第9話 正しく張ってみました
二日かけた。
答えが出たなら、次にやることは決まっている。お耳が敏いのなら、敏い耳に耐えられる一挺を差し上げればいい。
先日、正しく調えた一挺を「濁っている」と仰ったのは、あれがまだ足りなかったからだ。半日で仕上げた。半日では、標準に合わせただけである。標準は、耳のふつうな人のために作られた基準だ。あの方の耳には粗いのだろう。
ならば、標準の上を行けばいい。
わたくしは壁の四挺のうち、いちばん古い父の一挺を下ろした。
まず、駒を作り直した。ありあわせの駒は使わない。楓の柾目を選んで、輪郭を写して、削って、足の裏を胴の丸みに合わせて摺り合わせる。摺り合わせは光でみる。板と駒のあいだに灯りを置いて、隙間から漏れる線が消えるまで削る。父はこれを半刻で終えた。わたくしは三刻かかった。
魂柱を立て直した。太さを二分の一だけ細いものに替えて、位置を駒の足から三分半下げる。細くすると鳴りが伸びる。伸びるぶん、締まりが要る。だから位置で締める。
弦は新しいものを四本とも下ろした。二日かけて少しずつ上げた。いきなり本気を出させないというのは、この工程のためにある。
二日目の夜、鳴らしてみて、わたくしは手が止まった。
良かった。
自分でこんなことを言うのは職人としてよくないが、二十一年でいちばん良い仕事だった。五度がまっすぐ立って、余韻が長く、低いところが腹に来る。父の一挺が、父の生きていたころより鳴っている。
これを聴いて、あの方は何と仰るだろう。
その晩、わたくしは自分が笑っていることに気づいた。
工房の窓に映った顔が、笑っていた。
嫌われるための作業をしていたはずだった。九日目の夜に、褒められるための作業をしている。
気づいたが、手は止めなかった。もう仕上がっていたからだ。
翌日の夜、廊下の板が鳴った。
「奥様。旦那様がお見えです。昨夜は五十七分でした」
「ありがとう」
扉が開いた。旦那様がいつもの椅子に腰を下ろされる。灯りの届かない、扉に近い側。
「今夜も、あるか」
「ございます。今夜は、少し違うものをお聴きいただきます」
旦那様が、椅子の背から身を起こされた。
わたくしは弓を取った。
鳴らした。
自分でも惚れ惚れするような音が、工房に立った。天井まで届いて、梁のあたりで一度ふくらんで、それからゆっくり落ちた。落ちきるまで、たっぷり数えて八つ。
顔を上げた。
旦那様は、目を閉じておられなかった。
眉のあいだに深い皺が寄っていた。顎の線が固い。片方の手が、椅子の肘を握っている。白くなるほど握っておられた。
「旦那様」
「……やめてくれ」
声が低かった。低いというより、押し殺してあった。
わたくしは弓を弦から離した。離してから、自分の指が震えているのに気づいた。
「お気に召しませんでしたか」
「そうではない」
「では——」
「すまない」
旦那様は立ち上がられた。立ち上がるときに、椅子が少し鳴った。この方は物音を立てない方だ。九日通われて、椅子を鳴らされたのは初めてだった。
「今夜は、失礼する」
扉が閉まった。
廊下の板が三度鳴った。いつもより速かった。
わたくしは楽器を膝に置いたまま、しばらく座っていた。
二日かけた。二十一年でいちばん良い仕事だった。父の音より良かった。
やめてくれ、と仰った。
膝の上の一挺を見た。駒も、魂柱も、弦も、なにひとつ間違っていない。間違っていないから、こうなった。
わたくしは、この方のために良いものを作ろうとして、この方を追い出した。
その晩は遅くまで工房にいた。片づけをして、道具を拭いて、膠の鍋を洗って、それでも時間が余ったので、明日の弦を選んだ。選びながら、扉のほうを何度も見た。
板は鳴らなかった。
やめてくれ、と仰ったときの手を思い出していた。
椅子の肘を握っておられた。白くなるほど握って、それでも声は押し殺してあった。あれは、気に入らないものを退けた人の手ではない。痛いものから逃げようとして、逃げずに耐えている人の手だ。
工房には、そういうお客が来る。
父の店にも一人いた。年配の楽師で、耳の奥に病を持っておられた。高い音を聴くと頭が割れるように痛むのだと言って、それでも楽器を手放せずに毎年来られた。父はその方に、高い側の弦を張らない一挺を作った。四本ではなく三本の一挺だ。ギルドがあれば規格外と言われただろう。あの方は泣いて持って帰られた。
似ている。
似ている、と思ってから、わたくしは首を振った。
似ていない。あの楽師は自分で「痛い」と言った。旦那様は何も仰らない。仰らないものを、こちらが勝手に決めつけるのは、職人のいちばんやってはいけないことだ。木にも人にも、勝手な見立てをしてはいけない。父はそれだけは厳しかった。
だから、待つしかない。
待つあいだに、わたくしはひとつだけ確かなことを知った。
わたくしが良い仕事をすると、あの方は逃げる。
わたくしが手を抜くと、あの方は来る。
こんな結び方をした縁が、この世にいくつあるだろう。
翌日の夜。
わたくしは日が落ちる前に工房へ下りて、灯りを二つ点けた。いつもは一つしか点けない。二つ点けたのは、明るいほうが遠くからでも分かるからだ。
弦は狂わせて張った。八本目までと同じやり方で、E線を四分の一。いつものやつ、と仰ったものに戻した。
板は鳴らなかった。
夜半まで待った。膠の鍋は洗ってあるので、やることがない。壁の十一挺を順に見て、四挺の裏板の木目を数えて、それから灯りの油を足した。
鳴らなかった。
「奥様」
テレーゼが茶を持って入ってきた。夜半をとうに過ぎている。
「本日、旦那様は北の砦へお出かけになりました。お戻りは明後日でございます」
「……砦へ」
「急なご予定でございました。夕刻にお決めになりました」
わたくしは湯呑みを受け取った。温かかった。この方は、わたくしがここにいると分かって持ってきた。
「テレーゼ。わたくしは、何かいたしましたか」
「奥様は、良い仕事をなさいました」
「では、なぜ」
テレーゼは答えなかった。答えない代わりに、湯呑みにもう一杯注いだ。
その夜、手帳には何も書かなかった。
書く欄がなかったからだ。九本目は張ってある。所見の欄に書くべき言葉は、聴く人がいないと生まれない。
【今宵の一本】九本目・E線、四分の一。所見——聴く方がおられませんでした。
二十一年でいちばん良い仕事をして、いちばん悪い結果になる回でございます。ルツィアの結論は間違っておりましたが、間違い方が誠実なので、余計に効きました。
次回、視点が変わります。北の砦に、旦那様の昔の部下がおります。二年前の冬、その男は峠にいて、いま何が起きているのかを、この物語で唯一知っております。




