第11話 今宵の一本
旦那様は三日目の夕刻に戻られた。
わたくしは工房の窓からそれを見ていた。見るつもりはなかったのだが、馬が門を入る音がしたので、つい手が止まった。手が止まったついでに、窓のところへ行った。ついでではないことは、自分でも分かっていた。
留守のあいだも、弦は張った。
聴く人がいなくても張った。十本目と、十一本目。所見の欄は二日とも空欄である。
空欄を二つ作ってみて分かったことがある。わたくしはこの手帳を、旦那様のためにつけているのではない。自分のためにつけている。所見が埋まらないと、その日が終わった気がしない。
夕食のあと、工房で手帳を開いた。
一本目・E線、四分の一。所見「澄んでいる」
二本目・A線、半音。所見「昨日より、いい」
三本目・E線四分の一、A線半音。所見——空欄
四本目・D線、一と八分の一。所見「いい」
五本目・G線、狂わせず。所見「濁っている」
六本目・E線四分の一上、A線四分の一下。所見「いい」
七本目・E線、四分の三。所見——空欄
八本目・E線四分の一下、G線四分の一高。所見「いい」
九本目・全弦、正しく。所見「やめてくれ」
十本目・E線、四分の一。所見——空欄
十一本目・A線、四分の一。所見——空欄
十一日で十一本。
並べてみると、一つ気づくことがあった。
「いい」と仰ったのは、高い側の弦を下げたときと、低い側を上げたときだ。つまり、四本の弦の高さの差を狭めたときである。逆に、正しく開いたとき——標準の五度をきっちり立てたときに限って、濁っていると仰る。
狭めると、いい。
広げると、濁る。
わたくしは炭を足して、もう一度、頭から見直した。何度見直しても同じだった。この十一行は、でたらめに見えて、一つの規則で並んでいる。
規則があるということは、好みではないということだ。
好みなら揺れる。日によって変わる。この方は十一日、一度も揺れていない。
確かめるために、逆から数えてみた。
もし「狭めたほうが好き」なだけなら、狭めれば狭めるほど良いはずである。二本目のA線は半音下げた。八本目より広く狭めている。ところが所見は「昨日より、いい」であって、いちばん良いとは仰っていない。
三本目は二つ同時に狂わせた。E線を四分の一、A線を半音。あれには所見がない。あの日は広間だったので、夜に鳴らしていない。
六本目は上を上げ、下を下げた。これは狭めたのではなく、真ん中へ寄せたことになる。所見は「いい」。
寄せる。
狭めるというより、四本を真ん中へ寄せたときに、この方は良いと仰る。
わたくしは炭を足す手を止めた。
真ん中へ寄せるというのは、上と下の端を削るということだ。楽器の側の話をしているつもりで、いつのまにか、聴く人の側の話になっている。
もしこの方の耳が、上と下の端を——いや。
そこで、やめた。
——これは、耳が敏いという話ではないのではないか。
そこまで考えて、わたくしはやめた。
やめた理由は、その先を考えると、あまり嬉しくない場所に着きそうだったからだ。職人は木の欠点を見つけるのが仕事だが、見つけたくない欠点というものもある。
手帳を裏返した。
裏の頁には、別の数字が並んでいる。
工房の買い戻しにいる金額だ。二十七万ルド。父の道具箱を入れて三十万。その下に、この二月で書き足した数字が並んでいる。
弓の張り替え、一張り八百ルド。駒の新調、一挺二千二百。魂柱の立て直し、千五百。胴の割れの継ぎ、五千から。
どれも、王都の工房の相場だ。
辺境には楽器屋がない。いちばん近い町でも馬で二日かかる。ダーレン領の楽師や、砦の兵の持つ楽器は、壊れたら壊れたままになっている。
もし、わたくしが直せば。
一日一挺として、月に二十挺。相場の半分でいただいても、月に二万ルド。
十五月で、三十万に届く。
届いてしまう。
わたくしは指を止めた。
その計算をするということは、この家に十五月いるということである。夏至までに離縁されるという計画と、まるきり噛み合わない。
「奥様」
ラルスの声で、わたくしは手帳を閉じた。
「旦那様がお見えです」
「今夜は何分でしょう」
「昨夜と一昨夜は、ゼロ分でございました」
「そうでしょうね。砦にいらしたのですから」
「ゼロも数でございます。数えておりました」
ラルスは大真面目にそう言って、一歩下がって背筋を伸ばした。
「二晩ぶんで、ゼロが二つでございます。ゼロが二つ並ぶのは、わたくしがこの屋敷に来てから初めてです」
「ラルス。あなたは、いつからそれを数えているのです」
「奥様がお見えになった日からでございます」
わたくしは何か言おうとして、やめた。
この子は、誰にも頼まれずに、五十日あまりぶんの数を持っている。
扉が開いた。
旦那様が入ってこられて、いつもの椅子に腰を下ろされた。灯りの届かない、扉に近い側。三日ぶりだった。
「今夜も、あるか」
「ございます。二本ぶん、溜まっております」
「二本」
「留守のあいだも張っておりましたので」
旦那様が、こちらを見られた。
何か仰るかと思ったが、仰らなかった。代わりに、椅子の背から身を起こされた。
わたくしは弓を取った。九本目のことには、どちらも触れなかった。触れないことにしたのだと思う。二人とも、示し合わせもせずに。
十一本目。A線、四分の一。
鳴らした。
旦那様は目を閉じられた。
「いい」
三日ぶりに、その言葉を聞いた。
わたくしは弓を置いて、手帳を開き、空欄を二つ、後ろから埋めた。十本目にも、十一本目にも同じ言葉を書いた。ずるだと思ったが、書いた。
「ヴィエル」
旦那様が仰った。
わたくしは顔を上げた。
工房でその名を呼ばれたのは、初めてだった。父の名であり、看板の名であり、いまは叔父の名でもある。それでも、この五十日で誰かがわたくしに向かって発した言葉のうち、いちばん名前に近いものだった。
「はい」
「その帳面は、なんだ」
「……記録でございます。何をどう狂わせたか、書き留めております」
「見せてくれとは言わん」
「はい」
「捨てるな」
それだけ仰って、旦那様は立ち上がられた。扉が閉まって、廊下の板が三度鳴った。
捨てるな、と仰った。
わたくしは手帳を胸に抱えたまま、しばらく座っていた。
父も、同じような帳面をつけていた。四十年ぶんある。あれは今、叔父の倉にある。目録に「工具」として一括りに書かれた中に、たぶん紛れている。
あれを取り返さなければ、と初めて思った。
金額の話ではなく。
【今宵の一本】十一本目・A線、四分の一。所見「いい」。……空欄を二つ、後ろから埋めました。ずるでございます。
十一日で十一本。並べると規則が見えてまいります。ルツィアは規則に気づいて、その先を考えるのをやめました。職人が「見つけたくない欠点」に近づいたときの手つきでございます。
この回で手帳の裏側もお見せしました。ルツィアが十五月ぶんの計算をしてしまうところが、今日のいちばん危ういところです。
次回、王都から検査官がまいります。ルツィアの十一本を、一本ずつ測って記録していく仕事の方です。名前をマティス・ロウと申しまして、父の弟子だった人でございます。




