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 結婚式が終わり、憂鬱な披露宴が始まった。乾杯用のシャンパンがグラスに注がれると、せっかくの泡が消えてしまうのではないかと思うほど長い挨拶が始まった。亜季は「おめでとうございます」とか「幾久(いくひさ)しくお幸せに」という結婚スピーチ集に載っているステレオタイプな文句を聞きながら、運ばれてきた料理を食べていた。魚料理の皿に載っていたのは、タイとイセエビだった。ホワイトソースのかけられたその料理は、味そのものは普通だったが、タイとイセエビという取り合わせが結婚式の料理であることを主張していた。

 式場で隣に座っていた松川は、披露宴会場でも亜季の隣の席を割当てられていた。横で松川はせっせと料理とワインを口に運んでいた。三つほど料理の皿を平らげて、腹がくちくなると松川が亜季に話しかけてきた。

「さっきもお聞きしましたけど、山科さんは結婚しないんですか?」

「しつこいわよ。したくなったらするわ。松川君こそ誰かいい人いないの」

 亜季の言葉を無視して、松川は亜季にやや顔を寄せてきた。何なの、と亜季は思ったが、松川は構うことなく声をひそめた。

「実は山科さんが、男の人と馬車道を歩いていたのを見たっていう噂を聞いたんです。だからもしかしてステディな人がいるのかなと思って」

 どきりとしたが、努めて平静を装った。松川の話を聞く限り、一緒に歩いていた相手が誰だったのかまでは判明していないようだった。そのことだけが救いだと思った。

――もしも相手が、営業部の荒木課長であることがばれてしまったら……。

 亜季の会社では瞬く間に全社に噂が駆け巡り、亜季も荒木も会社にいられなくなるかもしれない。よくよく秘密を隠し通すのは難しいと、改めて思った。


 一通り挨拶が終わり、彩音がお色直しのために雛壇(ひなだん)を下りて、退室した。雛壇の後ろにあるスクリーンに彩音や新郎の坂下の幼少時代の写真が映し出された。お決まりのパターンに辟易(へきえき)した亜季は、彩音の退室とともにやや座が崩れ始めたのを潮に、席を立って披露宴会場の外に出た。

 廊下の空気は、会場よりも冷たくて心地よかった。亜季は喫煙所に向かった。ヴァージニアスリムに火をつけて、バッグの中にあった披露宴の席次表を眺めた。吐き出した煙が席次表の前を通り過ぎたとき、亜季の目はある一点で停止した。そこには「泉川卓也様」と書かれていた。

――卓也? まさか同姓同名なだけでしょう、きっと。

 再び亜季は、荒木との関係を反芻した。そうして間もなく三十歳となる自分を振り返ると、このまま荒木との蜜月関係を重ねていくことにいい知れぬ不安を覚えた。つい先ほど、結婚式を終えて幸せそうな笑顔を振りまいていた彩音とおのが身を重ね合わせると、焦りはいよいよ募る。

 三年前、卓也と別れていなければ自分も今頃、結婚していたのだろうか?

 自信を持って「結婚していた」とはいえなかったが、少なくとも今のように鬱病患者のような気分で日々を送ることはなかっただろう。結婚適齢期と称される期間を過ぎたとは考えていなかったけれども、荒木とこのまま結婚を前提としない関係をいつまでも続けていくことに、亜季は初めて疑問符をつけた。


 喫煙所を出ると、亜季は化粧室に入ってルージュを引きなおした。煙草の匂いをごまかすために、香水も少しだけ首筋に付けた。

 会場に戻るため、ロビーに出た。ロビーに置かれていたソファに座る人を見て、亜季は我が目を疑った。足は凍りついたように、歩みを停止した。ほかに人のいないロビーからは、沈黙だけが聴こえてきた。足を組んで、眠ったように目を閉じたまま腕組みをして座っているソファの人は、間違いなく卓也だった。互いに三年という期間を経て、その分だけ歳をとっていたけれど、大学に在学中から約六年もの間付き合っていた男だ。間違えるはずはない。

 そっと亜季は卓也に歩み寄った。あと一メートルという距離まで近づいたとき、亜季の着ていたロングドレスの衣擦(きぬず)れの音で、卓也は目を開けた。目の前のターコイズブルーのドレスを下からなめるように上に見上げていった卓也の視線は、亜季の顔まで来たところで固定された。

「……亜季? 亜季だよな」

「卓也、久しぶりね。さっき席次表で卓也と同じ名前を発見して、まさかと思っていたんだけど、やっぱりあなただったのね」

「ああ、新郎の坂下家の親父さんが、俺の顧客でな。ま、これも仕事のうちなんだ。ところで俺も同じことを思っていたよ。山科って苗字もなかなかないしな。でもびっくりしたよ。ドレスなんか着て現れると、妙に女らしいな」

 卓也はそういって笑った。亜季がかつて愛した笑顔だった。卓也が笑うと眉が下がり、目が眠っているように細くなる。その表情は屈託のない優しさに満ちていて、亜季はその笑顔が好きだった。

「仕事は順調?」

「まあね。でも世の中が不景気なのはどこも同じだろう。いつまで経っても、『貧乏暇なし』ってところだよ」

 卓也は大学卒業後、西麻布にある小さな広告代理店に入社した。社会人になってからは、亜季の会社は横浜にあったこともあり、毎日のように逢うこともなかったが、二年経って二人は同居を始めた。その頃は夫婦ごっこを楽しんでいるようで、毎日が楽しかった。

 しかし三年前、卓也が別の女性と付き合い始めたと思い、それがもとで喧嘩別れしてしまった。些細な喧嘩がもとで卓也が出て行くと、一人で住むには広すぎるマンションは空虚で満たされた。結局それはほとんど亜季の勘違いであることが後に判明したが、そのときには卓也は、もう亜季のもとにはいなかった。結局ひと月立たないうちに、亜季もその部屋を引き払い、今の自由が丘の部屋へと引越した。

「卓也は今どこに住んでるの?」

「恵比寿。家賃はちょっと高いけど、会社に通うには便利だからな」

「そうね」

「そうだ、亜季。折角ここで会ったんだ。もし良かったら披露宴が終わったあと、ちょっと飲みに行かないか。それとももう俺とは飲みたくないかな?」

 亜季はやや逡巡した後、「いいわよ」と返事をした。披露宴の後、二次会にも誘われていたが、適当に言い訳をして断ることはできるだろう。

「じゃ披露宴が終わったら、またこのロビーで待ち合わせしよう」

 亜季と卓也は連れ立って、披露宴会場へと戻った。席に戻るとちょうど松川が、数人の男性社員と全身タイツをまとって、下品な踊りを舞っていた。いつもならあまりの下品さに目をそむけるが、亜季は我知らず手を叩いていた。同様の決して上品とはいえない余興(よきょう)が二つ終わり、その頃には元の服装に着替えを終えて松川が席に戻ってきた。ちょうどそのときに、デザートとコーヒーが運ばれてきた。

「山科さん、どこに行っていたんですか? せっかくの僕たちの出し物、ちゃんと見てくれました? これでも二週間前から、毎日秘密の練習をしていたんですから」

「ええ、途中から見たわよ。見るんじゃなかったって後悔したけど」

「うへっ」松川は首でも絞められたかのような声を出し、「厳しいですね」といいながら頭を掻いた。

 たっぷりのチョコレートでデコレーションされた甘いケーキを、ブラックコーヒーで流し込んだところで、司会者が披露宴の最後の演目である、両家の親への花束贈呈が始まることを告げた。部屋の照明が落とされ、部屋の一番後ろの席から立ち上がった両家の親にスポットライトが当てられた。

 大げさとも思える両手で抱えないと持てないほどの花束とともに、新郎と新婦が両親に歩み寄り、それぞれ互いの義理の親になる人に花束を渡した。そうしてきっと式場のディレクターが何度か書き直したであろう涙を誘う両親への手紙を読み終えると、披露宴は終了となった。

 そのまま新郎、新婦とその両親が会場の外に並んで、会場を出てゆく人たち一人一人に挨拶していた。亜季もそそくさと帰り支度をして会場を出ようとすると、背後から松川の声が飛んできた。

「山科さん、二次会出席されますよね?」

「ごめん、きょうはちょっとこの後予定があるの。悪いけどキャンセルさせてもらうわ」

 そういい捨てて、亜季は会場を後にした。会場の外で頭を下げた彩音に「お幸せにね」と一言声をかけると、足早にロビーへと向かった。

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