第三十七話 遺ったものは
「レベッカ。少しいいか」
ニクラスに声を掛けられたのは、私が一人そっとオスカーの部屋を抜け出た時だった。
はっと振り返りながら、腫れた瞼を見られないよう、必死に視線を床に落とす。
ニクラスが履いたダークブラウンの革靴には、所々血の跡が見て取れた。
おそらく、戦闘の時に付いたものだろう。
一瞬、血を流して倒れるエルンストお兄様のことを思い出して、ぶるりと背筋が寒くなるのを感じた。
「どうした?」
「いいえ……なんでも」
不思議そうに首を傾げるニクラスに、努めて笑顔でそう返しながら、記憶の中のお兄様を追い出した。
「そうか。なら、こちらへ」
そう言ってニクラスは、背を向けて歩き出した。
付いて来いということだろう。
一体何事かと思いながらも、素直にその後を追う。
使用人や騎士たちが忙しなく行き交う廊下を抜けて、やがてニクラスは自身の執務室の扉を開けた。
私を中に招き入れるように、ドアを押さえたまま視線で中へと促す。
一瞬躊躇い、しかしすぐに足を踏み入れた。
「すまない。誰にも聞かれたくなかったからな」
「いえ……。それで、一体何が」
「陛下から聞いた。君が……いや、あなたが、パトリツィア王女なのだろう?」
目を見開いて、息を呑む。
オスカーは先ほど目覚めたばかりだと言っていたのに、その間にニクラスに話していたのか。
注意深くニクラスの表情を観察する。
オスカーと違って、ニクラスにとって私は憎き王族でしかないだろう。
生き残りという訳ではないけれど、現在の王権を脅かす存在として排すべきと思われても致し方ない。
「そんな風に警戒しないでくれ。あなたを今更どうにかするつもりはない。もちろん、あなたがおかしなことをしなければ、だが」
ちくりと、ニクラスの言葉が刺さる。
きっと今のは牽制だろう。
その証拠に、ニクラスの温度のない視線が、もしオスカーに危害を加えたら容赦しないと語っている。
私が思わず息を詰まらせると、途端、ニクラスはふっと視線を揺らした。
「ただ……あなたがパトリツィアならば、伝えておかなければいけないことがある」
ニクラスは、とても不思議な表情をした。
まるで、切ないような、憐れむような、そんな表情だった。
「陛下自身は覚えていらっしゃらないが、陛下は王として戴冠して初めて臨んだ託宣の儀で、アルノー様とある契約をされた。あなたに関する記憶を失っているのは、それが原因だ」
「アルノー様との、契約」
アルノー様の言葉を思い出す。
オスカーの記憶は、アルノー様がもらったのだと。
「その、契約とは……どんなものなのですか?」
ニクラスが瞳を細める。
その憐憫の表情は、きっと私にではなく、オスカーに対して向けられたものだろう。
「アルノー様の加護と、陛下の治世に平安を与える代わりに、人生で最も愛した者に関する記憶を消す。そういう契約だ」
最も愛する者の記憶。
つまりそれは、オスカーが最も愛したのは、私だったということ。
——嗚呼。
何ということだろう。次から次へと涙が溢れる。
そこまで。そこまで愛してくれていたのか。これまでの人生で、誰よりも愛してくれていたのか。
それなのに私は、彼の意図を誤解して、彼に復讐しようとさえしていた。
なんて愚かなのだろう。どこまで自分に失望すればいいのか、最早分からない。
「ニクラス様は、どうしてそのことを」
「陛下から聞いた。儀式の直後は、まだ契約の内容自体は覚えていらっしゃったんだ。今はもう、それすら記憶にないようだが」
今はもう、オスカー自身覚えていない事実。
オスカーの想いが嬉しくて、苦しくて、涙が止まらない。
「もう陛下はあなたのことを思い出すことはないだろう。先ほど陛下が何を伝えられたのかは分からないが……陛下の為に、これだけは伝えておきたかった」
きっとそれだけ大切な記憶だったからこそ、アルノー様は契約をしたのだろう。
百年とは言わずとも、アルノー様が加護を授ける代償として受け取るくらいなのだから。
それなのに。
全てを知るのが、遅すぎた。
もしもお互いに思いを伝えていたら。
もしも私が家族の欺瞞に気付いていたら。
もしもオスカーが私を王宮から連れ出してくれていたら。
もしも私がオスカーが国を去った時、無理にでも探しに行っていたら。
何かが変わったのだろうか。
そんなことを考えては、全て無意味だと思い知る。
それでも。
「ありがとうございます、ニクラス様。私、オスカーの想いを、決して忘れません」
震える声を必死に抑えながら、涙を拭う。
オスカーは私のことを、もう覚えていない。
けれど私は、オスカーが愛してくれていたことを知っている。
それだけで、今はもう、構わない。
明日、最終話とエピローグを投稿して完結です。




