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離縁したくて弦を狂わせましたのに、旦那様は一等いい音だと仰います  作者: 天音フェリ


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第1話 一本目は、四分の一だけ低く

弦は、正しく張るものです。

——ただし、その正しさが誰にとってのものかは、また別の話でございます。

 E線を、四分の一だけ低く張った。


 弦を張るのは、思われているほど簡単な仕事ではない。掛ける前に指の腹で全長を撫でて、太さの偏りを探す。ほんの少しでも痩せているところがあれば、そこで音が痩せる。撫でてから駒に乗せ、糸巻きに二巻き半、巻き癖を殺しながら締めていく。締めきる前に一度緩めて、また締める。木も弦も、いきなり本気を出させると後で戻る。


 そこまでは、いつもどおりにやった。


 最後の四分の一だけ、戻した。


 糸巻きから指を離すと、弓を当てるまでもなく分かる。緩い。濁る。父が生きていたら、この一本で破門になっていたはずだ。


 だから、いい。わたくしは、この家を出ていきたいのだから。


 嫁いで四十一日。ダーレン家へ運ばれてきたわたくしの荷は、行李ひとつと鑿が一本きりだった。婚礼の日、誓いの言葉より先に読み上げられたのは借財の額で、書類のどこにも、わたくしの名前は載っていない。載っていたのは叔父の名だ。


 ヴィエル工房・当主代理、バルトルト・ヴィエル。


 父が死んで三月で、工房の看板は叔父のものになった。父が三十年かけて集めた木も、道具も、得意先も。そして最後に、姪も。


 ——弁済の一部として、ダーレン辺境伯家へ。


 書面にはそう記されていた。一部、というところが、いかにも叔父らしい。わたくし一人では足りなかったのだ。


 婚礼は王都の教会で、四半刻で終わった。列席は九名。うち七名が債権者だった。祭壇の前で書記官が読み上げたのは誓いの言葉ではなく、まず債務の総額と、内入れの内訳と、残額の弁済方法である。三つ目のところにわたくしが入っていた。


 旦那様——そのときはまだダーレン辺境伯という名前だけの方だった——は、最後まで一度もこちらを見なかった。見られなくてよかったと思った。見られていたら、どんな顔をすればいいのか分からなかった。


 式のあと、馬車に乗る前に、書記官が書類の写しをくださった。受け取って、その場で目を通した。職人の癖で、渡されたものはまず端から端まで確かめる。


 どこにも、わたくしの名前がなかった。


 姪、とだけ書いてあった。


 名前を呼ばれない場所に、居続ける理由はない。


 だから、嫌われることにした。


 職人の娘が嫁いできたのに、張る弦がことごとく狂っている。合わせれば濁り、鳴らせば軋む。そんな妻を、辺境の領主様がいつまでも置いておかれるはずがない。三月もあれば十分だろう。三月後には工房が競売にかかる。それまでに離縁されて王都へ戻れば、まだ間に合う。


 何に間に合うのかは、自分でもよく分かっていない。ただ、あの工房を知らない人の手に渡したくなかった。


 廊下の板が鳴った。


「奥様。旦那様がお見えです」


 扉の向こうで、ラルスの声が裏返る。従士見習いの少年で、十六になる。


 早い。まだ一本目を張り終えたばかりだ。


「昨夜は三十二分でした。今夜はもっと長くなると思います」


「……何のお話です」


「旦那様が、こちらにいらっしゃる時間です。数えております」


「誰も頼んでおりません」


「頼まれておりません。数えました」


 扉が開くと、灯りが一度、大きく傾いだ。


 背の高い人が入ってくると、部屋の空気の量が変わる。ダーレン辺境伯クレイス様は、鴨居に頭を打たない代わりに、いつも少し首を傾けて入ってこられる。北方守備隊で「氷の団長」と呼ばれていた方だと、屋敷の者から聞いた。呼ばれていた、というのは、二年前に隊を離れているからだ。理由は誰も言わない。


「まだ起きていたのか」


「はい。作業の途中でございました」


 旦那様は工房のなかを見回して、それから壁際の椅子に腰を下ろされた。この方は、いつもそこにおられる。灯りの届かない、扉に近い側だ。近づいてはこられない。ただ、聴きにこられる。


 なぜ聴きにこられるのかは、分からない。


「鳴っていた」


「……鳴らしてはおりませんが」


「糸巻きの音だ」


 わたくしは手を止めた。この人は、糸巻きを回す音で「弦を張っている」と分かるらしい。屋敷の反対の棟から。


「弾いてくれ」


「こちらは、まだ調整の途中でございます」


「かまわない」


 好機だと思った。


 わたくしは膝の上に楽器を構え、弓を取った。四分の一低い弦は、単音で鳴らすぶんには、素人には分からない。分かるのは重ねたときだ。A線とE線を同時に鳴らせば、本来なら澄んだ五度が立つ。それが濁る。ゆらぐ。耳のいい者なら、椅子から腰を浮かせる。


 松脂を弓に二度当てた。当てながら、旦那様のほうを見ないようにした。見ると、この作戦を始めた日から毎晩感じている、あの具合の悪さが戻ってくる。


 わたくしはこれから、わざと下手にやる。


 二十一年、そうしないために手を動かしてきた。父は酔っても弦を狂わせなかった。指を痛めた冬でも、駒だけは自分で削った。その人の娘が、追い出されるために音を濁らせている。


 父が見ていたら、何と言っただろう。


 考えないことにした。考えると手が正直になる。


 鳴らした。


 濁りが部屋に広がって、天井のあたりで一度うなり、それから消えた。


 これで終わりだ。呆れられて、明日には王都へ返される。父の道具箱を取り返す算段をしなければ。叔父は売り値を吊り上げるだろうから、こちらは二十七万ルドまでなら——


 旦那様が目を閉じておられた。


 閉じて、動かない。指も、肩も。ずいぶん長いあいだ、そうしておられた。


 やがて、目を開けてこちらを見た。


「一等いい音だ」


 弓が、指から滑り落ちそうになった。


「……失礼を承知で申し上げますが、旦那様。ただいまのは、失敗でございます」


「そうか」


「そうか、とは」


「それでも、一等いい」


 旦那様は立ち上がって、扉のほうへ歩いていかれた。それだけで、部屋がまた広くなる。


「明日も、そうしてくれ」


 扉が閉まった。廊下の板が三度鳴って、それきり静かになった。


 わたくしは弓を置いた。手のひらが少し湿っている。


 意味が、分かりません。


 わざと狂わせた弦を、一等いいと仰る。耳が悪いのなら、糸巻きの音を棟の向こうから聞き当てたりはなさらない。からかっておられるのだろうか。それとも、下手な妻をわざと褒めて、こちらが恥じ入って出ていくのを待っておられるのか。


 だとしたら、この方はずいぶん遠回しな方だ。離縁状を一枚書けば済むのに。


 わたくしは手帳を開いて、その日の行を埋めた。


 一本目・E線、四分の一。


 それから、次の弦を糸巻きに掛けた。


 明日は、半音下げてみましょう。

【今宵の一本】一本目・E線、四分の一だけ低く。旦那様は「澄んでいる」と仰った。意味が分かりません。


 ルツィアは今夜から、離縁されるための一本を毎晩張ります。数え始めた以上、この手帳は最後まで出てまいります。


 次回、二本目。ついでに、叔父から手紙が届きます。三月で妻の座を確かにしろ、とのことでございます。

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