第5話 旦那様は音楽をご存じない
五本目を張りながら、考えていた。
この方は、楽器がお好きなのだろうか。
毎晩来られる。狂った音を褒められる。灯りのない夜も扉の前に立たれる。ここまでは、たいへんな愛好家ということで筋が通る。
通らないところが一つある。
この方は、一度も楽器に触れようとなさらない。
工房には父の代から数えて十一挺が置いてある。壁に掛けたもの、卓に伏せたもの、修理待ちで裸のまま横たえてあるもの。愛好家なら、まず触る。持ち上げて、光にかざして、指板を撫でる。父の店に来られたお客様は、例外なくそうした。
旦那様は、扉に近い椅子から動かれない。
もう一つある。
この方は、音が鳴る前に身を起こされる。
毎晩そうだ。わたくしが弓を構えると、椅子の背から背中を離される。楽師は音が出てから聴く。それが普通だ。この方は出る前から用意をなさる。
まるで、一度きりしか鳴らないものを、聞き逃すまいとしておられるように見える。
三日ぶん、そんなことばかり考えていた。考えても答えが出ないので、試すことにした。父も同じやり方をしていた。分からない木は、まず一枚薄く削ってみる。削れば木のほうが答える。
その日、試してみることにした。
夜、いつもの時間に廊下の板が鳴った。
「奥様。旦那様がお見えです。昨夜は四十六分でした」
「ありがとう、ラルス」
「増え続けております。このままいきますと、来月には夜が明けます」
「そうなる前に、こちらが出ていく算段でおりますので」
「どこへでございますか」
わたくしは答えなかった。ラルスは首をかしげて、それから背筋を伸ばして下がった。
扉が開いた。
「今夜も、あるか」
「ございます。ただ、その前に一つ、お願いがございまして」
旦那様が立ち止まられた。この方は、話しかけられると必ず立ち止まる。歩きながら人の話を聞くということをなさらない。
「なんだ」
「旦那様に、弾いていただきたいのです」
沈黙が落ちた。
窓の外で、風が一度、鎧戸を鳴らした。
「わたくしは職人でございます。作った者が弾いても、癖のところが分かりません。よその手で鳴らしていただくのが、いちばん確かでございます」
筋の通った頼みだ。実際、父も同じことをしていた。半分は本当で、半分は試しである。
旦那様は、しばらくわたくしを見ておられた。
「弾けない」
「習っておられないだけでございましょう。構え方でしたら、すぐに——」
「弾けない」
二度目の声は、一度目より低かった。
それから、右手を持ち上げられた。灯りの下へ、自分から出された。
大きな手だった。指が長い。長いけれど、まっすぐではなかった。薬指と小指が、根本から少し外へ流れている。手のひらの、弓を握るあたりに、白く盛り上がった線が横に走っていた。古い傷だ。塞がってから、ずいぶん経っている。
「これでは、押さえられん」
「……失礼をいたしました」
「かまわん」
旦那様は手を下ろして、椅子に腰を下ろされた。
わたくしは弓を取った。手が少し震えていて、それを気取られないように、必要以上にゆっくり構えた。
五本目、G線。今夜は逆をやってみるつもりだった。
狂わせずに張ったのだ。
昨日から考えていた。四日続けて褒められたということは、この方は本当に耳が悪いのかもしれない。だとしたら、正しく調えた一挺を出せば、区別がつかないはずだ。「いい」と仰るに決まっている。そうしたら、この四日は全部ただの気まぐれだったと分かる。分かれば、こちらも次の手を考えられる。
正しく調えるのに、半日かかった。
狂わせるより、正しく合わせるほうが手間がいる。まず駒を立て直した。前の使い手が斜めに寄せていたのを、指板の中心線に戻す。魂柱の位置を一分だけ動かして、低い側の鳴りを起こす。それから四本を順に、上げて、越えさせて、少し戻す。合わせるときは必ず下から上へ上げて止める。上から下げて止めると、弾いているうちに戻る。
父に教わったとおりにやった。
教わったとおりにやると、手が勝手に動く。二十一年の中で、この半日がいちばん父と一緒にいた気がした。
できあがった一挺を膝に置いて、しばらく鳴らさずにいた。
この音を、この方は聴かれる。そして、澄んだ音だと仰るだろう。仰った時点で、この四日は全部おしまいになる。狂わせても褒める人ではなく、何を出しても褒める人だったというだけの話になる。
そのほうが好都合だ。好都合のはずだ。
鳴らした。
澄んだ音が立って、天井まで届いて、落ちた。
旦那様は目を閉じられなかった。
眉のあいだに、皺が寄っていた。
「……それは、どうした」
「どう、とは」
「濁っている」
わたくしは弓を持ったまま、動けなくなった。
濁っていない。この一挺は、いま王都のどの工房へ出しても文句の出ない状態にある。焼き印がないことを除けば、完璧に近い。
「旦那様。ただいまのは、標準の調律でございます。昨日、楽長様がお持ちになった一挺と同じ合わせ方です」
「そうか」
「そうか、とは」
「やはり濁っている」
旦那様は立ち上がられた。
「明日は、いつものにしてくれ」
扉が閉まった。廊下の板が三度鳴って、それきり静かになった。
わたくしは椅子に座ったまま、楽器を膝に置いていた。
いつもの、と仰った。
狂ったほうを、いつもの、と。
この方の耳の中で、何が起きているのか分からない。正しいものが濁って聞こえて、狂ったものが澄んで聞こえる。そんな耳の作りは、父の話にも、工房に出入りした楽師たちの話にも、一度も出てこなかった。
翌朝、テレーゼが妙なことを言った。
「奥様。王都から届いておりました楽器を、二挺とも返送いたしました」
「二挺とも、でございますか。楽長様がお持ちになった」
「はい。旦那様のご指示でございます。うちには置かない、と」
置かない。
王国標準調律の、焼き印つきの二挺を。
「テレーゼ。旦那様は、いつからああなのです」
「ああ、とは」
「音の、好みが」
テレーゼは盆を持ち上げた。持ち上げてから、少し止まった。
「……二年ほど前でございましょうか」
それだけ言って、行ってしまった。
二年前。
旦那様が北方守備隊を離れられた年だ。
【今宵の一本】五本目・G線、狂わせず。所見「濁っている」。……この所見だけは、書いていて背筋が冷えました。
この回でルツィアの疑問が一つ増えます。増えた疑問は、当分のあいだ解けません。解けないまま毎晩、弦を張ることになります。
次回、旦那様の手の傷の話でございます。ルツィアは訊いてはいけないことを訊いて、テレーゼに止められます。




