第二十六話 群青の悲哀
ザニールング男爵の屋敷で一泊し、翌朝からまた馬車に乗って視察が始まった。
相変わらず私はオスカーの馬車に乗ることになり、カイや他の使用人たちに「すわ仲間から王妃が生まれるか」などと囃し立てられたけれど、馬車の中の空気は、最初ほど柔らかいものではなかった。
オスカーはどこか私と一線を引いたかのようにあまり話さなくなり、私もオスカーに何かを聞くことはなかった。
あのシェリムでの出来事が頭をぐるぐると回って、話さなければならないことはたくさんあるはずなのに、何を聞けばいいのか、何を話せばいいのか、さっぱり分からなくなっていた。
窓の外は美しい草原で、たくさんの花がどれも美しく咲き誇っている。
私はあまり花に詳しくないけれど、見るのは好きだ。
何とはなしに、花を眺めて楽しむ。
「あ」
草原の中に、記憶にある鮮やかな青紫を見つけ、思わず声が出た。
ハッとした時には、オスカーがこちらに視線を向け、何だ? とでもいうように首を傾げている。
「すみません。懐かしい花を見つけたものですから」
「どれだ?」
意外にもオスカーは身を乗り出して、窓の外を見る。
シェリムでも少年からもらった花の名前をすぐに言い当てていたし、案外花が好きなのかもしれない。
「すみません。もう通り過ぎてしまいました」
「そうか」
一言そう言って、オスカーは併走する騎士に声を掛ける。
覚えのある流れに、慌てて両手を前に振る。
「陛下! 大したことではありません。馬車を止める必要はありませんよ!」
「だが、なかなかに素晴らしい景色じゃないか。休憩をするなら、こういったところの方が良いだろう」
オスカーは本気で馬車を止め、ここで休憩を取るらしい。
昨日も似たようなことがあったと恐縮しながら、一歩馬車から降りた瞬間、思わず感嘆の声が漏れた。
確かにここは素晴らしい場所だった。
一面に草原が広がり、至る所に花が咲いている。
「晴天で良かった。気持ちがいいな」
オスカーがいつの間に隣に立って、柔らかな表情で言う。
思わず私も笑顔で頷いた。
「ええ、本当に素晴らしい所です。陛下、ありがとうございます」
自然と感謝の言葉が口を突いた。
この場所で休憩を提案してくれたのは、オスカーの純粋な好意なのだろうから。
「それで、どの花だった?」
微笑みながら頷いて、オスカーが問う。
本当はオスカーの休憩の準備をしなければいけないのにと思いながら、王の質問に答えないのも不敬だ。
一瞬たじろぎながらも、先ほど見かけた青紫の花の方へと向かう。
「これです。昔……その、弟が持ってきてくれたことがあって」
嘘だ。
この花を持ってきてくれたのは、ウルリヒではなく、一番上の兄であるクラウスお兄様だった。
私が病に臥した時、誰よりも真っ先にお見舞いに来てくれたクラウスお兄様。
お兄様は、私の枕元にあの花を飾ってくれた。
鮮やかな青紫色で、小さな星が集まったような、可愛らしい花。
「シラーか。美しいな」
この花の名前はシラーというのか。初めて知った。
そういえば、かつては王宮の庭に植っていたはずなのに、今の王宮では見かけない。
もちろん、主人が変われば庭の様相も変わるであろうし、何も不思議ではないけれど、どうにも引っかかりを覚える。
それはきっと、「美しい」と言いながら、何故か表情を曇らせたオスカーのせいだろう。
「シラーの花言葉には、『寂しさ』や『哀れ』といったものがある。それが何故か……妙に苦しく感じてな」
眉を顰め、どこか泣き笑いのような表情でオスカーは言った。
それからハッと何かに気付いたように、慌てて私の方を振り向いた。
「すまない。決して君の弟に他意があったと言いたかった訳じゃない。ただ花が美しかったから、君に渡したのだろう」
クラウスお兄様も、きっとただ美しいから私にシラーの花をくれたのだろう。
花言葉など、お兄様が知っていると思えない。
そう、きっとそうだ。
「陛下は花に詳しいのですね」
「男のくせに変だと思うか? 母が好きで、よく幼い頃に話を聞いていたからな」
オスカーのお母様というと、確かまだ私が幼い頃に亡くなっていたはずだ。
会ったこともあるそうだが、幼すぎて記憶にはない。
そういえば、オスカーは昔から花や植物に詳しかった気がする。
よく隠れん坊をした王宮の中庭のパンパスグラスの名前を教えてくれたのもオスカーだった。
「変だなんてことはありません。知らないよりも、知っている方がきっと人生は豊かです」
「……そうだな」
そう言ってオスカーはふいと切なそうな表情をした。
「陛下?」
「いや。知らない方が、幸せなこともあるんじゃないかと思ってな」
オスカーのその言葉が、決して花のことを言っている訳ではないことくらい、私にも分かる。
もしお父様やお兄様がしていたことを知らなければ、ただ素晴らしい王家だったのだと信じていられたら、きっとこんなに苦しくはなかった。
今はもう、オスカーを憎むべきなのかどうかすら分からない。
私はオスカーの言葉に何も返せず、目を閉じることしかできなかった。
その後も視察の行程は進み、いくつかの町や村を見て回った。
そのどこでも、シェリムと同じように流行病の後遺症に苦しむ人々が、オスカーを英雄として崇めていた。
視察が進めば進むほど、認めざるを得なくなる。
お父様は……旧王家の治世は、あまり、いや、かなり悪い時代だったのだろう。
順調な視察とは裏腹に、私の心はずんと重たくなっていく。
アルノー様が言っていた『無知の揺籠』とは、まさしくこのことだったのだろう。
私は無知の揺籠に揺られる、赤子でしかなかったのだ。
「レベッカ大丈夫か? 顔色が悪いぞ?」
夕飯の席で、カイにそう声をかけられた。
視察も既に四日目を迎え、その日は陶器の生産が盛んなナッハリヒトという町の領主の屋敷に一泊することになっていた。
流石に食事の席はオスカーとは別で、オスカーが寝室に入ったことを見届けた後、私は他の使用人たちと一緒に食事を囲んでいた。
気分の落ち込みが酷く、あまり食事が喉を通らない。
どうやら側から見てもおかしいと思うくらいには、落ち込んでいるようだった。
「陛下と一緒なのがそんなに辛いのか?」
こそこそと顔を寄せて尋ねるカイに、私は小さく笑って首を振る。
「いいえ、陛下はとても良くしてくださるわ。ただ……私があまりに何も知らないんだなと思って、嫌になっちゃって」
思わずぽろりと本音が漏れる。
カイにはそれがどんな意味だかよく分からないだろうに、馬鹿にすることなく、神妙に頷く。
「実際に見てみると、この国は大変な状況だったんだって分かるよな。俺も王都の出身だからさ。王宮に入るまで、あんま分かってなかったよ」
そう言ってカイは自嘲するようにふっと笑って、遠い目をした。
「ぶっちゃけ王宮に入ったのだって給料が良かったからってだけで、特に深い意味はなかったんだ。でも、実際に陛下の仕事を目の当たりにしてさ、この人すげー! って。今じゃ本気で尊敬してる」
カイの言葉は、本当に心からそう思っているんだろうという響きがあった。
確かカイは裕福な商家の五男坊だと聞いたことがある。
家業には既に椅子がなく、仕事を求めて王宮に来たといった所なのだろう。
「陛下って、本当に皆に慕われているのね」
「そうだろうな。何せ、地獄から救い出してくれた英雄だし」
地獄。
その言葉に、胸が詰まる思いだった。
お父様も、クラウスお兄様も、他のお兄様たちも、必死に公務に当たっているように見えた。
よく物語の中に出てくるような、自分の利益ばかりを考えて甘い汁を啜ろうとするような、そんな悪役ではなかったはずだ。
だって彼らはとても優しくて……いい思い出しか、存在していないのに。
「……そんなに旧王家って酷かったの?」
「はっきり言って無能だったね。特に最後の王の時代は酷かった。最後は形振り構わなくなって流行病の薬を独占したりとかさ、醜態を晒して酷いもんだったよ」
カイにはっきりとそう言われ、またずんと気持ちが落ち込む。
無能という言葉が、胸に穴を穿つように食い込んでくる。
きっとそうだったのだろう。
お父様が言っていたように、アルノー様のご加護が薄まってきたのが原因なのかもしれない。
もしかすると、旧王家は、その加護だけで国を治められていたのでは……。
「おいレベッカ。どうした? 具合でも悪いのか?」
「いいえ、大丈夫よ。ちょっと食べすぎちゃったみたい」
「ええ? 全然食べてないだろ」
カイの言葉が言い終わらないうちに、激しい音を立てて食堂の扉が開かれた。
一同みなびくりと肩を跳ねさせて音の正体に目をやれば、息を切らした騎士が一人、駆け込んで来たところだった。
「王宮が襲われた! 直ちに戻るぞ!」
その叫びにも似た通達に、言葉もなく、みな目を見開いたのだった。




