最終話
涼しい風が海面を渡り、白いローブの裾を揺らす。
物言わぬ行列は累々と後ろに延び、一匹の大きな生き物を形作っているようだ。
行列の中、かつて生贄として生まれた王女は、じっと息を潜めるかのように歩を進める。
見上げるほどに大きな白亜の門を一歩潜ると、しん、と音が消えた。
清浄な空気が全身を包み込み、思わず王女は息を呑む。
ここは聖なる森の入り口。
季節は巡り、二度目の『託宣の儀』が行われようとしていた。
エルンストお兄様の王宮襲撃事件から、早一年。
一人でお兄様と対峙しながら無傷で生還したオスカーは、生ける伝説として国民たちから崇められている。
この事件をきっかけに、むしろ民心はよりオスカーに集まり、シュトルツェリア王国は磐石な体制を築いていった。
この一年を思い返せば、なんとも平穏な日々だったと言えるだろう。
私は相変わらず王宮で侍女として働き、つい最近後輩もできた。
かつては殺戮王と恐れられたオスカーも、今や少しでもオスカーの為になりたいと願う者たちが、使用人や行政官を志望して列を為すほどだ。
王国は変わっていくけれど、オスカーも、私も何も変わらない。
いつまでも、近いようで遠い存在のままだ。
ぼおっと松明に火が灯り、物思いに沈んだ意識を浮上させる。
視線の先には、白馬に跨ったオスカーが居た。
オスカーの手に握られた松明が傾けられて、勢いよく聖台に火が灯る。
ああ、来る。
私はその時を待って、そっと瞼を閉じた。
瞬間。目を閉じていても、空気が変わったのが分かる。
ゆっくりと瞼を開けると、そこには、見慣れた黒い空間が広がっていた。
「やあ。久しぶり。調子はどうだいお嬢さん」
紫がかった黒髪が、暗闇にぼんやりと浮かび上がる。
抜けるような白い肌の中で、金の瞳が猛禽類を思わせる鋭さで私を捉えていた。
「アルノー様。お久しぶりです」
「やあ。流石に四度目ともなると、落ち着いたものだね?」
白けたように私を見つめるその顔には、退屈が滲み出ている。
これまでの一年を振り返り、ふっと苦笑をこぼした。
「去年は楽しかったのに、最近はあまり動きがなくてつまらないなあ」
「申し訳ありません」
神ならば慈しみの気持ちで見守ってほしいなどと思いながらも、私は不承不承謝罪の言葉を口にした。
この平和は、きっとアルノー様のおかげでもあるのだろうから。
「それで? あんなことが色々あったのに、相変わらずあの坊やの元で働いてるんだ? もう彼に復讐する気はないんでしょう?」
「はい。今はただ、少しでもこの国の、オスカーの役に立ちたいと思って働いています。彼の元なら、国民たちも平穏に暮らしていられる」
「随分王女らしいことを言うんだね?」
「そう……ですね」
確かに傍から聞いたら、国を想う高潔な王女の言葉のように聞こえるかもしれない。
けれど、私のこの気持ちは、それだけではないと思う。
「と言うと?」
聞かずともその先も読めるだろうに、ニヤニヤとしながらアルノー様は金色の瞳を細めて見せる。
どうしても、私の口から聞きたいとでも言うようだ。
「私の家族が守ろうとした国です。だから、私もこの国を大切にしたいのです」
「ええ⁉︎ 家族って、君のことを贄としてしか見ていなかった彼らのこと⁉︎ しかもさあ、彼らが国をめちゃくちゃにしたんじゃなかった?」
目尻に涙まで浮かべながら、アルノー様はケラケラと笑う。
確かにアルノー様の言う通りだ。
真実を知っても尚、無条件で家族を信じられるのは、余程の聖女か愚者だけだ。
当然、私はそのどちらでもない。
「家族のことは正直、これまでのように信じることはできません。けれど……彼らがやったことの根底には、国を思う気持ちがあったのではないかと思うのです。やり方は……随分、間違っていたかもしれませんが」
私を生贄と育てたのは、国を守るためだ。
薬を独占したのも、国の為の人柱を守るため。
その他の政策も、自分たちが利益を得るためというより、単純に視野が狭かっただけなのではないかと感じる。
やり方は大きく間違っていたかもしれないが、決して悪意からの行動ではないのではないかと、そう思う。
「へえ」
アルノーは目を見開いて、口角を上げた。
まるで玩具を見つけた子供のような表情だ。
「国の為だったから仕方ないと、君を騙して生贄にしたことも、許すことにしたんだ?」
アルノー様のその言葉に、思わずきゅっと唇を引き結ぶ。
この一年、穏やかな時間を過ごしながら、ずっと考え続けていた。
家族のことを、どう捉えるか。
『クラウスは、よくこの花を愛でていた。だがどうにも、切なそうな顔でな』
あれはエルンストお兄様の王宮襲撃から、半月ほど経った頃。
戦闘により一部が荒れてしまった、中庭の植え替えが行われていた時のことだ。
庭師に植える花の変更を伝えるために中庭に向かうと、ちょうど、オスカーがしゃがみ込んでいた。
そこはつい数日前に植え替えられた場所で、あの、シラーの花が植わっている場所だった。
『クラウスおに……いえ、旧王家の王太子が、ですか?』
『ああ。クラウスが言っていたんだ。「この花を見ると、妹を思い胸が苦しくなる」と』
それが、妙に印象的でな、とオスカーは付け加えた。
クラウスお兄様がそんな風に言っていたなんて、全く知らなかった。
王太子だったお兄様は当然、私が生贄として育てられていたことを知っていただろう。
シラーの花言葉は『哀れ』だという。
クラウスお兄様はもしかすると、その花言葉を知っていたのかもしれない。
その上で、私のことを憐れんでいたのかもしれない。
祀の島に行く前、何か言いたげに私に声を掛けたクラウスお兄様の表情を思い出す。
今思えば、クラウスお兄様は葛藤していたのかもしれない。
私を騙して、生贄とすることに罪悪感と迷いを持っていたのかもしれない。
王太子だったお兄様の立場を考えれば、きっと、どうすることもできなかったのだろうけれど。
クラウスお兄様は、もういない。
だから、真相は分からない。
「アルノー様。私たちの家族の本心を、アルノー様の御業で知ることはできないでしょうか」
「んーーそれは無理だね。彼らの魂はもう欠片も残っていないし」
「そうですよね。それなら」
私を抱きしめてくれたお父様の温もり。
愛しい子と言いながら微笑んだお母様の笑顔の美しさ。
頭を撫でてくれたクラウスお兄様の掌の重み。
頬を優しくなでてくれたディーディリヒお兄様の指の熱さ。
一緒にオレンジケーキを食べながら、エルンストお兄様が浮かべていた笑顔さえも。
「彼らの中に、私への愛も確かにあったと、そう思うことにしたんです」
「全部嘘だったかもしれないのに?」
「誰も私のことを愛していなかったというのは、エルンストお兄様が語っただけのこと。ディーディリヒお兄様がくれたあの翡翠の首飾りだって、もしかしたら本当に魔除けの意味があったかもしれない。家族が私のことを騙していたのも、生贄として育てたことも、真実なのでしょう。けれどその心の中は、誰にも分からないということですよね」
実際私のことをどう思っていたかなんて、もう誰も、アルノー様にすら分からないのに。
だったら、どう解釈してもいいではないか。
「真相が分からないなら、いいんです。私の信じたいことを、真実だと思うことにしたのです」
「そう。それが、君の答えなんだね」
「はい」
だからもう、家族のことを恨んだりはしない。
家族を粛清したオスカーのことも、恨まない。
それに。
「私には、今はもう、素晴らしい家族がいるんです」
私はそっと左手を持ち上げる。
そこには、ウルリヒが新しく作ってくれた組紐があった。
「もう過去のことに囚われるのはやめた。そういうことかな?」
「はい。そのとおりです」
かつての人生では得ることの出来なかった自由と、たくさんの友を得た。
何も出来ず、何も知らない赤子ではない。
それに。
「あの坊やとの関係も、変わるかもしれない?」
私を心から愛してくれたオスカー。
私のことは忘れてしまったけれど、どういう訳か、今でも私に特別優しくしてくれる。
もしかすると、記憶がなくても、魂が私のことを覚えているのかもしれない。
そんな期待をせずにはいられない。
「もしかすると、いつか、きっと」
その言葉を聞くと、アルノー様は、恐ろしいくらいに美しく、笑った。
これまでの皮肉るような、あの笑顔ではない。
教会の中央に飾られている、本物のアルノー様とは似ても似つかないはずの、あの彫像のような。
そんな、慈愛に満ちた笑顔だった。
「いいね。これからも楽しみにしているよ。君の人生を、ずっとね」
アルノー様の声が反響しだすと同時に、辺りが眩い光に包まれる。
目が眩むほどの光に瞼を閉じると、体にふっと重力が戻るのを感じた。
ゆっくりと目を開ける。
すると、私は再び、聖なる森に戻っていた。
視線の先で、オスカーの乗った白馬がこちらに向かってくるのが見える。
痛いほどの静寂の中、私は必死に涙を堪えた。
(ありがとうございます。アルノー様……)
心の中で、一言そう唱える。
アルノー様に命を捧げて、新たな生を貰って。
私の無知を思い知って。
それでも、今は本当の愛を知れた。
これからも私は生きていく。
アルノー様と、レベッカから受け継いだ人生を。
いつか、ユーバーヴィンデン家の家族にも、本当のことを伝えられる日が来るかもしれない。
今はその勇気がないけれど。
その時、どんな答えが返ってこようと、きっと大丈夫。
もう私は、無知の揺り籠を出て、一人で歩き出せたから。
白馬に乗ったオスカーが、私の横を通り過ぎる。
その瞬間、確かにオスカーの青い瞳と視線がぶつかった。
その瞳には、確かに熱がこもっている。
アルノー様に言った、自らの言葉を思い出す。
そう、もしかしたら。
いつか。きっと。
この後エピローグを投稿します。




