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離縁したくて弦を狂わせましたのに、旦那様は一等いい音だと仰います  作者: 天音フェリ


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第4話 離縁の作法について

 朝いちばんに、屋敷の書庫へ行った。


 辺境伯家の書庫は思っていたより広く、思っていたより埃がなかった。誰かが毎日拭いている。ダーレン家は、そういう家だ。誰も見ていないところが、いちばん整っている。


 探していたのは法典の第七巻だった。婚姻と、その解消について。


 昨日の広間で、企ては半分失敗した。ならば、こちらから出ていく道を調べておくべきだと思った。追い出されるのを待つのは、相手任せすぎる。


「奥様」


 振り返ると、テレーゼが立っていた。足音がしないので、いつもこうなる。


「第七巻でございましたら、上から三段目の、右から二冊目でございます」


「……なぜ、探しているものが分かるのです」


「四十年、何も見ておりませんので」


 テレーゼは踏み台を引いてきて、自分で登り、埃を払って本を下ろした。六十の方にさせることではない。止めようとしたら、手のひらで制された。


「奥様。第七巻の、第三十二条から先でございます。それより前は婚姻の成立の話ですので、お読みになっても時間の無駄です」


「……ありがとうございます」


「わたくしは何も——」


「見ておられないのでしょう。存じております」


 第三十二条から先を読んだ。


 辺境法の離縁は、王都のものより簡素だった。両者の合意があれば書面一枚で済む。合意がない場合は、七つの事由のいずれかを立てる必要がある。不貞。遺棄。三年以上の別居。虚偽の家系。


 そして、第五。


 ——妻または夫が、家業の遂行に著しく不適格であること。


 わたくしは指を止めた。


 家業。ダーレン家の家業は辺境の防衛と、領地の経営と、それから慣例として、北の守備隊へ楽器を贈ること。


 楽器の質が悪ければ、家業に不適格。


 筋は通る。通るはずだ。昨日、二十人の前で証明したばかりではないか。あの一挺を守備隊へ贈れば、冬に王都まで話が届く。ダーレン家の贈った楽器が狂っていた、と。


 そこまで考えて、少し気分が悪くなった。


 わたくしは、この家の恥を材料にして出ていこうとしている。四十四日、誰も名前を呼ばない代わりに、誰も冷たくしなかった家の。


 持参財の項も読んだ。第四十一条。妻が婚家に持ち込んだ道具は、離縁の際、妻に帰属する。


 行李ひとつと、鑿が一本。それが全部だ。


 鑿は父のものだった。柄の握りのところが、父の指の形にへこんでいる。四十年握るとああなる。わたくしの手には大きすぎて、いまだに三本の指でしか支えられない。


 婚礼の前の晩、叔父はこれも目録に載せようとした。工房の什器だ、と言って。


 わたくしは、それだけは持って出た。持って出るとき、叔父は止めなかった。値がつかないと踏んだからだ。柄がへこんだ鑿は中古としては最低の部類で、買い手がつかない。


 値がつかないから、わたくしの手元にある。この工房でいちばん大事なものが、この世でいちばん安い。


 工房の権利は入っていない。あれは叔父のものだ。だから取り返すには金がいる。二十七万ルド。父の道具箱を含めれば、三十万を見ておかなければならない。


 わたくしが一年に稼げる額ではない。十年でも足りない。


 法典を閉じた。


「奥様。お茶にいたしましょう」


「テレーゼ」


「はい」


「この家に、わたくしがいて、困ることは何かありますか」


 テレーゼはしばらく黙っていた。


「ございません」


「では、いなくなって困ることは」


「……お茶にいたしましょう」


 午後、工房で四本目を張った。


 昨日の三挺目は旦那様が持っていかれてしまったので、別の一挺を出してきた。今度はD線を落とすことにした。低い弦を狂わせると、音が濁るのではなく、腹に響かなくなる。上手い下手ではなく、単に「気持ちが悪い」音になる。


 弦を掛け、糸巻きを回し、途中で手を止めた。


 わたくしは何をしているのだろう。


 一日一本、狂わせた弦を張って、褒められて、手帳に番号を書いている。四本目である。四日続けている。続けているうちに、これが仕事のようになってきた。


 仕事ではない。これは、出ていくための工作である。


 言い聞かせて、糸巻きを最後まで回した。


 日が落ちるころ、廊下の板が鳴った。


「奥様。旦那様がお見えです」


「今夜は何分でした」


「まだお見えになっておりませんので、これからでございます。昨夜は四十一分でした」


「増え続けておりますね」


「増え続けております。それから、奥様」


 ラルスは一歩下がって、背筋を伸ばした。報告の姿勢だ。


「奥様が工房にいらっしゃらない夜も、旦那様は扉の前に立っておられます」


 わたくしは糸巻きから手を離した。


「……何と仰いました」


「一昨日、奥様は熱を出されてお休みでしたでしょう。工房に灯りがございませんでした。旦那様は扉の前まで来られて、八分立って、お戻りになりました。八分でございます。数えました」


「ラルス」


「はい」


「その話は、どなたかにもう?」


「テレーゼさんに申し上げました。頭を叩かれました」


 そうだろうと思う。


「ラルス。なぜ、そういうことを数えるのです」


「数えるものが好きなのでございます。数はごまかせませんので」


「ごまかせない、と申しますと」


「言葉はごまかせます。うちの村では、大人はみな言葉でごまかしておりました。今年は麦が去年より穫れた、と言うのですが、袋の数は減っております。袋は数えれば分かります」


 ラルスは一歩下がって、背筋を伸ばした。


「わたくしは字が読めません。ですので、数えます」


 わたくしは何と答えればいいか分からず、しばらく黙っていた。


「……読めるようになりたいですか」


「なりたくございます。ですが、いま習うと、みなが気を遣います」


 それきり、ラルスは行ってしまった。


 そうだろうと思う。


 わたくしは弦を張りかけの楽器を膝に置いたまま、しばらく動けなかった。


 毎晩、来ておられる。


 わたくしが弾く夜も、弾かない夜も。灯りのない扉の前に八分立って、帰る。


 なぜだ。


 狂った音を聴きに来ておられるのだと思っていた。妙な趣味の方だと。あるいは、こちらを試しておられるのだと。


 灯りのない扉の前に八分立つのは、そのどれでもない。


 扉が開いた。


 旦那様が入ってこられて、いつもの椅子に腰を下ろされる。灯りの届かない、扉に近い側。


「今夜も、あるか」


「……ございます」


 声が少し、掠れた。


 わたくしは弓を取った。四本目、D線。腹に響かない、気持ちの悪い音。


 鳴らした。


 旦那様は目を閉じられた。


「いい」


 そればかりだ。この方の言葉は、いつも十五字を越えない。


 わたくしは弓を置いて、手帳を開いた。


 四本目・D線、一と八分の一。所見——「いい」。


 それから、欄の下に小さく書き足した。


 (一昨日、扉の前で八分)


 書いてから、消そうとして、やめた。

【今宵の一本】四本目・D線、一と八分の一。所見「いい」。……あと、余計なことを一行書き足してしまいました。


 この作品でいちばん口の軽い人物、ラルス・ホルト十六歳の本領でございます。悪気は一切ありません。数えているだけです。


 次回、ルツィアは気づきます。旦那様は、楽器がお好きなくせに、一度も弾こうとなさらないということに。

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