プロローグ
季節は春。
吹く風はあたたかく、草原の長草が、心地よさそうに揺れている。長い冬の夜明けをよろこぶように、道端に咲いた桃色の花は、目いっぱい花びらを広げていた。おだやかな日差しの下、緑の長草が波打ち、花々のあわい香りが、辺り一面にただよっていた。
ぱかぱか、がたごと。ぱかぱか、がたこと。
草原にはさまれた、白い砂の道を、一台の荷馬車が走っている。荷台には、たくさんの木箱がつまれていた——馬車の運転手は、行商人もかねていて、行く先々で、果物や野菜、雑貨類を売っていた。
行商人は顔を上げ、草原の空気を、胸いっぱいに吸いこんだ。
——甘い。
街中では感じられない空気だ。
急かされることのない、やさしい自然の中にいる。
ふと、その甘さを、荷台に乗る少女に、教えてあげようと思った。
その箱の隙間に、ひとりの少女が座っていた。学童というほど小柄ではないが、成人というには幼い顔つきをしている。
少女は、一足のブーツを持っていた——茶色い革製の型と、黒塗りのソールでできた、シンプルな見た目をしている——トレッキングブーツだ。よほど大切なのだろう。少女は、念入りに、ブーツにブラシをかけていた。
「嬢ちゃん、荷台の窓を開けてみな!」
少女は、手元の作業から顔を上げて、荷台の窓を開けた。
少女の顔にも、行商人と同じ、おだやかな草原の風が吹いてくる。あたらしい行き先を見つけた春の風は、少女の短い髪を、楽し気にゆらした。
行商人が言った。
「どうだい?」
「はい! すごく、気持ちいいです!」
行商人から少女の顔は見えないが、弾むようなその声に、行商人は満足した。
行商人と少女は仲間じゃない。
たまたま、行商人が出荷先の街に向かっていた最中、だだっ広い草原を歩く少女を見かけて、声をかけたのだ。
行商人はたずねた——どこへ行くんだい?
少女は答えた——「足」のあるところへ。
少女は旅人だった。行商人にも娘がいるが、いまは街の学校に行っている。娘と同じくらいの少女が、学校にも行かず、大きなバックパックを背負って、旅をしているというのだ。驚きと、心配と、好奇心が、行商人の心を揺さぶった。
少女の行き先までいっしょはできない。
それでも、途中までなら。
こうして、たまたま出会ったふたりが、互いの道の途中まで、馬車に乗っている。
行商人と少女は、馬車の揺れに身を任せて、あたりの景色をながめたり、思い出したように話したり、街中にはない、ゆっくりとした時間を過ごした。
同じような景色がつづくなか、あるところで、草原が二又に分かれた。
立て看板がある。
右の街と、左の街。ここが、ふたりの旅の終着点。
行商人が言うでもなく、少女は「ありがとうございました」と、荷台を降りた。
行商人は引き留めるようにたずねた。
「ほんとうに、ここまででいいのかい?」
「はい。わたしが行きたいのは、あっちですから」
少女は、馬車の鼻先とは逆の道を見つめた。
少女の見つめる先には、これまで来たのと同じくらい、長い道が伸びている。少女の足で進むには、あまりに長すぎるように見える。
少女は柔らかい笑顔を浮かべた。
「ご心配、ありがとうございます。でも、だいじょうぶです。こう見えて、わたし、きたえてますから」
と、少女は、ブーツのかかとを鳴らしてみせた——そのトレッキングブーツは、手入れが行き届いていて、新品のように見えた——買いたての靴で旅に出るくらい、旅熱に浮かされているんだと、行商人が勘違いしてしまうくらいに。
少女が大きく一礼して、行商人に背を向けた。
行商人は、少女の背中が米粒ほどに小さくなるまで、分かれ道から見守っていた。
疲れてへばったら助けに行こう。
しかし、いつまで待っても、少女が止まる気配はない。
行商人が見守るなか、少女の背中が、小さな点になって、見えなくなった。
しばらく歩いて、少女が言った。
「やさしいおじさんだったね」
「ああ」
声がする——少女の声とは別の——その声は、少女のブーツから聞こえていた。
ブーツが言った。
「だけどな、スゥ、あんまり人を信用するなよ。あんな気安いおっさんばっかだと思ったら、いつか痛い目を見るぜ」
「わかってる」
少女は、すっきりとした顔で言った。
「旅は道連れ、世は情け」
「なんだそれ?」
「世の中、捨てたもんじゃないってこと」
ブーツは「そうかい」と言って、それきりなにも言わなくなった。
草原を吹く風の音。
少女の歩く足音。
バックパックががさごそと揺れる。
少女は確かな足取りで、どんどん道を歩いていく。
まだ見ぬ「足」を求めて。
*閲覧ありがとうございます!
*あらすじ、登場人物などは、概要をご覧ください。
*第1話のみ当日中に投稿して、以降、2~5エピソードずつ投稿していく予定です。
*よろしければ、物語の最後まで、スゥといっしょに歩んでいただければと思いますm(_ _)m




