第三十六話 愛の残響
もう少し寝ていなければ駄目だという家族たちをどうにか宥めて、私は王宮へと向かった。
オスカーが本当に無事なのか、ラウラたちは無事なのか、心配で居ても立っても居られなかったのだ。
私が王宮を去ってから、まだ半日ほどしか経っていないことにほっとしながら王宮に足を踏み入れると、誰もが慌ただしく手足を動かしていた。
忙しなく人が行き交うホールを抜けて、真っ直ぐオスカーの部屋へと向かう。
本当はマヌエラの所に行くべきなのだろうが、まずはオスカーの無事を確認しないことには安心できない。
半ば小走りでオスカーの元へと向かうと、後ろから声を掛けられた。
「レベッカ!」
「ラ、ラウラ‼︎」
振り返ると、お仕着せに髪を下ろしたラウラが居た。
服も顔も、あちこちが汚れている。
髪も乱れて、これまでずっと働き続けていたことが窺えた。
「ラウラ、無事だったのね‼︎」
「それはこっちの台詞よ! いつの間にか王宮に帰ってきて、しかも意識を失って運び出されるなんて!」
心配そうに駆け寄ってきたかと思うと、私の頬に手を宛がいながら、あちこちと様子を確かめてくる。
完全に妹を心配する姉の顔だ。
「大丈夫よ。その……今は詳しく話せないのだけれど、ただ眠ってしまっただけで、体は何ともないの」
聞けば、ラウラは負傷した騎士たちの救護をしながら、死者の遺体を並べて清めていたのだという。
ラウラが想像を絶する一晩を過ごしていたことに愕然とする。
犠牲になってしまったのは、主にホールに居たフットマンたちだそうだ。
一瞬眩暈を覚え、言葉に詰まる。
「……それで、陛下の容態はどうなの?」
死者を思えば、胸が痛む。きっと知った顔も多いのだろう。
しかし今は、オスカーの容態が先決だ。
ラウラはお湯の入った盥と白いタオルを乗せたトレイを運んでいたようだ。
きっとオスカーの部屋に運ぶのだろう。
「陛下は無事よ。つい先ほど目が覚めたところなの。胸を刺されたと仰っていたけれど、不思議なことに、体には傷一つなかったのよ」
アルノー様のご加護かしら、とラウラは視線を上に向けて付け足す。
内心、私はホッと息を吐き出した。
アルノー様は、きちんと約束を守って下さったようだ。
「私も、陛下のご無事を確かめたいわ」
「……そうね。じゃあ、一緒に行きましょう」
ラウラは一瞬、じっと私の目を見つめ、何かを探るような気配を見せた。
おそらく、ラウラは私とオスカーに何かあると気付いている。
視察の時、一緒の馬車に乗っていたことも耳に入っているのだろう。
でもまさか、前世からの関係だとは、夢にも思っていないだろうけれど。
ラウラはすぐにふっと顔を綻ばせて歩き出す。
私はその後に、素直に従った。
「失礼いたします」
「……失礼いたします」
ラウラがオスカーの部屋の扉を開けると同時に、頭を下げる。
今すぐ顔を上げて様子を確認したい衝動を、必死に押し殺した。
「パ……レベッカ‼︎」
私の名を呼ぶその声は、まさしくオスカーだった。
一瞬、私をパトリツィアと呼ぼうとした……?
思わず顔を上げると、ベッドの上で上半身を起こしているオスカーが目に入る。
体に包帯などは巻かれていないが、あまり顔色はよくない。
たくさん血を流したからかもしれない。
目を見開き、今にもこちらに駆けよって来そうに体を捻っている。
オスカーの隣には、ニクラスと執事が椅子に座っていた。
何かの報告をしていた所だったのだろうか。様々な書類を手にしている。
ニクラスは額から左目にかけて包帯を巻いており、いかにも痛々しい。
「……お前たち、悪いが一度部屋を出ていてくれないか」
少し掠れたオスカーの言葉に、ニクラスは小さく頷いて、執事やラウラを促して席を立つ。
私も一緒に席を立つべきかと身を翻すと、「お前は残れ」とオスカーの声が掛かった。
ニクラスは部屋を出る瞬間、ちらりと意味深な瞳を私に投げかけ、しかし何も言わないまま、ぱたりと扉は閉められた。
「陛下……お加減はいかがですか?」
「陛下はおやめください。パトリツィア様」
懐かしい、オスカーの優しい声。
かつて私の護衛騎士をしていた頃によく聞いた、あの声色だ。
懐かしさが最初に来てしまって、その言葉の意味を後から徐々に理解する。
それは、つまり……。
「な、何故……あの時意識を失っていたはずでは……⁉︎」
「夢にアルノー様が出てきて、仰られたのです。『君の命を救おうと、パトリツィアが命を捧げようとしたんだ』と。そして、聞きました。パトリツィア様が今、ここに居らっしゃる経緯を」
オスカーはその言葉が終わるや否や、ベッドからさっと抜け出して、私の前に跪いた。
それはまさに、騎士の誓いの姿だった。
「これまでの無礼をお許しください。この私の為にその尊き命を差し出されようとなさるなど……これ以上の恥はありません‼︎」
「やめてオスカー! 今は誰がなんと言おうと、あなたがこの国の国王よ!」
まるで、本当にあの頃に戻ったようだ。
背の高いオスカーの後頭部を、こうして何度も見てきた。
それが当然だと思っていた。
けれど今は。
あの頃とは、何もかも、状況が違う。
「お願い。頭を上げて。謝らなければいけないのは私の方だわ。私はあまりに愚かで、あまりに無知だった。私たち王家が何をしていたのか、何も知らなかったの」
何も知らないまま、オスカーに復讐しようとしていた。
そんな資格が、あるはずもないのに。
「この国を、私たち王家が苦しめてしまったこの国を、助けてくれてありがとう」
良かった。直接お礼を言えて。
また瞳が潤みだす。
何だかここ最近、涙腺が壊れてしまったみたいに、いくらでも涙が溢れてくる。
「ですが私は、あなたのご家族を……」
「分かっているわ」
それ以上の言葉が出てこない。
許すとも、許さないとも、言葉にすることができない。
だって私自身、家族のことをどう思っているのか、まだ分からないというのに。
ただ、一つ。言えるとするなら。
「私たち王家は間違っていた。方法が正しかったのかは分からないけれど、あなたは、この国を救った」
それだけは、事実だ。
「ですがそれでもっ……うっ」
途端、オスカーが眉間に深い溝を刻みながら、右手で頭を抱える。
まるで酷い頭痛に苦しんでいるようだ。
「どうしたの⁉︎ 頭が痛いの⁉︎」
「っアルノー様は、私の記憶が戻るのはほんの一瞬だと仰っていました。アルノー様の御力が注がれたその瞬間だけなのだと……。きっと、もうすぐ私はまたあなたのことを忘れてしまう。だからその前に、言わせてください……!」
一気にそう捲し立てたと思うと、オスカーは再び姿勢を正して、深く、深く頭を垂れた。
「大変、申し訳ありませんでした……!」
苦しいほどの後悔が滲む声。
それは、一体何に対する謝罪なのか。
「パトリツィア様が生贄に選ばれたという噂を聞いて、私は王宮に攻め込む決意を固めたのです。あなたが祀の島に送られる前に、助け出そうと……。けれど、間に合わなかった。正直に言って、旧王家を皆殺しにしたのは、私の私情も入っていたのです。……許せなかった。いくらアルノー様の神託によるとしても、よりによってパトリツィア様を……!」
オスカーの顔は、苦渋に満ちている。
そうか。オスカーは、私を救おうとしてくれていたのか。
オスカーが王宮に攻め込んだ時、王族を討つという理由以外にも、私のことが原因だったのだ。
私がそもそも生贄として育てられた事実は、きっと知らないのだろう。
もし知っていたのなら、オスカーは本当に私を王宮から連れ出したかもしれない。
「ありがとう。オスカー……」
オスカーは。
オスカーだけは、私のことを思っていてくれたのだ。
それが嬉しい。
しかし同時に、私が原因で、オスカーはお父様たちを殺してしまったのだと、そう思う。
「パトリツィア様……過ぎた感情であることは重々承知しております。ですが……ずっと、ずっと、お慕いしておりました」
大の男が、瞳に涙を溜め、声を震わせている。
けれど、その姿はよく見えなかった。
私も、涙が溢れて止まらなかったから。
「私も……ずっとオスカーのことが好きだったの」
一体いつからオスカーのことを想っていたのだろう。
思い返してもはっきりとは分からず、それはもう、初めて出会った時からということかもしれない。
意図的に作られた狭い世界で培われた感情なのだったとしても、その想いは本物だった。
はずだ。
「もっと」
声が嗚咽で詰まる。
何度もしゃくりあげながら、私はまた口を開いた。
「もっと早くに、お互い打ち明けられていたならね」
苦しい。
オスカーの好意を、ただ嬉しいと受け取ることができたら良かったのに。
その好意がお父様やお母様、お兄様たちを殺したのだと、そんな罪悪感を持たずにいられたら。
私はもうパトリツィアじゃない。
パトリツィアはあの祀の島で死んでしまった。
今更、私とオスカーがどうにかなる?
そんなこと、あまりにも非現実的だ。
いっそオスカーを憎むことが出来たら良かったのに。
もしくは、家族のことを完全に憎めたら良かったのに。
お父様たちは、最初から私のことを騙していた。殺すために生かしていただけ。
けれど……だからと言って、あんな風に殺してしまっても良かったと、オスカーにそのことまで感謝すべきなのかと。
それすら分からなかった。
「ええ……そうですね……うっ!」
オスカーは頭を抱え、床に蹲る。
いよいよ頭が痛むのか、オスカーの額には脂汗が滲んでいる。
「オスカー! しっかり‼︎」
「パトリツィア……様……」
絞り出すように私の名を呼ぶと、オスカーはふっと意識を手放した。
「誰か‼︎ 陛下が! 陛下が‼︎」
私の叫び声を聞きつけて、たくさんの人が部屋に傾れ込んでくる。
頭が痛いと言って倒れたと説明した途端、邪魔だとばかりに人波に流されて、部屋の隅に追いやられてしまった。
騎士が再びオスカーをベッドに寝かせ、医師が体のあちこちを触りながら体調を確認している。
みんな必死だ。それだけ、オスカーが慕われているということなのだろう。
「うっ……」
「陛下! 目覚められましたか!」
「一体、何が……」
まるで寝惚けたような少し間の抜けた声を出すと、オスカーは上半身を起こして、周囲を見回した。
一瞬、オスカーと目が合う。
途端に視線を和らげて、ほっと息を吐き出した。
「無事だったか」
その声色は、これまで通りの国王であるオスカーで。
その視線も言葉も、何もかもが、私のことを、また忘れてしまったのだろうことを示していた。
(良いのよ、これで。オスカーが私を覚えていたとしても、どうにもならないのだもの)
そうだ。先ほど、私は結論を出したばかりではないか。
私とオスカーは、どうにもなれない。
『ずっと、ずっと、お慕いしておりました』
先ほどのオスカーの言葉が頭の中で木霊する。
嬉しくなかったと言えば嘘になる。
けれど、私の想いはどうだろう。今でも純粋に、彼を愛していると言えるのだろうか。
オスカーのその気持ちは、今でも純粋に私のことを想っているのだろうか。
両想いになって、お互い幸せに生きる未来を思い描くには、私たちには多くのことがありすぎた。
「良いのよ。これで。良いの」
最後の言葉は震えていたかもしれない。
誰にともなく呟きながら、一筋、涙が頬を伝うのを感じた。




