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最終話です。短い物語ですが、おつきあいいただき、ありがとうございます。
最後まで亜紀のメランコリーの行方を、見守ってください。では……
久しぶりに自分のベッドに自分以外の者と寝たせいで、その夜亜季はなかなか寝付けなかった。あるいは昨夜、卓也と相談した秘密の芝居を決行することへの興奮も手伝ったのかもしれない。卓也は隣で、昔と同じようにいびきをかいて眠っていた。寝付けないまま、妙なリズムを帯びたかつての恋人のいびきに耳を傾けているうちに、亜季もいつしか少しだけまどろんだ。
しかし夜が明けて、まだ空が濃いオレンジ色に染まっている時間には、亜季は再び目を覚ました。そっと亜季はベッドを抜け出し、カーテン越しに射し込むオレンジ色の光の筋を眺めながら、ヴァージニアスリムを半分だけ吸った。半分吸いきったところで、ベッドから卓也が亜季を呼ぶ声がした。起こしてしまったのだろうか?
亜季は再び、ベッドへと戻った。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや勝手に目が覚めてしまっただけだよ。ただ亜季がいなかったから、呼んでみたんだ。悪い、悪い」
それから二人は短いセックスをした。睡眠不足の亜季の体は、昨夜よりも反応がいいように感じた。実際、時間は短かったけれど、今朝の交わりで亜季は肉体的なエクスタシーも感じていた。
ふと亜季は、おのが心にずっとわだかまっていたメランコリーが、オレンジ色に輝く朝日の向こう側にでも飛んでいったかのように消え去っていることに気付いた。
「シャワー浴びるでしょ」
亜季はにっこりと卓也に微笑みかけて、バスタオルを取りに全裸のままの格好で、ベッドを抜け出た。卓也は朝日に照らされている亜季の体が、シルエットのように動くのをベッドに横になったまま、見ていた。
――三年前より、少し肉付きがよくなったかな?
しかし亜季の髪の手触りも、肌の柔らかさも、卓也が好きだった三年前のままだった。
卓也がシャワーを浴び終えて、亜季と交代した。何となく隣の部屋への配慮からか、ヴォリュームを絞って、テレビをつけてニュースを見ていた。
ふとテーブルの上に、亜季が出しっぱなしにしておいたヴァージニアスリムが目に入った。
――そういえば、亜季と付き合っていた頃は、ずっと吸ってたんだよな。もうやめて二年以上経つのか……。
箱から一本取り出して、指に挟んだ。久しぶりの煙草は、女性向けのせいか妙に細くて、卓也の指では挟みにくかった。しっかり挟んでいないと、滑り落ちてしまいそうだ。
――亜季とおなじように……。
火をつけた。ゆっくりと吸い込んでみた。もっときついかと思っていたが、メンソールのおかげなのか、もともと軽い煙草だからなのか、意外なほどすんなりと煙は卓也の喉をくぐり抜けた。メンソールの爽快感だけが口中に残って、まるでペパーミントガムを噛みながら煙草を吸っているような感覚だった。
テレビを見ながら、長い煙草もほとんど吸いきってしまう頃、バスタオルを体に巻きつけた亜季が、バスルームから出てきた。
「あれ、卓也。また煙草吸ってるの?」
「ああ、二年ぶりだな。一本貰っちゃったよ。もう吸えなくなってるかと思ったけど、意外と平気だった」
またあの笑顔が卓也の顔を覆った。折角禁煙していたのに、と卓也をなじろうとした言葉を、亜季は飲み込んだ。この笑顔を見ると、なぜだか卓也への非難ができなくなってしまうのだ。亜季は心身ともに、三年前に戻りつつあった。
着替えをすませて、亜季はテーブルに卓也と並び、テレビを見た。卓也は亜季のために、彼女がシャワーを浴びている間にコーヒーを淹れてくれていた。一人暮らしを始めてから、揃いのカップなど用意していなかったから、テーブルの上にはデザインも大きさも不揃いのマグカップが二つ置かれていた。
「ありがとう」
亜季は卓也の心遣いに、努めて軽い口調で感謝してから、コーヒーを一口すすった。いつもより少しだけ苦かった。そうして亜季は、ヴァージニアスリムを一本取り出してから、「どう」と卓也にも勧めた。卓也は「おう」といって一本箱から抜き取ると、口に咥えてライターで火をつけ、そのままライターの火を亜季に向けた。亜季の煙草にも火がつくと、二人は深呼吸でもするように、同時にゆっくりと煙を吐き出した。
テレビでは、国産車のセダンが、新しいモデルを発売したことを伝えるコマーシャルが流れていた。卓也がテレビの液晶ディスプレイを指差しながらいった。
「亜季、このCMは俺の会社が手がけたんだぜ」
「へえ、結構このCMのBGMが気に入ってたのよ。卓也の会社、なかなかいいセンスしてるわね」
二人は顔を見合わせて、にっこりと笑いあった。コーヒーを飲み終えると、亜季は二人のカップをキッチンのシンクに置いて、バッグを手にしてテーブルの上に置いてあった部屋の鍵を取り上げた。
部屋を出て、ドアに施錠すると鍵をバッグにしまう前に、キーホルダーから一つ鍵を抜いた。
「はい、これ。合鍵だけど、卓也に一つ渡しておくわ。昔のように、ね」
「……亜季。いいのか?」
亜季は満面の笑みを作って、大きく頷いた。そうして二人はエレベーターで連れだって一階まで降りた。
駅まで並んで歩き、改札をくぐったところで反対側のホームに向かう卓也と別れた。
「それじゃ、今日の夜のお芝居よろしくね」
「おう、七時までには行けるから、あとは携帯でうまいこと連絡してくれよな」
そういって、卓也は背を向けて、大きな掌を広げて手を振りながら、ホームへ続く階段を一段抜かしで上がっていった。
亜季は夕方、六時半過ぎには荒木との密会に使っていた、馬車道のバーにいた。十五分遅れで荒木が到着する手はずになっている。
亜季はこの日、まったく仕事が手につかず、午後七時には横浜に来るという卓也の予定に合わせて、荒木を馬車道に誘い出すことだけに心を砕いた。といっても亜季と卓也の企みを知らない荒木を誘い出すには、亜季が会社から与えられているメールアドレスから、短いメールを二通出すだけでこと足りた。
バーに入ると、亜季は窓際で、入り口からの見通しもいいテーブルに腰掛けた。すでに顔見知りの店員が近寄ってくる。
「こんばんは、山科さん。今日はこの席でいいんですか」
「うん、何だか外の景色を見ながら飲みたくて」
「お一人……ではないですよね?」
「もうすぐ荒木さんも来るわ。とりあえずビールちょうだい。喉がからからなの」
「はい、すぐにお持ちしますよ」
おしぼりをテーブルに置いて、店員が店の奥に立ち去ったのを見て、亜季は携帯電話を取り出した。手早くメールを送信した。相手は卓也である。
――今、例の店に着いたわ。間もなく荒木も来ると思う。今のところ、予定通り!
――オーケイ。俺も今そちらに向かっているところ。約束の時間には馬車道に着いていると思う。店に入ってもいいタイミングになったら、また連絡してくれ。
――じゃまた後ほど連絡する。間もなく荒木が来ると思うから。
――了解。それじゃまた後で会おう。
携帯電話を閉じたところで、ビールが運ばれてきた。よく冷えたビールを一口喉に流し込み、時間を見た。荒木の到着まで、時間通りならあと五分というところか。ヴァージニアスリムに火をつけ、外の石畳を歩く人たちを見ながら、亜季は今日の作戦を考えていた。
ビールを半分ほどあけたところで、荒木がバーに現れた。荒木は入り口で手を上げて、「待ったかい」といいながら亜季の座るテーブルへと進んだ。座りながら荒木もビールを注文した。
「それにしても亜季から誘ってくれるなんて、久しぶりじゃないか。何かあったのかな」
「特に何かあったって訳ではないの。ただ何となく飲みたくて、誘っちゃった。仕事の方は大丈夫だった?」
「ああ、ちょうど今は暇な時期なんだ。営業が暇なんていっていたんじゃ、会社が潰れてしまうかもしれないけどね」
荒木は何の疑いもなく、屈託のない笑いを亜季に投げかけた。作戦の第一段階は、上々の首尾だ。荒木のビールが到着したところで、どちらからともなく「乾杯」といってグラスを鳴らした。亜季がシーザーサラダとチキンの入ったペペロンチーニを注文した。荒木がそれに枝豆を追加する。
二人はあっという間にビールを二杯ずつ開けて、荒木はすでにジンを飲み始めていた。荒木は大きな氷を入れたグラスにジンを注いで、ライムをしぼっただけの飲み方が好きだった。亜季はいつものドライ・マティーニだ。
亜季がちらっと時計に目を走らせる。時刻は午後七時を五分ほど回っていた。予定通りなら、もう卓也はバーの近くで待機しているはずである。少し酔いが回り、饒舌になり始めた目の前の男を見る。
――荒木とも今日で最後なんだ。明日からはただの同じ会社の社員という関係に戻る。でも本当に、ただの社員という関係に戻れるのだろうか?
ヴァージニアスリムをくゆらしながら、何も知らずに話をしている荒木を見て、ふと哀れに感じた。同時にこの関係を突然解消した亜季に対して、荒木がどのような態度をとるのかという点についても、不安であった。
――しかしもう後戻りはできない。外では卓也が……、卓也が待っている。
煙草を吸い切ると僅かに残っていたマティーニを飲み干して、亜季は席を立った。ほの暗い照明が、グラスに残ったオリーブの実を照らし、クリスタルボールのように光っていた。
「ちょっとトイレに行ってきます。ごめんなさい」
「ああ、いいよ。お代わりは同じものでいいかい?」
「ええ」
亜季は店の奥にあるトイレに立ち、荒木はオーダーの追加をするため、店員を手を上げて呼んだ。トイレのある位置からは、亜季たちが座っているテーブルは見えなかった。これも計算済みだ。テーブルが見えなくなると、亜季はバッグから携帯電話を取り出した。携帯電話を開けると液晶の光がまぶしくて、その光で荒木に気取られることはないかと思わずテーブルを振り返った。もちろんそこから、亜季が携帯を使っていることが見えるはずはなかった。
――落ち着かなくては。ここで変に焦って、卓也が来る前に怪しまれたら元も子もないわ。
メールの新規作成画面を開き、送信者の欄に卓也の名前を呼び出した。そうして「そろそろ来て」と短い文を打ち込んだ。店の奥は少し電波の感度が悪いようで、一度送信エラーとなってしまった。亜季はトイレの中に入り、小窓に携帯電話を向けて立った。もう一度送信ボタンを押すと、やっとメールが送信できた。
トイレの狭い窓から外を見ながら、亜季は卓也の返信を待った。その窓からは店の裏手の路地しか見えなかった。湿っぽい、ところどころぬかるんでいそうな地面は、表の石畳とは対照的に、退廃の匂いがした。
手の中で携帯電話が震えた。はっと携帯電話を見ると、サブディスプレイには「泉川卓也」の文字が表示されていた。
携帯電話を開くと、卓也からの返信メールだ。
――3分後に店に入る。それまで普通に話でもしていてくれ。俺が店に入って、亜季に話しかけるまで、君は俺のほうを見ないこと。いいね。じゃ。
携帯を閉じて、テーブルに戻る。荒木は所在なさそうに外を見ていた。追加の飲み物はすでにテーブルに置いてあり、荒木のグラスは半分ほど飲んだ後だった。
「ごめんなさい」
テーブルに座りながら亜季がいった。それから話題は先日の彩音の結婚式に移った。荒木を目の前にして、卓也との偶然の出会いがきっかけで今日の企みがあると思うと、亜季の記憶はどうしても結婚式に行き着いてしまう。
「なかなか楽しい結婚式だったね。坂下君と山下さんもお似合いなんじゃないかな? うちの松川も誰かいい人いないのかな?」
「松川君も早くいい人がみつかるといいですね」
亜季はそういいながら、心の中で「私はどうなの?」と荒木に向かって問うた。ちらっと入り口に目を走らせた。バーのドアがゆっくりと動き出すのが見えた。慌てて視線を荒木に戻す。
亜季の胸の動悸が、今にも躍りだしそうなくらい早くなった。ヴァージニアスリムを咥えて、火をつけながら荒木を見やる。わずかだが、煙草を挟んだ指先が震えている。荒木は相変わらず笑いながら、披露宴の余興の思い出話をしていた。煙草を深く吸ったとき、亜季の背中から声がした。
「やあ、亜季じゃないか。こんなとこで飲んでたんだ」
そういいながら彼女の肩が叩かれた。背後から来るなんて聞いていない、と思った。慌てた亜季は煙を一気に吸い込んでしまい、むせた。
振り向くと卓也がいたずらっぽい目をして立っていた。いつもの笑みを浮かべながら。
亜季はなるべく自然に会話をしなければと思い、卓也に話しかけた。
「あら卓也じゃない。どうしたの、こんなところで」
「ちょうど仕事でこっちに来てね。そのまま帰るのもなんだなと思って、ふらっと入ってみただけだよ。そうしたら偶然にも、亜季がいたんでびっくりしたよ」
卓也は「偶然」という言葉にやや力を入れた。亜季は片方に二人腰掛けることのできるベンチシートの自分の位置をやや奥にずらし、一人分のスペースを空けた。話しながら、卓也は亜季の隣に座り込むことに成功した。
荒木は明らかにこの突然の闖入者に、迷惑そうな顔をしていた。亜季の方を見ていった。
「こちらは亜季とはどのような関係の方?」
亜季は少し逡巡した。ちらっと卓也を見ると、かすかに彼が頷いたように見えた。いきなり核心に触れなければならなくなったかと思ったが、亜季はきっぱりと荒木に告げた。
「実は私、卓也と結婚の約束をしています。今まで黙っていてごめんなさい。だから荒木さんとは、もうこれ以上、付き合えない」
「えっ」
ジンライムとともに、荒木はその一言を飲み込んだ。すでに家族を持つ荒木には、「結婚」という二文字は予想以上に有効だった。それは荒木がおそらく絶対に亜季に提供できないものであるがゆえに。
それきり荒木は黙り込んだ。卓也は注文したビールをほぼ一気に飲み干して、例の人懐っこい笑みを浮かべたまま、腕を組んでいた。荒木と卓也の視線が一直線につながり、亜季の視線だけが、その直線をなぞるように行ったり来たりした。
荒木はジンライムを飲み干すと、やおら立ち上がった。
「亜季、今晩は僕が退散したほうが良さそうだな。僕が君のためにマティーニを奢るのは、今日が最後かな。幸せになってくれ」
立ち上がって、スーツの胸のポケットから財布を取り出す荒木に、亜季はやや涙ぐんで頭を下げた。
「荒木さん、本当にごめんなさい」
「君が謝ることではないさ。こっちも脛に傷のある身なんだ。これ以上、君の幸せを妨げる訳にもいかないだろう。僕はそこまで未練がましい男ではないつもりだよ」
そう言って、卓也に一つ頭を下げると、とうとう最後まで彼とは口を聞くことなく荒木はバーを後にした。今さらながら、荒木が大人の男としての対応をしてくれたことに、改めて亜季は感謝した。
それからは卓也が、荒木の座っていたシートに腰掛けて、しばらく黙って二人で飲んだ。亜季はマティーニを、卓也はバーボンのオンザロックを。店内には心地よいジャズのサックスの音色が響いている。
少し遠くに目を向けると立ち並ぶビルの上に、わずかに姿をのぞかせている巨大観覧車のネオンが見えた。ネオンは時に緑に、時に赤に変化し、亜季は飽きることなくその光を眺めていた。
「ねえ卓也、今からあれに乗りに行こうよ」
「あれって?」
「ほら、あそこに見える観覧車よ。いつも近くで見ていたけれど、今まで一度も乗ったことがないの。本当にきれいなものが、あんな近くにあったのにね」
「わかった。じゃ行こう」
二人はグラスに残った酒を飲み干して、バーを出た。亜季は、きっと今日がこの店にくる最後の日だと思うと、ちょっとだけ名残惜しかった。この店のマティーニもBGMも大好きだったから。
バーを出て、馬車道を海に向かって、二人で並んで歩いた。正面から吹いてくる海の湿り気を少しだけ含んだ風が、酔い心地の亜季の顔を気持ちよくなでて行った。二人は万国橋を渡り、横浜ワールドポーターズのビルのところで左に折れる。すると目の前に先程の巨大な観覧車が一望できた。
ちかちかとまばゆいくらいのカクテル光線が、間断なく観覧車から放たれる。運河を挟んで二つに分かれた遊園地の中に入り、コスモクロックと呼ばれる大観覧車に並んだ。平日の夜ゆえ、観覧車は主に乗る人よりもそれを眺める人たちのために光っていた。だから二人はすぐに観覧車に乗ることができた。
しばらく狭い室内で、二人は沈黙を聞いていた。なんとなくお互いにかける言葉が見つからない。亜季は目の前に現れた横浜港の、油を流したようなブルーグレイの海に目を向ける。
海はその周りに立ち並ぶビルの光を映し出していて、またまばらに浮かぶ船の小さな光が瞬いていた。きっとその底には、亜季のような女が投げ捨てたメランコリーが堆積しているのだろう。
やがて目の前に、印象的な弧を描いたインターコンチネンタルホテルが大パノラマの中に突き出した。小さく規則正しく並ぶ窓を見ながら、狭い個室の沈黙を破ったのは亜季だった。
「さっきはありがとう」
「本当にあれでよかったのか」
卓也はここでも気を遣っていた。いつもの眉が下がる笑顔が、今はなかった。卓也の顔にいい知れぬ緊張が貼り付いているように見えた。
「うん、それより……」
「それより?」
「よく考えてみると、大変なことしちゃったかな」
「どうした。後悔しているのか」
「ううん、そうじゃない。荒木さんとのことは、これで良かったと思っている」
「じゃ何?」
「さっきバーで、卓也と結婚の約束をしているっていっちゃったでしょ。きっと明日になれば、会社中で噂になってしまうんだろうなと思ったの」
その一言で、なぜか卓也の顔に、笑顔が戻ってきた。その笑顔は、まるで必死に堪えているが我慢できずに笑い出してしまったように見えた。
「ははは。それは俺が『フィアンセ』だといえって、亜季にいったからだね」
「まあそうだけど。別に婚約しているとまでいわなくても、何とかなったのかもなって……」
「やっぱり後悔しているんだ」
「違うわ。別に後悔なんてしていない。ただ会社で噂されることが、ちょっと嫌なだけ」
「ま、それも俺の作戦のうちだったんだがな」
「えっ?」
とうとう卓也は大きな声で笑い始めた。笑いながら卓也はいった。
「だから亜季が会社の人の前で、俺をフィアンセって紹介したら、もう引っ込みがつかなくなるんじゃないかなって」
「そ、そういうことだったの。じゃ卓也は、最初から……?」
「そうだよ。やっぱり亜季じゃなくちゃ駄目だなって思ったんだ。昨日のドレス姿には、惚れ直したよ。だから亜季、あらためて君のフィアンセに立候補したい」
「卓也」
空中を浮遊している個室の中で、二人の顔が近づいた。唇が重なり、亜季の目からメランコリーの含有量がゼロの、一筋の涙が流れ落ちた。
二人の顔が離れて、亜季が涙を拭ったとき、観覧車はようやく一周し終えようとしていた。さっきまでアリのように思えていた人々が、本来の大きさに戻っている。コスモクロックと呼ばれる観覧車は、文字通り巨大な時計だった。その時計はものすごく大きいがゆえに、わずか一周で二人の三年間という時間を埋めてしまった。
観覧車を降りると、二人は運河にかかる橋を渡り、正面にランドマークタワーの見える並木道を歩いた。歩きながら卓也は、亜季のスプリングコートのポケットに何か小箱のようなものを押し込んだ。
「何なの、これ? 開けるわよ」
卓也はにっこりと笑って、頷いた。亜季が取り出した小さな包みは、鮮やかなエメラルドブルーの包装紙に包まれていた。ラッピングされた中に入っていたのは、やはり小さな小箱であり、その中にはダイヤモンドのはまった小さなリングが入っていた。そっとリングを手にすると、亜季は右手の薬指に差しこんだ。不思議なほどぴったりと、そのリングは亜季の右薬指にフィットしていた。
「それがフィアンセの証だよ。俺がリングのサイズを知っている女は、亜季しかいないからな。今日の帰りがけに急いで選んだものだから、気に入るかどうかわからない。でも、返品は禁止だよ」
そういって一歩前を歩く卓也の大きな笑い声が、並木道に立ち並ぶ高層ビルに反響していつまでも響いていた。亜季は前を行く大きな背中に飛びついてから、リングのはまった右手を、横に並ぶ卓也の左腕に絡ませた。
(了)
最後までおつきあいくださいまして、ありがとうございました。
是非とも感想をお寄せください。お願いします。
また次回作でもお逢いできることを、楽しみにしています。




