第10話 幕間 北峠
北の砦に隊長が来たのは、二年ぶりだった。
オルグ・レンツは中庭でそれを見た。馬を降りるところから、雪の残った石段を上がってくるところまで、全部見た。歩き方は変わっていない。肩の位置も、首の角度も。
ただ一つだけ、変わったことがある。
隊長は、人の左側に立つ。
二年前まではそんな癖はなかった。いまは必ず、話す相手の左に回り込む。右耳を相手のほうへ向けるためだ。気づいている者は、たぶん砦に一人しかいない。
「ご無沙汰しております」
「変わりないか」
「変わりございません。冬に屋根を二つ落としましたが、直しました」
「そうか」
夜、詰所の隅で二人になった。酒が出た。北の砦の酒は薬みたいな味がする。
オルグは隊長の左側に座らないようにした。二年、そうしている。
「隊長。夜半に呼び出されるのは慣れておりますが、今回は何のご用で」
「用はない」
「用がないのに、二日かけて馬でお越しになりましたか」
「……ああ」
隊長は杯を見ていた。
この人は昔から言葉が少なかったが、二年前を境に、少なさの種類が変わった。前は言う必要がないから言わなかった。いまは、言うと何かが壊れるから言わない。
二年前の冬のことを、オルグは毎年この時期に思い出す。思い出したくて思い出すのではない。冬になると、峠から風が同じ音を運んでくる。
あの日、峠に据えた魔導砲が暴発した。
新式の砲だった。王都から届いたばかりで、据え付けの立ち会いにギルドの検分官と、隊長と、オルグを含む十四名がいた。試射の三発目で、砲身の継ぎ目が笑った。笑う、というのは金属が裂ける前に立てる音のことだ。
隊長はそれを聞いた。
オルグには聞こえなかった。ほかの十二名にも聞こえなかった。隊長だけが聞いて、走って、砲身を素手で掴んで、砲口を谷のほうへ捻じ曲げた。
そのあと、白くなった。
音は覚えていない。覚えているのは、白と、地面が下から殴ってきた感じと、それから、耳の中で長いこと鳴っていた鐘のような音だ。
十四名のうち、死んだのは二人だった。砲口を捻じ曲げなければ、あの角度では十四名全部が死んでいた。
隊長は右の手のひらを焼いた。焼けた砲身を掴んだからだ。傷は塞がったが、細いものが握れなくなった。剣は握れる。柄が太いからだ。
それだけなら、話は終わりだった。
春になって、オルグは気づいた。
隊長が、笛の音に反応しない。
伝令の笛は高い。砦では三種類の笛を使い分ける。集合と、警戒と、退避。いちばん高いのが退避で、これが隊長に届いていなかった。届いていないのに、隊長は退避の合図が出たことを毎回正しく把握していた。周りの動きを見て、そこから逆に読んでいた。
二月かけて、オルグは確かめた。確かめて、一度だけ、二人のときに言った。
——隊長。高いところが、聞こえておられませんか。
隊長は、否定しなかった。肯定もしなかった。ただ、こう言った。
——報告に書くな。
書けば隊長は隊を降りる。それだけなら本人も納得しただろう。問題はそこではない。北の防衛の指揮を誰が引き継ぐかという話になり、王都はここぞとばかりに人を送り込んでくる。峠の砲を寄越したのと同じ連中が。
隊長は自分から隊を降りた。理由は「傷のため」とだけ書いた。嘘ではない。手のことしか書いていないだけだ。
領主の職は残った。辺境の防衛は、いまも実質この人が見ている。
二年、誰にも言っていない。家令のばあさんは気づいているだろうが、あの人は口を開かない。
「オルグ」
「はい」
「妻を、娶った」
オルグは杯を落としそうになった。
「存じております。春先に文が回ってまいりました。王都の楽器屋の娘御だとか」
「弦を張る」
「はい?」
「毎晩、弦を張る。狂った弦だ」
隊長は、まだ杯を見ていた。
「四分の一、半音、一と八分の一。日によって違う。あれが張った弦だけが、まっすぐ聞こえる」
オルグは何も言えなかった。
この二年、この人が音の話をしたのは、これが初めてだった。
「隊長。それは、奥方はご存じで」
「言っていない」
「なぜでございます」
「言えば、憐れむ」
「……奥方が、そういう方ですか」
「そういう者でなくとも、憐れむ」
隊長は杯を空けた。
「それに、あれは出ていきたがっている」
「はあ」
「毎晩、狂った弦を張るのはそのためだ。嫌われて、離縁されて、王都へ帰りたいのだろう。工房が競売にかかると聞いた」
オルグは自分の耳を疑った。
「……隊長。ご存じでいらしたのですか」
「察しはつく」
「察しがついていて、毎晩通っておられるのですか」
隊長は答えなかった。
しばらくして、こう言った。
「あれの弦は、良い」
それだけだった。
オルグは天井を見上げた。詰所の梁は二年前と同じところが煤けている。
この人は、自分を追い出すために張られた弦を、毎晩聴きに行っている。世界でその音だけがまっすぐ聞こえるからだ。そして、それを言えば相手が気の毒がると思っている。だから言わない。言わないまま、相手は狂った弦を張り続ける。
どこから手をつければいいのか、オルグには分からなかった。
「隊長」
「なんだ」
「一つだけ、お耳に入れておきたいことがございます。峠の砲のことです」
隊長が顔を上げた。
「あの砲の検収記録を、去年見る機会がありました。据え付けの前に王都で検分を通したことになっております。通した日付と、署名が入っておりました」
「それがどうした」
「その日付には、砲はまだ王都の工房にございませんでした。船で運ばれてきたのは、その八日あとでございます」
詰所が静かになった。
「署名は」
「ゲール、と」
隊長は、それきり何も言わなかった。
翌朝、馬に乗る前に、隊長は一度だけ振り返った。
「オルグ」
「はい」
「その話は、まだ誰にも言うな」
「隊長も、まだ誰にも仰っておられませんな」
返事はなかった。
馬が石段の下へ消えるのを見送りながら、オルグは思った。
この人は、まだ誰にも言っていない。
二年前のことも、耳のことも、それから、たぶん、いちばん言うべき相手にも。
視点をお借りしました。北の砦の副官、オルグ・レンツでございます。本編でルツィアの視点を離れるのは、第一部ではこの一度きりです。
これで読者の皆様は、ルツィアより先に答えをご存じになりました。ここから五話、ルツィアはまだ知りません。知らないまま、弦を張り続けます。
次回、屋敷に王都から検査官がまいります。ルツィアの張った弦を、一本ずつ測って記録していく仕事の方でございます。




