人食いクリオネの覚悟
死神につづき、ホセ司令もまた、懐中時計を片手に決意を固めていた。
「使える物は、なんだって利用してやるつもりだよ。」
人食いクリオネの眼が、鋭く闇を睨む。
爆乳酪農家狙撃兵ホルスタイン零-zero- 第二十六話 人食いクリオネの覚悟
同じ時刻。
第六の監視塔では、スケルトンが一機、巡回の灯を床に落としていた。
国境の向こうでは、まだ名前も呼ばれない偵察が、谷の形を測っている。
零はそれを知らない。
知らないまま、明日への足の歩数だけを数える。
作戦は、もう紙の上にはない。
暗視装置の中に、二機のスケルトンが浮かび上がる。
「あれがラ・エスペランサ共和国の第六収容所だな...」
「はい、事前の情報通りであれば、あれは収容所と言えど民間人がほとんど...収容所とは名ばかりの実質的に人質の監禁場所ですな。」
暗視装置を覗き込む男のそばに控えた、部下と思わしき男が答える。
「ふん...兵士に忠誠を誓わせるために家族を人質にとる...か、エスペランサ兵に同情するぜ。」
「まったくです、もっとも腐敗具合ならうちの国だって負けてないですが、人質までは取られていませんからね...」
『まだ』との一言がつい口をつきそうになるのを、男は何とか飲み込む。
「まぁ俺達には関係の無いことだがな、軍事拠点でないことは確実だろう。防備も軍事拠点ほどではないし、ここに侵攻する必要性は薄そうだな。」
部下が耳元に手を当てる、通信のようだ。
「...こちらジャガー・ネグロ...はい、地形調査は順調です...ええ、了解しました。ではまた後ほどの定時報告で。」
「少佐、本部からです、収容所であることが判明したのなら、そこはもう十分であるから、他の地形を調べよ、とのことです。」
「分かった...谷にかかる鉄橋も確認できた、渡河点はあそこだけか...近くに別の軍事拠点の疑いのある施設があったな?」
「ええ、そちらも調べますか?」
「いや、俺達ジャガーネグロの今回の任務は、侵攻に備えての付近の地形調査と軍事拠点の規模調査だ、今回はこれで十分だろう。」
「退路の確保はできているな?」
「はい、問題ありません。」
「今回は侵入経路と退路の確認だけで十分だ、エスペランサ兵に俺たちの活動が気取られると作戦そのものに支障がでかねんからな、一度引き上げよう。」
その言葉を最後に、あとは付近の部下たちにハンドサインだけで指示を出すと、男たちは音もたてずに影のようにスルスルと彼らの母国、サンタ・ルシア連邦共和国の国境の方角に向けて消えていった。
しかし精鋭部隊たる彼らも気づいていなかった、谷を隔てたその対岸から、彼らをじっと息をひそめて見ている視線には――
サンタ・ルシア連邦共和国――
内戦が続くラ・エスペランサ共和国とは国境を挟み、数えきれないほど衝突を繰り返してきた隣国だ。
サンタ・ルシア連邦共和国にとって、南下は建国以来の国是だった。
ラ・エスペランサの穀倉地帯と良港を押さえ、海への出口を得る。
その規範は何度も書き直されたが、南へ向かうことだけは残った。
名はオペレーション・ルセロ。
建国以来、何度も改訂改変を加えられつつも、その計画名は何世代にもわたりサンタ・ルシア連邦共和国の国是、国防の基本方針として受け継がれてきた。
精鋭特殊部隊ジャガー・ネグロの活動は、その実施ではない、下準備だ。
ラ・エスペランサの内紛は、古い計画の亡霊を地政学的必然によって、再び蘇らせつつあった。
司令室の時計が小さく音を立てる、時刻はそろそろ深夜に差し掛かりつつある。
ホセ司令が手元の封筒に封をする、差出人の名前は空白だ。
クレアがそれを受け取る。
「あら...これ、もう消印が...随分離れた土地の郵便局...?」
「うん、足跡を辿られると効果が薄くなるからね、そいつを現地の工作員に渡して、直接投函させてほしい。」
封筒の表面には何かの番号だけが走り書きで描かれている。
「スイス銀行の口座番号さ、単に封筒だけ投函しても不審物扱いでゴミ箱いきだろうからね。」
「その番号を見れば、先方は開封して中を見ずにはいられないはずだよ。」
ラグランジュ大佐が封筒を覗き込み、眼を見開く。
「宛先は...サンタ・ルシアだと...? ホセ司令、サンタ・ルシアにも知り合いがいるのですか?」
「知り合いや友人はいないな、だけど使えそうな汚職政治家や軍の高位者なら、うんざりするほど知っているよ。」
ホセが懐中時計を弄びながら薄く笑う。
「作戦の後始末の下準備、根回しをやっておく必要があるからね。」
「戦争ってのは、なにも武力を振り回すだけとは限らない、というやつか。」
ラグランジュ大佐がホセを見やる、なんとも微妙な表情だが信頼感に満ちた視線だ。
「武力を振り回すだけで済むなら、ボクの負担も少なくて済むんだけど、今回ばかりはそれだけじゃ不十分なんだ。」
パチンッ!
ホセ司令の指が、懐中時計の蓋を跳ね上げる。
「北部は、まだ待たせる。政府軍の防衛線を崩壊させるわけにはいかない。」
零はヨルムンガンドの肩ベルトを直す。
ガブリエルは何も言わない。
ミゲルが通路図を畳む音だけがする。
「あちらは、計画に名前を付けるのが好きな国だ」
ホセの声は低い。
「諜報部からも今回の動きについて具体的な作戦名の情報が入ってこない、ということは今は本格的な侵攻作戦の実施ではない、あくまで下準備だ。」
「...だからこそ、使える」
ラグランジュの眉間に、いつものしわが寄る。
「隣国まで盤面に乗せるのか」
「乗せるよ。」
司令は即答する。
「ただし、渡すつもりもない。」
ホセはマップの国境線を指でなぞる。
「ラ・エスペランサを隣国に渡すつもりはない。ボクたちの目的は、この国の腐敗を掃き清めることだ」
短い沈黙。
「正面からは無理だ。戦力も足りない」
ホセは懐中時計を閉じる。
「だからボクは、この作戦では利用できるものは、何でも利用するつもりだ」
窓の外で、かかりの悪いエンジンが何度か咳き込み、運転手の罵り声が聞こえる。
少しだけかかった雲を鬱陶しそうにかき分けながら、冷たい月の光が三日月亭の看板を照らし出していた。




