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離縁したくて弦を狂わせましたのに、旦那様は一等いい音だと仰います  作者: 天音フェリ


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第6話 弓の握れない手

 六本目を張り終えたところで、旦那様がいらした。


 昨夜から、この方は少し早く来られるようになった。前は屋敷の者が寝静まってからだったのが、今は夕食のあと片づけが終わるころに廊下の板が鳴る。


「今夜も、あるか」


「ございます。旦那様、その前に」


「なんだ」


「お手を、見せていただけますか」


 この二日で、わたくしは自分が図々しくなったことを自覚していた。四十六日前は、この方の顔をまともに見ることもできなかった。


 旦那様は右手を出された。昨夜と同じように、灯りの下へ。


 わたくしは膝をついて、手のひらを覗き込んだ。触れはしない。触れずに見た。


 白い線が横に一本。手のひらの真ん中を、親指の付け根から小指の側へ抜けている。線の両側の肉が引き攣れていて、そのせいで薬指と小指が外へ流れている。指の腹には別の硬さがあった。剣を長く握った手にできる、ぶ厚い皮だ。


 職人の目で見た。


 工房には、手を痛めた人がよく来る。楽器を直しに来るのではなく、自分の手が言うことを聞かなくなって、それでも弾きたくて来る。父はそういうお客に、握りを太くした弓を作った。あるいは、指の届く範囲だけで鳴るように、駒の高さを変えた。


 道具のほうを人に合わせる。それが父の考え方だった。


 ——楽器は人に合わせるもんだ。人が楽器に合わせるようになったら、そりゃもう楽器屋の負けだ。


 わたくしはこの言葉を、値切られたときの父の負け惜しみだと思っていた。


「切れたのではございませんね」


「なぜ分かる」


「切り傷でしたら、線がもっと細うございます。これは、握っていたものが熱くなって、そのまま押しつけたときの形でございます。父の工房で、火鉢を倒した弟子がこれになりました」


 旦那様は答えなかった。


「弓は握れなくとも、匙は握れましょう。剣は」


「剣は握れる。細いものが駄目だ」


「弦を押さえるほうの手は」


 旦那様は左手を出された。こちらは無事だった。指が長く、爪が短く切ってある。


「そちらでしたら、押さえられます」


「押さえて、どうする。もう片方が握れん」


「……そうでございますね」


 わたくしは膝から立ち上がった。


 この方は弾けない。いつからそうなのかは、訊けば分かる。


 訊いた。


「その傷は、いつのものでございますか」


 旦那様は、はじめて目を逸らされた。


 この方が視線を外すのを、わたくしは見たことがなかった。楽長に「濁っている」と言い切ったときも、まっすぐ見ておられた。


「二年前だ」


「どちらで」


 沈黙が長かった。


「北峠だ」


 その名前を、わたくしは知っていた。知らない者はいない。二年前の冬に北の峠で何かがあって、守備隊が半分に減った。王都では「北峠の火」と呼ばれている。魔導砲の暴発だとも、敵の奇襲だとも言われていて、どちらが本当かは公になっていない。父の工房にも、その冬から楽器の注文が来なくなった。喪に服する家が多すぎたのだ。


「旦那様は、そこに」


「いた」


「では——」


「今夜のを、聴かせてくれ」


 話は終わった、という意味だ。


 わたくしは弓を取った。六本目、E線とA線を逆方向に。上を四分の一上げて、下を四分の一下げた。開くと、うなりの速さが変わる。


 鳴らした。


 旦那様は目を閉じられた。今夜は、ずいぶん深く閉じておられるように見えた。


「いい」


 その夜、旦那様が帰られたあと、わたくしは工房を出て台所へ行った。


 テレーゼが一人で銀器を磨いていた。この方は、屋敷の者が寝たあとにこれをやる。誰にも手伝わせない。


「テレーゼ」


「奥様。お休みではなかったのですか」


「北峠のことを、お聞きしてもよろしいですか」


 布の動きが止まった。


 テレーゼは銀の匙を布の上に置いて、それからわたくしのほうを向いた。この方が正面から向き直るのを、わたくしはこの日はじめて見た。


「奥様」


「はい」


「北峠のことは、誰にも訊いてはなりません」


「……旦那様に、失礼になりますか」


「そうではございません」


 テレーゼは、また匙を取った。


「訊かれると、あの方は答えてしまわれます。答えたあとで、ひと晩お眠りになりません。二年、それを見てまいりました」


「では、どなたにお訊きすれば」


「どなたにも。訊かずにおられるのが、いちばん近道でございます」


「近道、と申しますと」


 テレーゼは銀を磨く手を止めなかった。


「四十年、何も見ておりませんが、一つだけ申し上げます。あの方が二年ぶりに毎晩どこかへ通われるようになったのは、奥様がこの家へお見えになってからでございます」


 わたくしは何か言おうとして、言葉が出てこなかった。


「お茶にいたしましょう」


「……もう、夜中でございます」


「夜中のお茶がいちばんおいしゅうございます。四十年、そう思っております」


 茶が出るまでのあいだ、テレーゼは銀を磨き続けた。


「奥様。ひとつだけ、余計なことを申し上げます」


「どうぞ」


「この屋敷には、二年前から誰も楽器を持ち込みませんでした。旦那様が、置くなと仰いましたので」


 わたくしは湯呑みを持つ手を止めた。


「壁の十一挺は」


「あれは蔵に伏せてございました。奥様がお見えになった翌日に、旦那様が自ら運び出されました。埃をお払いになるのに、半日かかっておられました」


「……半日」


「六十の家令が申し上げますが、あの方はご自分では何もお運びになりません。領主でございますから。二年で二度だけ、ご自分の手で物をお運びになりました。一度は北峠から戻られた日、もう一度は、あの日でございます」


 銀の匙が布の上に置かれた。


「四十年、何も見ておりません。ですが、数だけは覚えております」


 部屋へ戻って、手帳を開いた。


 六本目・E線四分の一上、A線四分の一下。所見「いい」。


 その下に、また余計なことを書いた。


 (北峠。二年前。手のひら。訊かないこと)


 訊かないと決めたのに、書いてしまうのは、忘れたくないからだ。


 忘れたくないと思っている時点で、わたくしはたぶん、この家を出ていく算段より別のことを考え始めている。

【今宵の一本】六本目・E線四分の一上、A線四分の一下。所見「いい」。……手帳の余白が、だんだん本文より長くなってまいりました。


 二年前の冬、北の峠で何かがありました。まだ書けません。書けるようになるまで、あと九話ほどお待ちください。


 次回、第一章の最後でございます。王都から叔父がまいります。三月の期限を切りに来る回で、旦那様がひとこと仰います。ルツィアは、その言葉を喜べません。

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