第三十四話 虚飾のアガペー
「お前が死んだら、俺が生贄にならなきゃいけないじゃないか」
お兄様のその言葉を飲み込むのに、数秒を要した。
苦しむ妹の為に必死に薬を手に入れるのは当然だと、無事に回復して良かったと、そう言ってくれたお兄様。
あの時は、きっと私のことを心配して言ってくれたのだと、そう思っていたのに。
嗚呼!
お兄様は最初から、私のことなんて愛していなかったのだ!
最初から、ただ自分のために行動していただけだった‼︎
「よく分かっただろう? 誰もお前のことなんて愛していなかったんだよ。ディーディリヒお兄様がお前にやたらと宝石を贈っていた理由が分かるか? お前が死んだ後、利益を得る為さ。亡き王女の秘宝って奴は、値打ちが出るからな」
『これは非業の死を遂げた王女が死の間際まで身に付けていたものだそうだ。その曰くが付いて、ペンダントその物よりも値打ちがあるらしい』
翡翠のペンダントを前に、オスカーがそう話していたのを思い出す。
世間的に、私は十三歳で死んだことになっていたはずだ。
私の知らない所で、そう公表していたのだろう。
ディーディリヒお兄様は、そんな『亡き王女が愛用していた宝石』を得る為に、わざわざ私に宝石を贈っていたの……?
「勘違いするなよ。みんな、お前のことを誰よりも大切にしてきたのは間違いない。この国の為の、大事な人柱なのだからな」
「ああ……ああ!!!」
私は慟哭する。
私が信じた家族の愛も、王家も、国も、全部全部嘘だったのだ!
私はそんなものの為に、自ら命を投げ出した!
誰も愛してはくれていなかったのに、それを愛だと錯覚していただけだった!
「結局そうやってまた命を得たんだ。そう気にすることないだろう。ただ、残念ながら、また失うことになるが」
お兄様の声が、鋭くなったのを感じる。
惰性のようにゆるゆるとお兄様に視線を合わせると、キラリと視界の端に光るものが見える。
ぼやける視界で焦点を合わせるように見つめると、お兄様の手には、短剣が握られていた。
「お、お兄様……何を……?」
「お前の存在は俺の国の邪魔になる。悪いが、また俺の為に犠牲になってくれよ」
お兄様はそう言いながら、短剣を構えて私に突進する。
涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、私はそれを呆然と見つめた。
死を覚悟した瞬間、これまでの人生が次から次へと思い出される。
私を抱きしめてくれたお父様とお母様。
シラーの花束を贈ってくれたクラウスお兄様。
可愛いお姫様と言いながら、頭を撫でてくれたディーディリヒお兄様。
笑顔でケーキを運んでくれたエルンストお兄様。
それから――。
『どこに居ても、私はパトリツィア様を見つけられますから』
ああ、オスカー。
オスカーは、私のことをどう思っていたのだろうか。
(私の人生って、何だったのかしら。何も知らず、私を愛していない人たちの為に犠牲になって、何の意味があったというの……?)
そんな思いが湧き上がり、同時に、強い衝撃で体が後ろに倒れた。
思わず目を瞑ると、うっという呻き声が、目の前から聞こえる。
その声は、女性のように聞こえた。
目を開けた瞬間、私は何があったのか分からなかった。
黒いローブの背中で、お兄様が見えない。
けれど、足元に、ぼたぼたと赤い血が滴った。
「お前……! 何のつもりだ……」
「王子殿下……もうやめましょう……。申し訳ありません……もっと早く、私が止められれば……」
絞り出すような声は、ヨゼフィーネのものだ。
ヨゼフィーネはその言葉が終わるか終わらないかのうちに、大きな動きでお兄様の胸元から右手を引く。
途端、ヨゼフィーネ越しに、血飛沫が上がるのが見えた。
彼女の右手には、血に塗れた短剣が収まっている。
ヨゼフィーネは激しく咳き込むと、ずるずると膝を突いた。
「くそっ……くそっ……!」
お兄様は口からガハッと血を吐き出し、ヨゼフィーネに折り重なるように倒れる。
凄惨な光景を前に、刹那の沈黙が流れる。
「おっお兄様……ヨゼフィーネ……」
そう呟いて初めて、左腕を先生に取られていることに気が付いた。
そこでようやく、何が起きたのか理解した。
先生が私を引き、ヨゼフィーネが私を庇ってくれたのだ。
先生は私の腕を離すと、二人に駆け寄る。
お兄様の首に指を当てると、ふるふると、小さく首を振った。
「あっ……あっ……」
お兄様が……エルンストお兄様が……死んでしまった……!
「義姉さん‼︎」
先生の叫び声に視線を移せば、先生がヨゼフィーネを腕に抱き抱えていた。
彼女の胸には、深く短剣が突き刺さっている。
「ごめんなさい……ライナー……」
「義姉さん、何故こんなことを……」
「証明したかったのよ………テオは間違ってないって……」
テオ……おそらく、テオドール・レベル。先生のお兄様の名前だ。
「そんな……そんな事のために……?」
「第三王子は……愚かだけれど、可哀想な人だった……だから……支えたいと思ったのも……本当」
ゲホッゲホッと激しく咳き込むと、ヨゼフィーネはまた大量に血を吐き出した。
「もう喋らないでください!」
「お願い……テオに……愛してると、伝えて……」
ぱたりと、ヨゼフィーネの腕から力が抜ける。
その腕は、恐ろしい程に真っ白だった。
「義姉さん! 義姉さん‼︎」
先生はヨゼフィーネを揺すり、頬を叩くけれど、やがて、諦めたようにヨゼフィーネを床に寝かせた。
――ああ。
みんなみんな、死んでしまった。
私は何も出来なかった。
誰も救えなかった。
誰からも愛されず、生贄になることしか価値のなかった私だ。
私なんかが、お兄様を止められるだなんて、何かが成せるだなんて、そんなの、思い上がりだったんだ。
「レベッカさん! 気を確かに‼︎」
先生が私の肩を掴んで揺する。
「しっかりしてください! オスカー陛下はまだ生きています!」
オスカー……そうだ、オスカーだ。
オスカーは、まだ生きてる……!
私は震える足で立ち上がって、這いずるようにオスカーに近付いた。
「オスカー……オスカー……! 私よ。パトリツィア。お願い、死なないで……!」
この国に必要なのは、私でもエルンストお兄様でもない。
オスカーだ。
「オスカー、あなたが必要なのよ……!」
オスカーの手を握り、必死に声をかける。
先生は服を破り、包帯を作っている。
ああこんな時にも私は無力だ。
怪我の手当の仕方だって、何一つ知らない。
私は無知で、無力で、どうしてこんなにも愚かなのだろう。
「あ」
頭の中に、一つの閃光が走る。
私にも、出来ることがあるとすれば。
「――我が世界の均衡を保ち、平穏と安寧を与えしアルノー神よ。我らに力を。我らに救いを。今ここに、汝の糧となりし子羊を捧げん」
私は手を合わせ、目を瞑り、過去必死に覚えた祝詞を唱える。
アルノー様なら。
アルノー様ならきっと、オスカーを救ってくださる。
(どうか話を聞いてください、アルノー様……!)
私の命をもう一度捧げます。
だからどうか、私の願いを聞いて……!
「やあ、呼んだかい、お嬢ちゃん」
目を開けるとそこは、一寸先も見えない、深い闇。
そこにふわりと浮いた、貴族令息のような格好の、美しい人。
「アルノー様……!」
この国の唯一神にして守護神。
アルノー様が、そこに居た。




