剥き出しの心
六月の第三土曜日、信也は、座敷の障子を開け放ち、その間の縁側をステージに見立てて踊った。
振りつけは信也のオリジナル。
出だしはよかった、かっこいい、体操の床運動みたいだったから。
歌詞が付きだして、振りがどんどん研ぎ澄まされる。淋しさ、望み、決意、それぞれの想いが、身体の形そのままに顕れる。
定形化された日舞の型でもない、ダンスのステップでもない。
余りに生で、僕の身体は痛みだと認識する。
動物の動きをそっくり真似るどころじゃない、ダイヤの原石のように鋭いのだ。
♪ 僕が大人になったら絶対ひとりで見つけてみせるさ
僕のぴったり半分だけはあなたでできているから
僕は縁側に近い畳の隅に正座をして、声を出したり笛を吹いたりしているが、その舞が伝える気持ち、舞霊がぎんぎん響いて、笛を持つ手が震える。
信也が唄った歌詞の言霊も相まって、涙になりそうだ。
そこからじっちゃんや加藤さんをチラ見すると、見事に釘付けになっていた。
♪ 明日は どんな 日かな 今日と 同じ、違う? 何かわかる? もっとわかる? 今よりわかる
あなたは 僕を 見てる きっと 今も いつも 今日も 明日も 僕を
ほんとは 心配 僕のことなど 嫌い? 捨てた? 知らない? 要らない? 気にもならない? ちょびっとでも
どこかに いるの 僕を 忘れ 僕を 無視し? 僕を 探して? 僕を
じっちゃんは歴代の一族の長の中で一番舞が上手いと言われている。僕の舞の師匠でもある。信也が込める想いが届かないわけがない。
♪ あなたがどこかで待っててくれるか僕には大事なことなの
答えはあなたに訊くしかないからあなたを探しにいくんだ!
予告通り最後を存分にスローにし、ダダン、と踏み足、片手を空高く伸ばすような決めのポーズで静止した。
すぐに拍手ができる者はいなかった。
信也の、父親を求める気持ちが皆の身体を突きぬけて震わせていた。
いつも落ち着いているばあちゃんまでも涙ぐんでいた。
加藤さんは本当に泣いてしまっていた。「慰めてあげて」と縁側の信也を呼ぼうとしたら、もうそこにいなかった。
するとじっちゃんの声がした。
♪ デーリーチァ、デェリーチァアルコール、クローチェエデリーチア、デーリーチァアルコール……
いつもよりひどくビブラートが効いている。「心に充ちる至福と苦悩」と加藤さん宛に唄っていた。
それにしても情がこもり過ぎだ。
危ない。
信也が両手にジュースを持って、襖側から入ってきたのが目に映ったけれど、それよりも僕がしなくちゃならないのは……。
声を合わせてこの歌を薄めること。じっちゃんの独唱が人をトリップさせないうちに。
ここはお社じゃないのだから。
♪ アーアアアアアアアー、ディーメンティックアルミアロール
オペラ「ラ・トラビアータ」の第一幕、男女のデュエットだ。僕のボーイ・ソプラノで女声側の最後、「私のことなど忘れてしまう」というところを唄った。
じっちゃんが僕に合わせてくれて、余韻として音は流れていった。
「じっちゃんが唄った! お母さん、じっちゃんが唄った!」
僕の思考を遮るのはいつも信也だ。叫んでいる。
ジュースを座卓の上に置いてから、お母さんの膝の上にあった両手をとって振った。
「お母さんが言ってた通り、上手だった! ね、大好きな歌でしょ? だからもう大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか僕にはよくわからなかった。信也も別にわかって言っているわけではなさそうだ。
立ち上がってコップふたつをまた手にすると、なみなみと注いであるほうを僕に差し出した。
「ありがとね、あきふみ、お疲れさま」
そしてもうひとつのコップを見つめて、「僕半分飲んじゃったけど、飲む?」と母親に訊いた。加藤さんが首を横に振ると、くるりと背を向け、
「じっちゃん、よかったらこれ飲みますか?」
と持っていった。
信也は、自分の踊りのせいで皆を感動の渦に落としたことはもう記憶にないようだった。本人はけろっとしている。踊り中は別人格とでも思っているんだろうか。
もしかしてその効果がわかっていないのか。
「ばあちゃんまで何かじめっとしてるよ? 僕下手だった?」
と隣に正座して身体をつんつん、すりすりしている。
「さっきの、チン毛の歌の仲間だよね」
「はあぁ?」
それぞれの思いに沈む大人たちを余所に、僕は大声で反応してしまった。
「ほら、ル、チンゲーって歌」
数音でもメロディ付きでなかったら絶対何かわからなかった。同じオペラの「乾杯の歌」だ。ほとんどムッとしたまま唄った。
「アッチェントルシンギェー」
「えー、絶対言ってる。聞こえないと思ってわざと言ってるんだよ、日本人の笑いをとろうとして」
コイツは……。
僕は絶句してしまう。
無自覚、無制御、無意識、その場の空気は読まないくせに、相手を気遣うことは知っている。
いやもしかして、みんなの心を揺さぶり過ぎたから、元に戻そうとしての「ボケ」?
加藤信也、ピアニストの息子。剥き出しの心そのものが音楽に乗っているような子。
じっちゃんが我を忘れて唄うより、この子のほうが危険かもしれない。
僕はどんな距離感でこの子と付き合えばいいのか、わからなくなってしまった。




