第8話 ラルスの失言
叔父が帰った翌日から、また元の暮らしに戻った。
八本目を張るころには、この暮らしにも順序ができていた。朝は膠を煮て、昼は木を見て、夕方に一本狂わせ、夜に旦那様が来られる。ラルスが分数を報告し、テレーゼが茶を出す。
順序ができるというのは、居着くということだ。
わたくしは自分がここへ居着き始めていることに気づいていて、気づかないふりをしていた。
「奥様。この板、どちらへ運びましょう」
ラルスが工房の入口で、二尺ほどの板を抱えている。裏板に使う楓で、去年ダーレン家が仕入れて、そのまま置いてあったものだ。
「窓際へ。立てかけて、日が直接当たらないように」
「立てるのでございますか。寝かせるほうが場所を取りませんが」
「寝かせると片面だけ湿ります。木は、まっすぐ立っていたときの向きを覚えておりますので、そのとおりに立てるのがいちばん狂いません」
「木が、覚えているのですか」
「覚えております。切られて何年経っても」
ラルスは板を立てかけて、しばらくそれを見ていた。
「奥様。木は、正直でございますね」
「そうですね。数と同じで」
「はい。数と同じで」
ラルスは満足そうに背筋を伸ばした。
膠が煮えるのを待つあいだ、わたくしはずっと考えていたことを、つい口に出した。
「ラルス。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なんなりと」
「旦那様は、なぜ狂った音をお好みになるのでしょう」
言ってから、しまったと思った。屋敷の者に主人のことを訊くのは、褒められた振る舞いではない。
ところがラルスは、少しも困った顔をしなかった。
「ああ、それは」
そこで、ごく当たり前の調子で続けた。
「旦那様は北峠から、耳が——」
「ラルス」
テレーゼの声だった。
わたくしは工房の入口を振り返った。いつからそこにおられたのか、まったく分からなかった。この方はいつもそうだ。ただ、いつもと違うところが一つあった。
テレーゼが、笑っておられなかった。
五十日近くこの屋敷にいて、わたくしはこの方の困った顔も、呆れた顔も見た。厳しい顔は初めてだった。
「膠が焦げます」
「……はい」
「ラルス。厩の桶が割れていました。見てきなさい」
「はい。ただいま」
ラルスは板を置いて、走っていった。走りながら一度だけこちらを振り返って、それから前を向いた。
顔が白かった。
あの子は、自分が何を言いかけたのか、言いかけてから気づいたのだ。
工房に、膠の匂いだけが残った。
「テレーゼ」
「はい」
「わたくしは、訊いてはならないことを訊きましたか」
テレーゼは鍋のところまで来て、火を弱めた。手つきに乱れがない。乱れがないぶん、答えが遅かった。
「奥様が悪いのではございません」
「では」
「あの子がいけません。あの子は数しか数えられませんので、言葉のほうは加減が分かりません」
それは答えになっていない。答えになっていないことを、この方は承知で言っている。
わたくしは膠を掻き混ぜた。掻き混ぜながら、頭の中では続きを勝手に組み立てていた。
北峠から、耳が。
耳が——どうなったのか。
いちばんありそうなのは、こうだ。あの方は北峠で何かを聴いた。砲の音か、あるいはそれ以上のものを。それ以来、音に敏くなられた。世の中には、そういう話がある。命のやりとりをした人は、木の葉が落ちる音でも目が覚めるようになると聞く。
だとすれば、辻褄が合う。
耳が敏くなりすぎたから、標準の調律が「濁って」聞こえるのだ。わたくしたちが澄んでいると思っている音の中に、普通の人には聞こえない濁りがあって、あの方にはそれが聞こえる。だから、少し外した弦のほうが、かえって耳に障らない。
そういうことに違いない。
辻褄が合ったので、わたくしは安心した。
安心したことが、あとになって、いちばんの遠回りだったと分かる。
膠を火から下ろして、しばらく手が空いた。
空いた手で、壁の四挺のうち一挺を下ろした。父の音がするほうだ。裏板を光にかざして、木目を追った。二十年前の父は、まだ胴を薄く取っていた。薄く取ると鳴りが早いかわりに、寿命が短い。父は五十を過ぎてから厚く取るようになった。長く保たせるほうを選んだのだ。
選んだ理由を、生前に訊いたことがある。
——鳴りが早いのは、作った本人が生きているうちに聴きたいからだ。厚く取ると、鳴るころにはこっちが死んでる。
——では、なぜ厚くなさるのですか。
——死んだあとも鳴るほうが、得だろう。
父は損得の言葉でしか大事なことを言わない人だった。
いま思えば、あれは遺言のようなものだったのかもしれない。
わたくしは一挺を壁へ戻した。この四挺は、父が死んだあとも鳴っている。鳴っているところを毎晩、狂わせているのはわたくしである。
父が生きていたら何と言うか、この十日で三度考えて、三度とも同じ結論になった。
——値がついてんなら、それでいい。
言いそうだ。腹立たしいほど言いそうだった。
夜。廊下の板が鳴った。
「奥様。旦那様がお見えです。昨夜は五十二分でした」
ラルスの声は、いつもより小さかった。
「ラルス」
「はい」
「桶は割れておりましたか」
「……割れておりませんでした」
「そうですか」
「奥様。わたくしは、余計なことを申しました」
「何も伺っておりません」
少し黙ってから、ラルスは言った。
「ありがとうございます」
それから一歩下がって、背筋を伸ばした。
扉が開いた。旦那様がいつもの椅子に腰を下ろされる。
「今夜も、あるか」
「ございます」
八本目。E線を四分の一低く、G線を四分の一高く。両端を逆に開くと、真ん中の二本が居場所をなくす。
鳴らした。
旦那様は目を閉じられた。閉じる前に、椅子の背から身を起こされた。今夜もそうだった。
「いい」
「旦那様」
「なんだ」
「耳が、およろしいのですね」
旦那様は、少しのあいだ黙っておられた。
「そう言われたことはない」
「では、そう申し上げます。ずいぶんお耳がよろしいのだと思います。糸巻きの音を、棟の向こうから聞き分けられるのですから」
「……そうか」
旦那様は椅子から立ち上がられた。
立ち上がってから、一度だけ、こちらを見られた。何か言おうとして、やめられたように見えた。この方が言葉を飲み込むところを、わたくしは初めて見た。
「明日も頼む」
扉が閉まった。廊下の板が三度鳴った。
わたくしは手帳に書いた。
八本目・E線四分の一下、G線四分の一高。所見「いい」。
余白のほうに、こう書いた。
(耳がよろしい。北峠から。=敏くなられたということ)
等号を書いたのは、自分でも珍しいと思った。答えが出たときの癖である。
【今宵の一本】八本目・E線四分の一下、G線四分の一高。所見「いい」。……余白に等号を書きました。答えが出たと思ったときの、職人の悪い癖でございます。
この回でルツィアは一つの結論に達します。そして、その結論は間違っております。間違ったまま、あと七話進みます。
ラルス・ホルト十六歳が、生まれて初めて言葉を飲み込んだ回でもございました。
次回、ルツィアは思いつきます。正しく張って差し上げれば、お耳の敏い旦那様はさぞお喜びになるだろう、と。




