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 ロビーのソファに亜季は腰掛けていた。後を追いかけるように、卓也が現れた。二人はアイコンタクトをして、互いに小さく頷くと、人目を避けるようにそそくさと山手迎賓館を出た。ロビーは披露宴を終えて出てきた人々でごった返していたため、却って人目を避けるには好都合だった。駅に着くまで、亜季は卓也と一メートルの距離を保っていた。

 駅に着くと卓也が大きく伸びをした。

「ああ、何だか疲れた。だけどまさか亜季に会えるとはね。来た甲斐があったなあ」

「私も。朝は結婚式に行っても、疲れるだけだなんて思っていたけれどね」

 顔を見合わせて、二人は笑う。ちょうどプラットホームに電車がすべり込んできたところだった。二人は乗り込み、がらんとした車内で、肩を並べてシートに腰掛ける。

 横浜までは十分ほどだ。

「まだお腹は空いていないよね?」

「あれだけ披露宴でいろいろ食べたもの。まだお腹は一杯よ」

「じゃどこか、バーにでも行こうか」

「うん、そうね。せっかくだからおいしいお酒が飲めるところがいいわね」

 駅から地下を通って、そのまま行けるホテルの最上階のラウンジに二人は向かった。まだ外は完全に夜になりきっていなかったが、最上階から見下ろす横浜の街は、すでにイルミネーションに(いろど)られて美しかった。

 亜季のためのマティーニと卓也がオーダーしたバーボンウイスキーが運ばれてきた。横浜の夜景を眺めながら、挨拶代わりの近況報告で二人の会話が始まった。

「煙草、吸ってもいい?」

「いいよ。煙草を吸い始めたんだ。俺と付き合ってた頃は、『臭いし、体にも悪いからやめたほうがいい』っていつもいってたのにな。俺はもうやめたぞ」

 亜季にとって、世界一お気に入りの笑顔をたたえて、卓也がいった。この笑顔を向けられると、卓也の言葉もまったく嫌味には聞こえない。かつて、何度この笑顔に救われたことだろう。しかし三年間という時間の間に、亜季は煙草を覚え、卓也はあれほど好きだった煙草をやめていた。二人の間に流れた時間のギャップを感じた。

 卓也はその晩、終始笑顔のままだった。しばらく他愛ない会話をしていたが、二杯目のグラスが運ばれてくると、外を眺めたまま卓也が訊ねた。

「ところで亜季は、どうして煙草を始めたの? 俺はずっと、亜季が煙草嫌いなんだと思っていたよ」

 ようやく夜の(とばり)が落ちたバーのウインドウの中で、卓也は笑っていた。亜季は窓の外の卓也を見たまま、どうするべきか逡巡していた。卓也もグラスのウイスキーをなめるようにしながら、亜季が口を開くのを待った。

 亜季はもう一度、卓也のこの笑顔に甘えてみようと思った。卓也が今日、このバーに誘った以上、もう三年前のわだかまりも解けたのだろう、と自分に都合よく解釈した。亜季は手にしていた、バーに入ってから二本目のヴァージニアスリムをもみ消すと、ようやく窓の内側の、隣に座っている卓也のほうに向き直った。

「実はね、私……今、付き合っている人がいるの」

「ほう、そうだったのか。じゃ俺がこんなところに誘ったのはまずかったかな」

「いいえ、そうじゃないわ。むしろ今日卓也に会えたのも、ここにこうして誘われたのも嬉しかった。本当よ」

 亜季の目に光るものがあった。それを見た卓也の顔から、笑顔がなりを潜めた。卓也はやや眉を(ひそ)めて、心配そうに亜季の顔を覗きこむ。

「どうしたんだよ、亜季。もし心配なこととかがあるんなら、話してみてくれないか」

「私の付き合っている相手というのは、妻子(さいし)もちの男なのよ。つまり……不倫なの」

「……亜季はそれでもいいのかい?」

 卓也は三年前とちっとも変わっていなかった。不倫と聞いても、決して「それは良くない」とか、「不倫なんてやめろ」といったようなことをいきなり口にしたりしない。亜季は、卓也のそういった相手の意思を最大限に尊重するような話し方も好きだった。

「いいとは思っていないわ。でももうこの関係も三年近くになるの。心のどこかでは、もう不倫なんて関係はやめなければってわかってるのに……」

「相手の男のことを気に入ってしまっているとか?」

「それも違う。少なくとも、かつて卓也を好きだったようには愛せない」

「そうか。じゃ今は、亜季もその男との関係を清算してしまいたいと思っているんだね」

 こくりと亜季は頷く。それが合図だったかのように、亜季の目から涙があふれ出た。亜季の目に映る横浜の夜景が、涙で曖昧(あいまい)にぼやけてゆく。

「話してくれてありがとう。じゃ話してくれたお礼ってわけじゃないけど、この卓也さまが一肌脱いじゃおう」

「えっ、どうするの?」

 涙で少しアイラインが流れ始めた目を、亜季は卓也に向けた。

「とりあえず、まずはその目をどうにかした方がいい。せっかくドレスアップしても、顔がパンダじゃなあ」

 卓也の顔に笑顔が戻った。慌てて亜季は目の前のウインドウの中にいる己の顔を見た。アイラインが流れ出た顔は、まるで福笑いのようだと思い、つい亜季も吹きだした。

「じゃちょっとお手洗いに行ってくるね」

「ああ、そうした方がいい。レディの顔が台なしだぜ」

 レディの部分だけ本当の英語の抑揚をつけて、卓也がいった。亜季は「ちょっとごめん」と言って、席を立った。卓也は氷でだいぶ薄まってしまったバーボンウイスキーを飲み干し、バーテンダーにお代わりをオーダーした。

 五分ほどして、亜季は席に戻ってきた。アイラインもきれいに引き直されており、ついでにルージュも引き直したようだった。ただ結婚式用に引いていた深紅(しんく)のものではなく、もっとナチュラルな色合いのピンクで光沢のあるルージュに変えていた。

「亜季、一つ提案があるんだけど」

「なあに」

「俺と一芝居打つってのはどうだい」

「どういうことよ?」

「だからさ。俺が君のフィアンセってことにする。それで君とその不倫相手の男が飲んでいるところにでも、偶然のように現れるんだ。そこで俺が『亜季のフィアンセだ』と自己紹介をするか、君が相手の男に俺をフィアンセだって紹介してしまう。そうすれば君も、その男と手を切れるだろう。少なくとも相手の男にしてみたら、不倫という負い目がある以上、君にフィアンセがいるとわかったら、今までのように深追いはしないんじゃないのかな」

「でも卓也に迷惑をかけることになるかもしれないわ。相手の男って、かつての私の上司だった男よ」

「大丈夫だ、きっとうまくいくさ。それに俺の上司って訳じゃないし、君さえ良ければ……俺は君の役に立ちたいんだ」

「ありがとう」

 また亜季は泣きそうになった。

 結局亜季は、卓也の手を借りることにした。卓也が考えた一芝居を成功させるために、もっと詳細を詰めようという話になった。そこで亜季がいう。

「じゃ私の家で、話の続きをしない? ビールかワインくらいしかないけど、どう? 昔のように」

「昔のように、か。うん、いいね。じゃ行こう」

 割り勘にしようという亜季の申し出を頑強に拒んで、卓也は支払いを済ませた。二人は再び横浜から電車に乗り込み、亜季のマンションに向かった。

 缶ビールであらためて乾杯をすると、二人は相談を始めた。

 決行日は明日。まず亜季がいつもの馬車道のバーに荒木を誘う。頃合(ころあい)を見て、近くで待っている卓也の携帯電話に連絡を入れる。そこに卓也が、誰かと待ち合わせをするために立ち寄った客のような振りでもして、店に現れる。亜季はなるべく店の入り口から目に付く席に座ることにして、お互いに驚いた顔で偶然に会ったように装うことになった。

 それからは「ばれてしまっては仕方ない」というように亜季が荒木と卓也を互いに紹介する。そこで亜季が卓也を「私のフィアンセです」と荒木に向かって宣言する。そのときの荒木の反応は読み(にく)いが、いずれせよ卓也はそのまま亜季の手を取って、バーから連れ去ってしまうつもりだった。

 きっとうまくいくだろう。一人ではなく、卓也が一緒なのだ。何かいたずらを思いついた小学生のように、亜季は胸を弾ませた。心の中で、すっかり卓也に寄りかかりっきりになっている己に、まだ亜季は気付いていない。


「ねえ卓也、今日は私のところに泊まっていけば」

 卓也も同意した。互いにはっきりとは口にしないが、確実に三年間という時間のギャップは、縮まりつつあるのを二人とも感じていた。

「じゃシャワーを浴びたいから、借りてもいいかな。昔のように」

「どうぞ」

 亜季は白いバスタオルを出してきて、卓也に手渡した。卓也がシャワーを浴びている間、ヴァージニアスリムを吸いながら、亜季は明日仕掛ける「一芝居」を何度もイメージトレーニングしていた。それはとても楽しい空想だった。

 卓也と再会したその夜、二人は三年ぶりに交わった。ここにも確実に、三年間と言う時間のギャップはあった。だから二人の交わりは、決してスムーズではなかった。全ての動きが、タイミングが、全て少しずつずれていた。その夜、亜季はギャップに(はば)まれたがゆえに達することはなかった。

 だが交わりを終えて、硬く締まった卓也の腕に頭を載せたとき、亜季は心が高揚し、エクスタシーに達するのを感じた。

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