第3話 朝比奈愛羽――メインヒロインの危機
翌朝。
眠い目をこすりながら、俺はいつもの通学路を歩いていた。
頭に浮かぶのは、昨日の出来事だ。
夜吹夢花。
同じクラスの委員長が、まさか幼い頃に約束を交わした女の子だったなんて。
(……夢じゃないんだよな)
昨日、別れ際に見せてくれた夜吹さんの笑顔を思い出す。
胸の奥から込み上げてくる喜びを噛み締めながら歩いていると、やがて見慣れた公園が見えてきた。
いつもなら、ここで朝比奈と合流する。
最初は、ただ偶然登校時間が重なっただけだった。
けれど何度も一緒に通ううちに、午前八時十五分になれば、この公園で待ち合わせるのが暗黙の了解となっていた。
だけど――。
『私、先輩のこと好きじゃないですから』
昨日耳にした言葉が、再び胸の奥へ突き刺さる。
朝比奈とは、これまでどおり友達として接すればいい。
頭では、そう分かっていた。
朝比奈には恩がある。
灰色だった俺の高校生活に、鮮やかな色を与えてくれたのは朝比奈だ。
それでも、いざ顔を合わせるとなると、どうしても足が重くなった。
(……ごめん、朝比奈)
結局、俺は公園で立ち止まらなかった。
朝比奈を待たず、そのまま学校へ向かう。
約束していたわけじゃない。
だから、別に悪いことをしているわけではない。
そう自分に言い聞かせながら、逃げるように歩く速度を上げた。
やがて校舎が見え始めた、そのとき――。
「せ~んぱい♡」
聞き慣れた甘い声が、背後から飛んできた。
「酷いじゃないですかぁ。私を置いて先に行くなんて」
振り返ると、朝比奈が小走りでこちらへ向かってきていた。
少し呼吸が乱れている。
額を伝った汗が、頬を滑り落ちていく。
もしかして、俺を追いかけてきたのか?
「でも、別に待ち合わせしてたわけじゃないし、仕方ないですよね~?」
朝比奈はいつもの小悪魔めいた笑みを浮かべながら、俺の隣へ並ぶ。
「それより先輩、体調はもう大丈夫なんですか?」
「あ、ああ。昨日ゆっくり休んだから、もう平気だよ」
「本当ですかぁ? 無理してません?」
心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。
昨日の体調不良が嘘だっただけに、その優しさが痛かった。
「大丈夫だって」
「それならよかったです」
朝比奈は安堵したように息を吐くと、背負っていたリュックへ手を入れた。
「え~っと……あった!」
取り出したものを、得意げに俺へ差し出す。
「はい! お見舞いです♡」
「これ……ブラックコーヒー?」
差し出されたのは、一本の缶コーヒーだった。
「あっ」
朝比奈は缶コーヒーを見つめたまま、固まる。
そして何かに気づいたように、慌てて缶を引っ込めた。
「ま、間違えました! こっちです!」
ブラックコーヒーをリュックへ押し込み、代わりにスポーツドリンクを取り出す。
「はい! 風邪のときは、こまめに水分補給!」
「ありがとう、朝比奈」
「先輩、私がいなかったら、風邪のときでもコーヒーばっかり飲んでそうですからね~」
「じゃあ、そのブラックコーヒーもくれないか?」
「だーめです♡」
朝比奈は子供のように舌を出す。
「体調が完全に治るまでは、お預けで~す」
「もう治ってるんだけどな……」
(実際………心の問題だし)
不満を口にする俺の横で、朝比奈はリュックから缶コーラを取り出した。
プシュッ――。
軽快な音を鳴らしてプルタブを開けると、美味しそうに一口飲む。
「というか、先輩も大変ですよね~」
「何が?」
「だって先輩、女の子の友達なんて私しかいないじゃないですか?」
「ほっといてくれ」
「あれぇ? もしかして照れてます?」
朝比奈が俺の顔を覗き込んで、楽しそうに笑う。
「照れてるんですか~? せんぱ~い♡」
「照れてない」
「本当ですかぁ?」
小悪魔な後輩。
朝比奈は、こうしていつも俺をからかってくる。
けれど、相手が本当に傷つくような言葉は絶対に口にしない。
からかいながらも、きちんと相手の表情を見ている。
朝比奈愛羽とは、そういう女の子だ。
そんな朝比奈から、俺は距離を置こうとしていた。
(……俺は馬鹿かよ)
朝比奈は何も悪くない。
勝手に期待して、勝手に傷ついたのは俺だ。
それなのに、一方的に避けられたら、朝比奈だって傷つくに決まっている。
だから俺は、このとき決めた。
たとえ自分の気持ちを押し殺すことになっても、今までどおり朝比奈のそばにいよう。
朝比奈だけは、絶対に傷つけない――と。
そして、俺たちが校門前へ到着した、その瞬間だった。
「あれ? 瑛太君」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
校門の前に立っていたのは、腰まで伸びた黒髪が美しい一人の少女。
昨日、ようやく再会できた約束の女の子――夜吹夢花だった。
「あっ……夢花ちゃん」
カシャッ。
背後から、缶が潰れるような音が聞こえた。
「おい、朝比奈! コーラ漏れてる! 漏れてるって!」
振り返ると、朝比奈の手の中で缶コーラが大きくへこんでいた。
開いた飲み口から、炭酸の泡が溢れ出している。
けれど朝比奈は、それに気づいていないかのように呆然と立ち尽くしていた。
「……下の名前」
「えっ?」
「朝比奈?」
「な、なんでもないで~す♡」
朝比奈は慌てて笑顔を作る。
しかし、その口元はほんの僅かに引きつっていた。
「先輩も、隅に置けないですね~。こんな可愛い女の子とお知り合いだったなんて」
「ああ。同じクラスの委員長で、夜吹夢花さんだ」
「ふ~ん……」
朝比奈は夜吹さんへ視線を向けると、何かを確かめるように目を細めた。
「可愛いってところは、否定しないんですね」
カシャッ。
再び、缶がへこむ音がする。
「だから朝比奈! コーラが!」
「え? あっ……最近の缶って柔らかいですね〜♡」
「もう、先輩が変なこと言うから、こぼれちゃったじゃないですかぁ」
「俺のせいなのか!?」
「先輩って、今まで女の子の友達なんて――」
朝比奈はそこで一度、言葉を切った。
それから夜吹さんをちらりと見て、彼女にもはっきり聞こえる声で続ける。
「私しか、いなかったじゃないですか?」
なぜか『私しか』という部分だけが、妙に強調されていた。
「女の子への免疫がなさすぎて大変だと思ってましたけど……よかったですね。私以外にも話せる人ができて」
「そうだな。これを機に、少しでも友達が増えたらいいんだけど」
「へぇ~。先輩、女の子の友達を増やしたいんだぁ」
「そりゃ、友達は多いほうがいいだろ?」
「でもまあ……先輩、清楚系は好みじゃないですし……」
朝比奈は自分に言い聞かせるように、小さく何度も頷く。
「うん。大丈夫、大丈夫……」
「ん? なんか言ったか?」
「な~んにも言ってませ~ん♡」
朝比奈はへこんだコーラ缶を、近くのゴミ箱へ少し乱暴に放り込んだ。
ガコンッ!
「大丈夫……先輩のお友達なんだから、仲良くしないと……」
ぶつぶつと自分に言い聞かせながら、朝比奈は気を紛らわせるようにリュックへ手を入れた。
取り出した缶を確認することなく、プルタブへ指をかける。
「おい、朝比奈。それ――」
プシュッ。
俺が止めるより先に、朝比奈は缶の中身を一気に口へ流し込んだ。
「んぐっ、んぐっ……!」
「それ、ブラックコーヒーだぞ?」
「――っ!?」
朝比奈の目が大きく見開かれる。
数秒後。
「うぎゃ……にっがぁ……!」
涙目になった朝比奈の悲鳴が、朝の通学路に響き渡った。
◇
昇降口で朝比奈と別れたあと、俺と夜吹さんは二年A組の教室へ入った。
軽く会釈を交わし、それぞれの席へ向かう
教室に入ると、俺と夜吹さんは軽く会釈を交わし、それぞれの席へ向かった。
夜吹さんが席に着いた途端、彼女の周りには大勢のクラスメイトが集まってくる。
「夜吹さん、おはよう!」
「委員長、昨日の宿題見せて!」
「次の授業って移動教室だっけ?」
対して、俺の周りには――誰もいない。
(これが人気の差というやつか……)
約束の女の子と再会したら、何かが変わる。
昨日までは、そんなことを思っていた。
しかし、現実はそう甘くないらしい。
約束の女の子が学年屈指の美少女だったとしても、モブキャラはどこまでいってもモブキャラなのだ。
◇
昼休み。
俺はいつものように屋上へ向かい、スマホでWEB小説を書いていた。
俺の作品は、ヒロインが一人だけの純愛ラブコメだ。
主人公のモデルは――俺。
そして、ヒロインのモデルは――俺の理想の女の子。
もっと正確に言えば、朝比奈愛羽である。
(本人にバレたら、めちゃくちゃ恥ずかしいけどな……)
俺の作品に登場するヒロイン、太田陽花。
明るくて、小悪魔っぽくて、いつも主人公をからかってくる女の子だ。
これまで物語に登場するヒロインは彼女一人だけ。
主人公もずっと、太田陽花だけに一途な想いを寄せてきた。
いわば、ヒロインレースを一人で爆走している状態だった。
けれど、その日は執筆画面を眺めているうちに、昨日の夜吹さんの姿が頭に浮かんだ。
球体遊具の穴から差し込む夕日の中。
涙を流しながら、俺をまっすぐ見つめていた彼女。
その表情が、俺の思い描く物語のヒロインと重なった。
(……新しいヒロインを出してみるか)
俺は思い切って、太田陽花の恋のライバルとなる少女を物語へ登場させることにした。
名前は、月城星奈。
幼い頃に主人公と約束を交わし、長い年月を経て再会する清楚系ヒロインだ。
主人公から一途に想いを寄せられてきた太田陽花。
そして、主人公と運命の約束で結ばれている月城星奈。
二人のヒロインによる、新しい物語。
これまで太田陽花との日常が中心だった作品に、少しだけ刺激を加えてみた。
(ラブバードさんとナイトさん、どんな反応するかな?)
二人とも、毎回欠かさず俺の作品を読んでくれている大切な読者だ。
(新しい展開も、楽しんでくれるといいけど)
そう思いながら、俺は更新ボタンを押した。
投稿を終えた俺は、スマホを胸元に置き、そのまま屋上へ寝転がった。
雲一つない青空をぼんやりと眺めること、数分。
ガチャッ――!
突然、屋上の扉が勢いよく開いた。
「せ~んぱい! やっぱり屋上にいた!」
「あれ? 朝比奈?」
身体を起こすと、朝比奈がこちらへ駆け寄ってきた。
「お前、昼飯は友達と食べるんじゃなかったのか?」
「そ、その予定だったんですけど……!」
朝比奈は肩で大きく息をしていた。
額にはうっすらと汗が浮かび、頬も赤く染まっている。
どうやら、ここまで走ってきたらしい。
(でも、どうしてそんなに焦ってるんだ?)
気になって、朝比奈の手元へ視線を落とす。
右手には、昼食の入ったコンビニ袋。
そして左手には――なぜか、スマホが固く握りしめられていた。




