第2話 二本目は、半音下げて
朝の光が入るころ、テレーゼが茶を運んできた。
ダーレン家の家令で、六十になる。旦那様の乳母だった方だと聞いている。背筋が定規のようにまっすぐで、廊下を歩く音がしない。
「奥様。お茶が冷めますよ」
「いただきます」
「……離縁の書類も、冷めます」
わたくしは湯呑みを口に運ぶ手を止めなかった。止めたら負けだと思った。
「何のお話でしょう」
「三日前、机の上に出ていらっしゃいました。文机の右の抽斗の、二段目でございますね。奥から三枚目に紛れておりますが、角が新しいので分かります」
「……テレーゼ」
「わたくしは何も見ておりません。四十年、何も見ておりません」
この方は、こういう方だ。すべて知っていて、何も言わない。言わないと宣言してから、全部言う。
わたくしがこの家に来て四十二日。屋敷の者はみな親切で、それが一番こたえた。誰も、わたくしを弁済の一部として扱わない。奥様と呼び、道を譲り、工房の炭を切らさない。それでいて、誰も名前を呼ばない。
名を呼ばれないまま親切にされるのは、無視されるより始末が悪い。返しようがないからだ。
茶のあと、工房へ下りて膠を煮た。
この屋敷の工房は、もとは酒蔵だったところを父の代の職人が改めたものらしい。ダーレン家は代々、北の守備隊へ楽器を贈っている。贈るからには手入れをする者が要る。だから屋敷の隅に、こんな不釣り合いなほど本格的な工房がある。
鍋を火にかけて、膠の粒が溶けるのを待つあいだ、壁の十一挺を順に見た。四挺は父の工房から出たものだった。裏板の木目に見覚えがある。二十年ほど前のもので、そのころ父はまだ独立して間もなく、胴の厚みを一分だけ薄く取る癖があった。薄いぶん、鳴りが早い。若い音がする。
この四挺には焼き印がない。当時はまだ、焼き印という制度そのものがなかった。
膠が溶けた。指先を近づけて温度を見る。熱すぎると木が焼ける。ぬるいと明日には剥がれる。父はこれを匂いで測っていた。わたくしはまだ指でしか測れない。
昼前に、王都から手紙が届いた。
差出人はバルトルト・ヴィエル。叔父の字は昔から右上がりで、値切るときだけ丸くなる。今回の字は、丸かった。
——三月のうちに妻の座を確かにせよ。夏至までに世継ぎの見込みが立たぬなら、こちらも工房を抱えてはおれぬ。
抱えてはおれぬ、というのは競売にかけるという意味だ。父の木も、父の型も、父が三十年かけて薄く削り続けた指の跡も、まとめて番号を振られて並べられる。
叔父は、わたくしが辺境で妻らしく振る舞えば、ダーレン家から追加の金が出ると踏んでいる。踏んでいるだけで、頼んでもいない。この人はいつも、他人の懐を自分の帳簿に書き込んでから話を始める。
手紙を畳んで、抽斗の三枚目に入れた。角の新しい書類の隣だ。
三月。
わたくしは工房へ下りた。
半音、と決めた。
四分の一は玄人にしか分からない。半音なら、楽器を触ったことのある者なら誰でも分かる。子どもでも分かる。屋敷の犬でも顔を上げる。夕食の席で旦那様が「あの音は何だ」と眉を寄せてくだされば、それで済む話だ。
A線を落とした。糸巻き二回りと、少し。
鳴らしてみて、自分で顔をしかめた。ひどい。人に聴かせるものではない。父が聞いたら、弓ではなく鑿が飛んできただろう。
結構でございます。
日が落ちて、廊下の板が鳴った。
「奥様。旦那様がお見えです。昨夜は三十七分でした」
「増えておりますね」
「増えております。あと、来られる前に一度、扉の前で足を止められます。数えますと十四秒でした」
「なぜ数えるのです」
「数えるのが癖でございまして。字は読めませんが、数は数えられます」
ラルスはそう言って、報告の前にいつもするように、一歩下がって背筋を伸ばした。
扉が開いた。旦那様は昨夜と同じ椅子に腰を下ろされる。灯りの届かない、扉に近い側。手には何も持っておられない。
「今夜も、あるか」
「ございます。ただ、昨夜よりひどうございます」
「そうか」
わたくしは楽器を構えた。今度こそだ、と思った。
構えたとき、旦那様が椅子の背から少し身を起こされたのが、視界の端に入った。
この方は音が鳴る前にそうする。毎晩そうだ。楽師でもそこまではしない。楽師は音が出てから聴く。この方は、出る前から聴く用意をなさる。
鳴らした。
半音落ちた弦は、隣の弦とぶつかって、耳を掻くような音を立てた。うなりが速い。壁に当たって返ってきた分がさらに濁って、部屋の隅で腐ったように滞る。
弾いているわたくしのほうが、途中でやめたくなった。やめなかった。ここで我慢するのが仕事だ。
弓を離した。
旦那様は、また目を閉じておられた。
昨夜より長かった。ラルスがいたら数えたことだろう。
「昨日より、いい」
わたくしは弓を持ったまま、しばらく黙っていた。
「……旦那様」
「なんだ」
「たいへん失礼を承知で申し上げますが、いま鳴らしたものは、楽器店なら店の奥に隠す類のものでございます」
「そうか」
「そうか、では——」
旦那様は立ち上がられた。それだけで灯りがまた傾ぐ。
「明日も頼む」
扉が閉まって、廊下の板が三度鳴った。
わたくしは椅子に座ったまま、天井の梁を見上げた。
半音で駄目なら、次は何を残していない。楽器を逆さに持つか、弦を全部外すか。それはもう、狂わせるのではなく、壊すという。
手帳を開いて、その日の行を埋めた。
二本目・A線、半音。所見——「昨日より、いい」。
所見の欄を作ったのは今日からだ。埋めるつもりはなかったのに、埋める羽目になった。
抽斗の中に、角の新しい書類と、丸い字の手紙が並んでいる。
三月のうちに、と叔父は書いた。
こちらは、三月のうちに追い出されるつもりでいる。同じ期限で、まるきり逆の話をしているのが、少しおかしかった。
灯りを消す前に、壁の四挺をもう一度見た。
父の音がする四挺。焼き印のない四挺。競売の目録に載るのは工房のほうで、この四挺は載らない。すでにダーレン家のものだからだ。
売られずに済むものが、父の手のうち四挺だけ、辺境の壁に残っている。
それを毎晩、わたくしが狂わせている。
【今宵の一本】二本目・A線、半音。所見「昨日より、いい」。……所見の欄を作ったことを、少し後悔しております。
ルツィアの手帳には、この日から「所見」の欄が増えました。増えたぶんだけ、逃げ道が減っていく話でもあります。
次回、王都から楽長がまいります。ダーレン家に納める楽器を検分する日でございまして、旦那様の前に「正しく調律された一挺」と「わたくしの失敗作」が並びます。




