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離縁したくて弦を狂わせましたのに、旦那様は一等いい音だと仰います  作者: 天音フェリ


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7/11

第7話 三月の期限

 叔父が来たのは、手紙より三日早かった。


「知らせを出しておいたはずだが」


 玄関の広間で、バルトルト・ヴィエルはそう言った。出していない。この人はいつも「出しておいた」と言って現れる。三日ぶんの支度をさせないためだ。宿を用意させなければ、屋敷に泊まることになる。


「叔父様。遠路、ご苦労さまでございます」


「ルツィア。少し痩せたな」


「そうでしょうか」


「辺境の飯が合わんのだろう。王都とは違うからな」


 合っている。この家の食事は父の工房にいたころより三倍まともだ。


 叔父は広間を見回した。天井の梁、壁の織物、暖炉の石。値踏みしているのが分かる。この人は人の家に入ると必ずこれをやる。父の葬儀の日にも、棺の前でこれをやっていた。


「辺境伯はご在宅か」


「昼は領内を回っておられます。夕刻には」


「では、それまでに姪と話しておこう」


 応接の間で、叔父は懐から紙を出した。


 競売の告知だった。日付が入っている。夏至の翌週、王都の第三倉庫。


 ——ヴィエル工房 什器一式・木材・型・工具・のれん


「三月と言ったろう。もう決めてある」


「叔父様。まだ二月半ございます」


「告知は早いほうが値が上がる。買い手は支度に時間がいるからな」


 わたくしは紙を見ていた。


 型、と書いてある。型というのは、楽器の胴の形を決める木枠のことだ。父は四十年かけて七つ作った。七つ目は完成の三月後に父が死んだので、まだ一挺も生んでいない。あれが番号を振られて並ぶ。


 目録の下のほうに、細かい字で但し書きがあった。


 ——なお、工具のうち一部は当主代理の私物につき、目録より除外。


 除外、というのは売らないという意味ではない。別に売るという意味だ。まとめて出すより、良いものを抜いて別口で売ったほうが高い。叔父は昔から、そういうところだけは目端が利く。


 抜かれているのは、たぶん父の道具箱だろう。四十年ぶんの鑿と鉋が、父の手の形に馴染んだまま入っている。


「叔父様。目録から外した工具は」


「ああ、あれか。あれは兄の形見だ。売るつもりはない」


「では、わたくしがいただけますか」


「……いずれな」


 いずれ、と言うときのこの人は、値段を考えている。


「もっとも」


 叔父は指を組んだ。


「お前がこの家でしかるべき立場になれば、話は別だ。辺境伯家がヴィエル工房を後援くださるなら、競売にかける必要はない。わしとしても、兄の工房を人手に渡すのは忍びない」


 忍びない、というところで、わたくしは自分の膝を見ていた。


 この人はいつもこうだ。金の話を情の言葉で包む。包み方がいつも同じなので、二十一年も見ていると先に中身が見える。


「わたくしには、その立場がございません」


「作れ。夏至までに」


「叔父様」


「兄が生きていたら、同じことを言った」


 言わない。


 父は一度も、そういうことを言わなかった。父がわたくしに言ったのは、弦の合わせ方と、木の乾かし方と、それから最後に一つだけ。おまえの耳は、わしのより良い。


 夕刻、旦那様が戻られた。


 叔父は玄関まで出迎えに行った。わたくしより先に。


「これはこれは、クレイス様。ご無沙汰しております。姪が世話になっておりまして」


 叔父はこの家の当主を名前で呼んだ。三度しか会ったことのない相手を名前で呼ぶのは、親しさの表明ではなく、親しく見せる商売の癖である。


「ヴィエル殿か」


「不出来な姪で、お恥ずかしい限りでございます。女だてらに職人の真似事ばかりして、家のことは何も。兄が甘やかしたもので」


 叔父は笑っていた。この人は、身内を下げると相手が安心すると信じている。


「先日も、王都の楽長様の前で、とんだお目汚しをしたとか。いや、まったく面目次第もございません。この娘には、そのう、貴族の奥方は荷が勝ちすぎるのでございましょうな」


 わたくしは黙って立っていた。反論する言葉がない。事実だからだ。あの日、二十人の前で狂った音を鳴らしたのはわたくしである。


「ヴィエル殿」


 旦那様が仰った。


「はい」


「あれは、うちの職人だ」


 叔父の笑いが、止まった。


「……はあ」


「手を出すな」


 それだけ仰って、旦那様は奥へ行かれた。廊下の板が三度鳴って、静かになった。


 叔父は玄関に立ったまま、しばらく口を開けていた。それから、わたくしのほうを向いた。


「……お前、職人扱いされているのか」


「そのようでございます」


「妻ではなく」


「そのようでございます」


 叔父の顔に、安心のようなものが浮かんだ。あるいは落胆だったのかもしれない。この人にとっては、姪が辺境伯の妻であることに値打ちがあって、職人であることには一銭の値打ちもない。


「……まあいい。夏至までだ。忘れるな」


 叔父はその夜のうちに帰った。宿を用意しなかったのが効いたらしい。


 夜、工房で七本目を張った。


 張りながら、手が止まった。


 あれは、うちの職人だ。


 手を出すな。


 二十一年生きてきて、あの言い方をされたのは初めてだった。父は「おまえの耳はわしより良い」と言ったが、それは工房の中の話で、外の人の前ではわたくしはずっと「兄の娘」だった。婚礼の書類にも名前がなかった。ダーレン家に来て四十七日、屋敷の誰もが奥様と呼ぶ。奥様というのは、この家に来た誰にでも付く名前だ。


 うちの職人。


 名前ではない。名前ではないが、名前にいちばん近いところにある言葉だった。


 わたくしは糸巻きから手を離して、工房の天井を見上げた。


 嬉しい。


 嬉しいと思ってしまったことが、まずい。


 わたくしはこの家を出ていくために毎晩弦を狂わせている。四十七日かけて七本。手帳に番号を振って、所見を書いて、余白に余計なことまで書いている。出ていくための作業のはずが、続けるための作業になりかけている。


 あの言葉を嬉しいと思ってしまえば、この家に残る理由がひとつ増える。理由が増えれば、工房は競売にかかる。父の型は番号を振られる。


 だから、喜んではいけない。


 言い聞かせて、糸巻きを回した。回しながら、指が震えているのに気づいた。震えている理由が、寒さでないことも分かっていた。


 手帳を開いた。


 七本目・E線、四分の三。所見——。


 そこで、また止まった。


 所見の欄に書くべきことは、旦那様が今夜何と仰ったかであって、玄関で叔父に何と仰ったかではない。


 わたくしは所見の欄を空けたまま、余白のほうに一行だけ書いた。


 (うちの職人、と仰った)


 書いてから、灯りを消した。

【今宵の一本】七本目・E線、四分の三。所見——空欄。余白のほうが、また長くなりました。


 第一章「一本目」は、ここまででございます。七日で七本、狂わせた弦が積み上がりました。積み上がったぶん、ルツィアの出口が塞がっていく話でもございます。


 次回から第二章。旦那様がなぜ狂った音を選ばれるのか、その理由に、ラルスの口が先に触れてしまいます。触れた瞬間、テレーゼが遮ります。


 ここまでお読みくださった方、ブックマークと下の☆から評価をいただけますと、ルツィアの工房の炭が一日ぶん増えます。

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