第3話 楽長の耳
「本日、王都から楽長がお見えになります」
朝の茶と一緒に、テレーゼがそう言った。
「ダーレン家は毎年、北の守備隊へ楽器を一挺贈ります。冬に、隊の慰問で使うものでございます。今年の一挺を、旦那様がお選びになります」
「選ぶ、と申しますと」
「王都から二挺、届いております。楽長ドラン様がお持ちになりました。広間に並べて、旦那様が聴いてお決めになります」
わたくしは茶を置いた。
「三挺にしていただけますか」
テレーゼの手が、ほんの一瞬だけ止まった。止まったのに気づかれないように、すぐ動いた。
「……奥様の一挺を、でございますか」
「はい。嫁いでまいりました以上、何もお出ししないというのも失礼にあたりましょう」
嘘である。
王都の楽長と、屋敷の者と、王都から来た随行の楽師たち。二十人は下らない。その前で狂った一挺を出せば、ダーレン家の恥になる。恥になれば、離縁の理由として十分に足りる。夜の工房で二人きりのときに褒められるのが問題なら、人前に出せばいい。人前でまで褒める人はいない。
テレーゼはしばらくわたくしを見ていた。それから、盆を持ち上げた。
「承知いたしました。運ばせます」
「……何も仰らないのですね」
「わたくしは何も見ておりません。四十年、何も見ておりません」
昼過ぎ、広間に卓が三つ並んだ。
楽長ドラン様は六十を越えたご老人で、白髪を後ろに撫でつけ、指が長かった。王都の楽師団を四十年率いてこられた方だという。挨拶のあいだ、わたくしのほうは一度も見なかった。辺境伯夫人が職人の娘であることは、王都では笑い話として流れているらしい。
「まず、標準の一挺から」
ドラン様は自ら弓を取られた。
澄んだ音が広間に立った。
文句のつけようがない。五度が石のようにまっすぐ立ち、余韻が天井まで届いてから静かに落ちる。指も確かだった。六十を越えてこの音を出せる方は、王都にも何人もいないだろう。
王国標準調律、という。
三年前に弦楽ギルドが定めた基準で、どの弦をどの高さに合わせるかが数字で決めてある。それ以前は、工房ごとに少しずつ違っていた。合奏のときに合わないという苦情が出て、統一されたのだと表向きは言われている。
この基準で調えた楽器にだけ、ギルドの焼き印が入る。焼き印のない楽器は王都の楽師団では使えない。教会でも使えない。学校でも教えない。
そして、その焼き印を押す権利を、ギルドが売っている。一挺いくら、と決まっている。年ごとの更新料も別に取られる。
——音に値をつけるのに、耳を使わんのだ。
父が生前、そうぼやいていた。ぼやいただけで、父は最後まで焼き印を買わなかった。買わなかったから、注文が減った。減ったところに病が来て、借財が残った。
筋道としては、そういうことになる。
「二挺目」
これも良かった。一挺目より少し明るい。
「以上でございます、辺境伯」
「三挺目がある」
旦那様がそう仰って、広間が一度、静かになった。
テレーゼが卓の布を取った。わたくしの一挺が出てきた。
昨夜のうちに、A線とE線の両方を落としてある。四分の一と、半音。組み合わせは最悪だ。父が生きていたら、この一挺は焚き付けにされていた。
「ほう」
ドラン様が初めてこちらを見た。目が笑っていた。
「奥方様がお作りに」
「作ってはおりません。手を入れただけでございます」
「では、聴かせていただきましょう」
弓を渡された。わたくしは構えた。
鳴らした。
濁った。
広間の後ろのほうで、誰かが息を吸う音がした。それから、笑い声を噛み殺す音。楽師の一人が隣の者に何か囁いて、二人で下を向いた。
結構でございます。これでいい。これが欲しかった。
わたくしは弓を下ろして、頭を下げた。
「お聞き苦しいものを。お詫び申し上げます」
「いや——」
ドラン様が何か仰りかけたところで、旦那様が立ち上がられた。
背の高い人が立つと、広間の空気の量が変わる。
旦那様は三つの卓の前をゆっくり歩いて、それから、目を閉じられた。
長かった。
誰も咳払いをしなかった。ラルスがいたら数えたことだろう。
目を開けて、旦那様はわたくしの一挺に手を伸ばされた。
「これにする」
「……辺境伯」
ドラン様の声が、はじめて低くなった。
「お戯れは困ります。それは狂っております。四分の一と、半音。基準から外れております。守備隊にお贈りになるものです。王都で笑われますぞ」
「濁って聞こえたのは、そちらの二挺のほうだ」
広間が、静まった。
わたくしは自分の耳を疑った。この方は、澄んだ五度を濁ると仰った。楽長の前で。楽師二十人の前で。
ドラン様の指が、ほんの一瞬、耳の後ろに触れた。すぐに離れた。それから、白髪を撫でつけて笑われた。
「なるほど。辺境の冬は長いと申しますな。長い冬は、耳を鈍らせるとも申します」
「そうかもしれん」
「……その耳は、いずれ笑われますぞ、辺境伯」
「かまわん」
広間の空気が、動かなくなった。
楽師の一人が、隣の者の袖を引いた。引かれたほうは動かなかった。二十人が二十人とも、どちらを見ればいいのか分からずにいる。王都の楽長と、辺境の領主。どちらに恥をかかせても後が悪い。
テレーゼだけが、いつもと同じ顔で卓の布を畳んでいた。畳みながら、ほんの少しだけ、口の端が上がっているように見えた。見間違いかもしれない。
「守備隊へは、こちらを贈る」
旦那様がそう仰って、話が終わった。
ドラン様は帳面を閉じて、随行の者に二挺を包ませた。包ませながら、一度だけ、こちらへ声をかけられた。
「奥方様」
「はい」
「その合わせ方は、どなたに」
「父に」
「お名前は」
「ヴィエルと申します。王都の、第四区の」
ドラン様の手が止まった。止まったのは、ほんの短いあいだだった。
「……そうか。あの工房か」
それだけ仰って、行ってしまわれた。
父を知っておられたのか、名前だけご存じだったのか、それとも借財のほうで名前が回っていたのか。訊けなかった。
旦那様はわたくしの一挺を抱えて、卓を離れられた。
通りすがりに、一度だけ足を止められた。
「良い仕事だった」
それだけ仰って、行ってしまわれた。
わたくしは頭を下げたまま、しばらく顔を上げられなかった。
顔が熱い。理由が分からない。
恥をかくつもりだった。恥はかいた。笑い声も聞こえた。企ては半分成功して、残りの半分が、まるきり反対のほうへ転がった。
二十人の前で、この方はわたくしの失敗作を選ばれた。楽長に恥をかかせてまで。
良い仕事だった、と仰った。
良くない。あれは良くない仕事だ。わたくしがいちばんよく知っている。
その夜、手帳を開いて、所見の欄で手が止まった。
三本目・E線四分の一、A線半音。所見——。
書けなかった。書くべき言葉が思い当たらないのではない。書いてしまうと、自分がそれを嬉しいと思ったことになる気がした。
わたくしは欄を空けたまま、手帳を閉じた。
【今宵の一本】三本目・E線四分の一、A線半音。所見——空欄。書けませんでした。
勝負をかける回でした。恥をかいて追い出されるはずが、二十人の前で選ばれてしまう。ルツィアの企ての、最初の大きな失敗でございます。
楽長ドラン様が最後に耳の後ろへ手をやったのを、ルツィアは見ておりません。読者の皆様だけが見ております。
次回、ルツィアはついに離縁の作法を調べはじめます。ところが調べている最中に、ラルスが余計なことを申します。「旦那様、毎晩いらしてますよ」。
ここまでお読みくださった方、ブックマークと下の☆から評価をいただけますと、ルツィアの手帳の所見欄が一行ぶん埋まります。




