家族もやっと笑顔を見せた。


「雨音、痩せましたね」

「そうだよ。胸まで小さくなっちゃったかな」

「それは大丈夫です。立派ですよ」

「ユキナが、無事で良かった」


 雨音はユキナを見ると、笑った。


「目が、濁っていますね」

「わかる?」

「わかりますよ。雨音が何かを隠している時の目です」

「そんなふうに言わないでよ。よく考えている時の目、と言って」

「雨音は、彼を、許すんですね」

「裁断する立場にないからさ。私は、彼が、結構好きだ」

「こんなふうにされても?」

「一週間監禁されていただけだよ。大したことじゃない」

「暇だったんでは?」

「それが一番辛かった」


 ため息をつく雨音に、ユキナは安堵した。


「瑞江は?」

「どっか行った。たぶんユキナのところに行ったんだと思ってた。気をつけて」

「警察が、捕まえてくれますよ」

「かわいそうだね」

「雨音」

「ん?」

「怖かったでしょう?」

「怖かったのは、私のことじゃないよ。私のせいで、ユキナに被害が及ぶことを、私はとてもとても恐れた」

「だからあなたは、一手に注意を引きつけた。一週間も」

「ユキナ。想像しすぎは良くないよ」

「身を挺して、妹を守った」

「ユキナ。ダメだよ。そんなことで、私は覆らない」

「怖かったでしょう? 怖かったのに、饒舌に」

「ユキナ。これ以上は、泣いちゃうよ」

「警察には、ありのままを話してください。なんなら、ハルアくんは私がいただいておきます」

「そっちのがいいか。それもありだな」

「雨音、何か欲しいものはありますか?」

「リコリス・リコイルの千束とたきなのフィギュア。高いやつ」

「わかりました。用意しておきます」


 ユキナは、東京に出てきた家族の車に乗り、松本まで帰った。松本の警察が、ユキナの家を警備し、警察署に行って、取り調べを受けることもあった。


 ユキナは、雨音と一緒で、基本的に瑞江には好意的だった。雨音への乱暴は、恐怖の対象ではあったが、雨音が、体に傷を負っていないのを見ると、誘拐の意味合いも少し異なる気がする。


 単純に、話したかったのだろう。でも、もう瑞江には、「自然に」「うまく」話すことができなかった。

 卒業式には出られなかった。松本で、何週間も、瑞江が逮捕されるのを待っていた。


 瑞江は、ユキナには興味がなかった。雨音の影をユキナに見て、それで訳がわからなくなったのだろう。自分が欲しいのは、影じゃないと思うまでに、限りなく複雑な逡巡があったはずだ。

 おそらく、雨音が瑞江に暴行を加えられなかったのは、雨音が、性欲の対象ではなく、もっと神聖なものだったからだ。だから、そこでも感情の裏返りがあったに違いない。


 どんなことを話したのかは、ユキナには興味がないことだが、ユキナは雨音と同様、瑞江を裁断する気はなかった。

 フィギュアは、Amazonで買えた。雨音に箱に入ったフィギュアを送ると、退院した雨音は、電話で礼を言った。


「いくら?」

「合計七万円です」

「遺産使った?」

「もちですよ」

「悪いねえ」

「新宿で、ゆっくり過ごしてください」

「ありがとう〜」


**雨音**


「久しぶりだね」


 錠をかけられた雨音が言った。


「ああ、案外抵抗しないんだな」

「抵抗すると、怪我するでしょ?」

「怪我より、殺される方が、手痛いと思うけど」

「そりゃそうか。でも、痛い思いした後に殺されるよりは、単に殺される方が、殺されることが決まっているなら、ね?」

「殺さねえよ。ただ、話したかっただけだ」

「錠は?」

「気分の問題だ」

「こんなことしたら、逮捕されちゃうと思うけど」

「どうでもいい」

「どうでもいいってさ、いい言葉だよね」

「饒舌だな」

「構ってよ。話したい相手が、目の前にいるんだから、せっかくなら仲良くいこう? したい? それでもいいよ。なんたって瑞江が相手だもん。少しくらいサービスしてあげるよ?」


 瑞江の目を見つめる。雨音がそういうふうに言葉にするのは、自分の身を守るための、伏線だった。女の服を破り裂くことだって、相手が従順だと、虚しいものだ。


「『どうでもいい』がなんだって?」

「悔しいけどさ、大切なものほど、どうでもいいんだ。だから、瑞江にとって私をここまで特別扱いすることは、私が大切じゃないってことなんだよ」

「ん? 逆じゃないか?」

「逆じゃない。よく考えて」

「それで?」

「ユキナは、きっと瑞江にとっては、大切じゃない。だからどうでも良くない。恋愛っていうのは面白いよね。性的に魅力がある人と、恋愛感情が湧く人は、それぞれ別なんだから」

「お前、結構サイコパスだよな」

「普通だよ。普通に考えているだけ。ユキナのことは、躊躇なく犯すでしょ?」

「それはあいつに面白みがないからだ」

「だからだよ。そういうところが、ユキナの本質なんだ。あんな女、話すだけ無駄だよ。女として優れているだけで、人間としてはゴミだ。正解から遠いところにいる。常に、的を外している。そう思わない? ユキナと話したことあるんでしょ?」

「ゴミとまでは、思わなかったがな」

「あんなのに、人生をかける必要なんてないよ。そうでしょ? だから、瑞江は真っ先に私のところに来た。錠まで用意して」


 瑞江は、真面目に笑った。

 雨音が、そうやってユキナのことを矮小化するのは、一部は、本心だった。でも多くは、そうやってユキナの価値を貶めることで、つまり、自分に価値を引きつけることで、ユキナを守ろうとする姉心だった。


「瑞江とは、話したかった。案外、近いことを考えているんじゃないかって。クラスが同じなら趣味が被っている男女みたいなものよね。でも、私はあなたより一歳年上だったから、そんな機会もなかったけど」

「お前は、俺を蔑視していた」

「そうね。似たもの同士だったからかな?」

「そう思うのか?」

「今になってみればね。瑞江って、年上好きでしょ?」

「なんだ、藪から棒に」

「私もそうなの。傾向的にはね。自分の理論を認めて欲しいんでしょ? それが、相手を潰したり、嘲ったりする結果に繋がっても、誰かの庇護を求めている」

「……」

「まあ、そうじゃなくてもさ、ユキナじゃあなたを満足させられない。ユキナは、あなたより、格下なんだから」

「よくもまあ、つらつらと妹の悪口が出るな」

「でも、ユキナにもいいところはある。真面目だし、目の前のことをするのに手を抜かない。瑞江にだって、きちんと正対していたはずだよね。たぶん、暇なんだろうけど」

「お前は暇じゃないのか?」

「あなたの話、聞いたことあった?」

「ないね」

「違う人じゃないからよ。私とあなたは」

「一緒にするんだな。反吐が出るとは思わないのか?」

「思わない。同じタイプだよ。孤独でさ。あなたは物理的に孤独だけど、私は精神的に孤独。違い? そうはないと思うよ。ねえ、私とキスしたいと思う?」

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