第6話 朝比奈愛羽――恋敵を応援できないチアリーダー
「えっ……夢花ちゃん?」
夢花ちゃんが、いきなり俺の身体へ抱きついてきた。
背中へ回された細い腕。
鼻先をくすぐる、ほのかに甘い香り。
そして、制服越しに押し当てられる柔らかな感触――。
「ゆ、夢花ちゃん……?」
突然の出来事に、頭の中が真っ白になる。
夢花ちゃんは、昨日ようやく再会した約束の女の子だ。
いつか俺の小説がアニメになったら、ヒロインの声を担当してもらう。
幼い頃、俺たちはそんな約束を交わした。
現実では口にできない俺の本音を、物語の中から声にしてくれる存在。
ずっと捜し続けていた、大切な女の子。
それなのに――。
この瞬間、俺の脳裏へ浮かんだのは、朝比奈の笑顔だった。
(……やっぱり俺は、朝比奈が好きなんだな)
どれだけ諦めようとしても、消えてくれない感情。
俺は反射的に夢花ちゃんの肩へ手を伸ばす。
彼女を引き離そうとした、その瞬間。
「もう少しだけ……お願い」
「えっ?」
夢花ちゃんは俺の胸元へ顔を埋め、腕へさらに力を込めた。
まるで、俺が何かをするのを待っているかのように。
俺と朝比奈は付き合っていない。
それどころか、昨日はっきり聞いたばかりじゃないか。
『先輩とは、ただの友達です』
俺は朝比奈の恋人でもなければ、特別な存在でもない。
夢花ちゃんに抱きつかれたところで、何も悪いことはしていないはずだ。
それなのに――胸の奥には、どうしようもない罪悪感が渦巻いていた。
(なんで俺は、朝比奈を裏切ってるような気持ちになってるんだよ……)
そんな俺の動揺を見抜いたのか、夢花ちゃんが耳元へ唇を寄せる。
「あれ~、先輩。すごくドキドキしてるよ?」
「――っ!?」
その甘ったるい声音に、心臓が大きく跳ねた。
朝比奈が俺をからかうときと、まったく同じ口調だった。
「ねぇ……先輩も、私のこと抱きしめていいよ?」
香りも違う。
髪の色も違う。
俺を抱きしめているのは、朝比奈ではない。
そんなことは分かっているはずなのに。
気づけば俺の腕は、ゆっくりと夢花ちゃんの背中へ回ろうとしていた。
その瞬間――。
ガチャッ。
背後から、屋上の扉が閉まる音が聞こえた。
「……今、誰か来たのか?」
「ごめんね、瑛太君」
「えっ?」
夢花ちゃんは俺の身体から離れると、照れくさそうに笑った。
「ちょっとつまずいちゃったの。私って、ドジね」
「つまずいた……?」
「ええ。だから、今のことは忘れてくれる?」
夢花ちゃんの顔は、熟したトマトのように真っ赤だった。
ここまで恥ずかしがっているのなら、本当に転びそうになっただけなのだろう。
「分かった。怪我がなくてよかったよ」
「…………」
「夢花ちゃん?」
「ううん。なんでもないわ」
なぜか夢花ちゃんは、少しだけ不満そうに頬を膨らませた。
◇
放課後。
帰り支度を終えた俺は、一人で中庭へ向かった。
薔薇色のレンガで舗装された広場。
中央にある噴水のそばでは、女子バスケ部の部員たちが掛け声を上げながら走っている。
俺は少し離れたベンチへ腰を下ろし、スマホを取り出した。
このまま家に帰る気にはなれなかった。
頭から離れないのは、昼休みに夢花ちゃんから抱きしめられたときの感触。
そして――彼女を抱きしめ返しそうになった自分自身。
俺は朝比奈が好きだ。
叶わないと分かっていても、その気持ちは変わらない。
それなのに別の女の子の温もりを心地いいと感じ、あろうことか、その背中へ腕まで回そうとした。
(最低だな、俺……)
朝比奈とは付き合っていない。
誰かを裏切ったわけでもない。
それでも、一人の女の子だけを想い続けたいと願っていた俺には、自分の心が揺れたことを許せなかった。
誰にも話せない。
けれど、胸の奥へ閉じ込めたままでは息が詰まりそうだった。
だから俺は、いつものように物語を開く。
現実の俺には言えない本音を、小説の登場人物へ託すために。
画面の中では、主人公が幼い頃に約束した少女――月城星奈から抱きしめられていた。
その瞬間。
ずっと一途に想い続けてきた太田陽花のことを、ほんの一瞬だけ忘れてしまう。
星奈の温もりを心地よいと感じた自分に戸惑い、心変わりしてしまったような罪悪感に襲われる。
そして、自分は本当に太田陽花を好きなのかと問い始める――。
それは、あくまで物語の登場人物の感情だ。
誰かに聞かれたら、きっとそう答えるだろう。
けれど実際には、一文字打ち込むたび、胸の中に溜まっていた澱が少しずつ言葉へ変わっていった。
書き終えた最新話を、もう一度だけ読み返す。
(……これでいい)
俺は迷いを振り切るように、投稿ボタンを押した。
『最新話を公開しました』
画面に表示された文字を確認し、静かに息を吐く。
(ラブバードさんと、ナイトさん。今回の話を読んだら、どう思うかな)
俺のWEB小説は、お世辞にも人気作とは呼べない。
そんな作品を、毎回欠かさず追いかけてくれている二人。
俺が初めて描いた主人公の迷いを、二人はどんなふうに受け止めるのだろう。
「よし。今日はもう帰るか!」
俺はスマホをポケットへしまい、ベンチから立ち上がった。
現実では言えなかった本音を、今日も物語が代わりに語ってくれた。
◇◇
朝比奈愛羽視点。
「ワン、ツー! スリー、フォー!」
体育館に、チアリーディング部員たちの掛け声が響き渡る。
軽快な音楽に合わせ、腕を伸ばす。
身体をひねり、床を蹴って――。
「おい、朝比奈! そこ、振りが違うぞ!」
「あっ……すみません!」
慌てて周りの動きへ合わせる。
こんな初歩的なところで間違えるなんて、中学からチアを続けてきた私にはあり得ないことだった。
(もう……集中しなきゃ)
分かっている。
それなのに、昼休みに屋上で見た光景が、何度も頭の中に蘇ってしまう。
先輩へ抱きついていた夜吹先輩。
そして、私だけに向けて書かれていた、あの二行。
『朝比奈さんへ』
『瑛太君のことは、私も譲らないから』
「…………」
胸の奥が、ズキリと痛んだ。
私は昔から、誰かを応援することが好きだった。
頑張ってほしい。
幸せになってほしい。
努力が報われてほしい。
そんな気持ちは、いつだって胸の中に溢れている。
それなのに私は、本当に伝えたい言葉ほど、うまく口にできない。
どうでもいい冗談なら、いくらでも出てくる。
先輩をからかう言葉だって、次から次へと思いつく。
なのに――。
『好きです』
その一言だけは、いつも喉の奥でつかえてしまう。
きっと私は、肝心なところで不器用なのだと思う。
けれど、チアは違った。
声で。
笑顔で。
身体の動きで。
言葉にできない感情を、すべて表現することができる。
だから私は、チアリーディングが好きだった。
誰かの幸せを、心から願うことができたから。
でも、今だけは――。
(応援なんて、できないよ……)
先輩と夜吹先輩が結ばれる未来なんて。
そんなもの、笑顔で応援できるはずがない。
(だって……先輩の隣は、ずっと愛羽の場所だったんだもん)
自分勝手だと分かっている。
まだ告白すらしていない。
付き合ってもいない。
それでも、あの場所だけは誰にも譲りたくなかった。
(切り替えなきゃ。あれは事故。事故に決まってる)
夜吹先輩がつまずいて、たまたま先輩の胸へ飛び込んだだけ。
(……そんなラブコメ漫画みたいな展開、現実にある?)
「朝比奈! また遅れてるぞ!」
「す、すみませ~ん!」
駄目だ。
全然、切り替えられていない。
(だいたい、先輩は私のことが大好きなんだから……)
先輩が書いている小説を読めば、それくらい簡単に分かる。
主人公がずっと一途に想い続けてきた太田陽花は、どう考えても私がモデルだ。
(先輩が、夜吹先輩に惑わされるわけない)
幼い頃に約束した新ヒロイン――月城星奈だって、きっと一時的に登場しただけ。
物語を盛り上げるために投入された、ただの当て馬に決まっている。
(大丈夫)
何度も自分に言い聞かせる。
(先輩は最後まで、太田陽花だけを好きでいてくれる)
それはつまり、先輩が私だけを好きでいてくれるということだから。
「朝比奈! もう一度、最初からいくぞ!」
「はい!」
私は両手で頬を軽く叩き、無理やり笑顔を作った。
音楽が再び流れ始める。
「ワン、ツー! スリー、フォー!」
今度こそ間違えない。
腕を伸ばし、床を蹴る。
胸の奥に溜まった不安を吹き飛ばすように、誰よりも大きく身体を動かす。
「L! O! V! E!」
私と先輩が結ばれる、幸せな未来を思い描きながら。
ブブッ。
その途中、壁際に置いていた私のスマホが震えた。
点灯した画面に、一件の通知が表示される。
『最新話が投稿されました』
「――っ」
足が止まりかけた。
見なくても分かる。
ずっと待っていた、先輩の小説の更新通知だ。
読みたい。
誰よりも早く、先輩が紡いだ新しい物語を読みたい。
それなのに今は、画面を開くのがどうしようもなく怖かった。
もし、月城星奈と主人公の距離が、さらに近づいていたら?
もし、太田陽花への気持ちが、少しでも薄れていたら?
(怖い……)
それでも、音楽は止まってくれない。
私は震えそうになる足へ力を込め、再び床を蹴った。
「L! O! V! E!」
もう一度、誰よりも大きな声で叫ぶ。
今日だけは、誰かのためじゃない。
先輩の本音を知ることが怖くて、逃げ出しそうになっている――。
臆病な私自身を、応援するために。




