第2話 約束の女の子との再会
チア部員たちが、一斉に部室の扉へ向かってくる。
(まずい……!)
このままここにいれば、盗み聞きしていたことがバレてしまう。
俺は慌ててその場を離れ、近くに生い茂る木々の陰へと身を隠した。
直後、勢いよく扉が開き、楽しそうに談笑しながらチア部員たちが出てくる。
その中には、もちろん朝比奈の姿もあった。
『私、先輩のこと好きじゃないですから』
先ほど耳にした言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
冗談めいた口調だったはずなのに、一言一言が鋭い刃のように胸へ突き刺さっていた。
俺は木の幹に背中を預けながら、震える手でスマホを取り出す。
『ごめん、朝比奈。ちょっと体調悪くなったから、今日は一緒に帰れそうにない』
短いメッセージを送り、スマホをポケットへ押し込む。
(……情けねぇ)
朝比奈が俺を好きかもしれないなんて、勝手に期待していただけだ。
あいつが俺を好きだと言ったわけでもない。
それなのに――好きじゃないと分かった途端、この有様だ。
俺は逃げるように校舎を離れ、待ち合わせをしていた校門とは反対側の門から学校を後にした。
◇
夕暮れの光が、住宅街を橙色に染めていた。
家に帰る気にもなれず、俺は近所の公園へ立ち寄った。
誰も乗っていないブランコに腰を下ろし、力なく地面を蹴る。
キィィ……。
錆びついた鎖の音だけが、静かな公園に響き渡る。
まるで今の俺の心みたいな、寂しい音だった。
(今日は最悪だな……)
ふとスマホを見ると、一件のメッセージが届いていた。
送り主は、俺の小説を毎回読んでくれている熱心な読者の一人――ナイトさん。
いつもなら午後五時に投稿しているはずの最新話が更新されていないため、心配してくれたらしい。
『体調でも崩されましたか? 風邪が流行り始める季節なので、ゆっくり休んでくださいね。また更新されるのを楽しみにしています』
たったそれだけの言葉なのに、沈んでいた心がほんの少しだけ軽くなった。
(なんか……嬉しいな)
顔も本名も知らない相手。
それでも、俺の小説を待ってくれている人がいる。
自分の書いた物語が、誰かにとっての楽しみになっている。
そう思うと、今日という一日も最悪なことばかりではなかったのかもしれない。
そんなことを考えながら、ぼんやりと顔を上げた――そのとき。
少し離れたベンチに、一人の少女が座っていることに気づいた。
「あれは……委員長?」
俺たち二年A組の学級委員長。
夜吹夢花――やぶき・ゆめか。
夜空を思わせる艶やかな黒髪を腰まで伸ばした、清楚という言葉をそのまま形にしたような少女だ。
成績優秀で、品行方正。
おまけにかなりの美少女とくれば、当然ながら男子からの人気も高い。
普段の俺とは、まるで正反対の人間。
ただ、そんな俺たちにも一つだけ共通点があった。
それは――小説が好きだということだ。
もっとも、夜吹さんが好むのは純文学。
一方の俺は、ライトノベルばかり読んでいる。
好みの方向性は違うけれど、小説について話せる数少ない相手だった。
失恋まがいの出来事で誰かと話したくなっていた俺は、ブランコから立ち上がる。
「夜吹さ~ん」
「ひゃっ!?」
声をかけた瞬間、夜吹さんの肩が大きく跳ねた。
「えっ!? ひ、昼咲君!?」
まるで見られてはいけないものを見つかったかのように、ベンチの上に広げていた本を慌てて胸元へ隠す。
「ご、ごめん。読書の邪魔した?」
「う、ううん! 全然そんなことないわ!」
夜吹さんは不自然なほど激しく首を横に振った。
「それより、昼咲君こそどうしたの? こんなところで」
「ちょっと嫌なことがあってさ。考え事してたんだ」
「嫌なこと?」
心配そうに眉を下げる夜吹さん。
何があったのかと尋ねられる前に、俺は質問を重ねた。
「夜吹さんって、嫌なことがあったときはどうしてる?」
「私は……小説を読むかな。物語の世界に入り込んでいる間は、嫌なことも忘れられるから」
「やっぱり読書か。夜吹さんらしいな」
「よかったら、昼咲君にも何か――」
そう言いながら夜吹さんがバッグへ手を伸ばした、その瞬間。
胸元に隠していた本が、ぽとりと地面へ落ちた。
「あっ」
派手な表紙とともに、衝撃的なタイトルが俺の目に飛び込んでくる。
『約束の男が泥棒猫に奪われたので容赦なく寝取ります』
通称――『約猫』。
今、若者を中心に流行しているライトノベルだ。
タイトルどおり、幼い頃に将来を誓い合った男女の間に別の女が割り込み、そこから壮絶な恋愛戦争へ発展していく物語である。
かなり攻めた描写が多いことでも有名だ。
そんな作品を――清廉潔白を絵に描いたような夜吹さんが読んでいたなんて。
「夜吹さん、こういうの読むんだ……」
「ち、違うの!」
夜吹さんは顔を真っ赤にしながら本を拾い上げ、ぶんぶんと手を振った。
「この前、昼咲君が『ラノベも面白い』って言っていたでしょう? それで今日、試しに買ってみたの! そしたら、思っていたより続きが気になってしまって……!」
「それに……タイトルが、少し気になったから」
そう言って、夜吹さんはなぜか俺から目を逸らした。
「いや、別に隠さなくてもいいだろ?」
「だって、うちは親が厳しいから……。こういう、あからさまなタイトルの本は家に持ち帰りにくいのよ」
夜吹さんは恥ずかしそうに視線を伏せる。
「ブックカバーをつけても、母がわざわざ外して確認するというか……ほとんど検閲みたいなものなの」
「それは大変だな……」
夜吹家は、この辺りでは知らない人がいないほどのお金持ちらしい。
両親もかなり厳格だと聞いている。
それほどのお嬢様が、どうして俺たちと同じ公立高校に通っているのか。
少しだけ疑問に思ったものの、今はそれより気になることがある。
「でも、こんな公園で読んでたら、それこそ知り合いに見つかるんじゃないか?」
「それもそうね……」
夜吹さんは本を抱えながら、真剣な表情で考え込む。
やがて何かをひらめいたのか、勢いよく顔を上げた。
「あっ!」
次の瞬間、夜吹さんが俺の手をつかむ。
「ちょっ、夜吹さん!?」
「こっちよ!」
俺の返事も待たず、夜吹さんはぐいぐいと手を引いて歩き始めた。
(夜吹さんって、意外と強引なんだな……)
普段は冷静沈着で、何事にも動じない委員長。
けれど一度スイッチが入ると、周囲が見えなくなるタイプなのかもしれない。
夜吹さんが向かったのは、公園の隅に設置された球体型の遊具だった。
いくつもの丸い穴が開いた、子供が中へ入って遊ぶためのものだ。
その背中を追いかけているうちに、不意に奇妙な感覚が胸をよぎる。
(あれ……?)
誰かに手を引かれながら、どこかへ連れていかれる感覚。
昔にも、同じようなことがあった気がする。
遠い記憶が、頭の奥で微かに明滅した。
けれど、思い出すより先に、俺たちは球体遊具の中へ入り込んでいた。
「ここなら外から見えにくいし、安心して読めるわ」
「いや、まあ……確かに見つかりにくいけどさ」
内部は思っていたよりも狭かった。
自然と夜吹さんとの距離が近くなり、肩と肩が触れそうになる。
薄暗い空間の中、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
そのうえ、夜吹さんはまだ俺の手を握ったままだ。
「夜吹さん……手」
「えっ? あっ……きゃっ! ご、ごめんなさい!」
慌てて手を離した俺たちは、示し合わせたように反対方向を向く。
気まずい。
恐ろしく気まずい。
球体の小さな穴から差し込む夕日を眺めながら、俺はどうしたものかと頭を悩ませる。
そんな沈黙を破ったのは、夜吹さんだった。
「……昼咲君」
「ん?」
「さっき、嫌なことがあったって言っていたでしょう?」
優しく問いかけられ、俺の肩が小さく跳ねる。
「何があったの?」
その声音を聞いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが溢れそうになった。
誰かに聞いてほしかった。
直接振られたわけでもないのに、勝手に期待して、勝手に傷ついている情けない俺の話を。
小説の中に感情を閉じ込めるんじゃない。
今だけは、現実にいる誰かに受け止めてほしかった。
「実はさ……失恋したんだ」
「失恋……?」
「直接振られたわけじゃないんだけど、遠回しに……かな」
「それって――朝比奈さんのこと?」
「えっ?」
思いがけない名前が飛び出し、俺は夜吹さんへ振り返る。
「どうして分かったんだ?」
「それは……ずっと見ていたから」
「ずっと?」
夜吹さんは膝の上に置いた『約猫』を、ぎゅっと握りしめる。
「どうして夜吹さんが、俺たちのことを……?」
「…………」
返事はない。
薄暗い球体の中に、重たい沈黙が落ちる。
何かを言おうとしている。
それでも言葉にできず、夜吹さんは苦しそうに唇を結んでいた。
その空気に耐えられなくなった俺は、無理やり話題を変える。
「そ、そうだ! 夜吹さんから教えてもらった純文学、めちゃくちゃ面白かったよ!」
「え……?」
「全部はまだ買えてないんだけどさ。ほら、これとか!」
俺はバッグの中から一冊の小説を取り出した。
夜吹さんのおすすめ作品の一つ。
『約束のあなたへ』
その表紙を目にした瞬間、夜吹さんが息を呑む。
「……どうして、その本を選んだの?」
「どうしてって……タイトルが気になったからかな」
俺は本の表紙を指先でなぞりながら、静かに言葉を続ける。
「俺にもさ、昔、約束した女の子がいるんだ」
隣から、微かに息を呑む音が聞こえた。
「俺が小説を書いて、それがいつかアニメになったら、その女の子にヒロインの声を当ててもらう――そんな約束」
「…………」
「まあ、もう顔もほとんど覚えてないんだけどな。あの頃は、その子と結婚したいとまで思ってたのに」
「結婚……」
夜吹さんが小さく呟く。
彼女は突然、両膝を抱えるように体育座りをすると、その間へ顔を埋めてしまった。
長い黒髪に隠され、表情は見えない。
けれど、髪の隙間からのぞく耳だけは、ほんのりと赤く染まっていた。
「でも、もう会えないと思う。だから俺は諦めたんだ」
「……どうして?」
「え?」
「どうして、諦めたのにその本を読もうと思ったの?」
僅かに震える声だった。
俺は手元の本へ視線を落とす。
「俺が諦めたからこそ、かな」
「…………」
「現実の俺は、約束した女の子と再会できなかった。だけど、せめてフィクションの中の主人公には、約束の相手ともう一度出会ってほしいんだ」
自嘲気味に笑いながら、本を握る手に力を込める。
「俺の代わりに、物語の中でくらい報われてほしい。そんなふうに思ったんだよ」
「やだっ!! だめ!! 諦めちゃだめっ!!」
突然、夜吹さんの声が球体の中に響き渡った。
普段は物静かで、感情を表に出すことのない彼女から発せられたとは思えないほど、切実な叫びだった。
「夜吹さん……?」
「あっ……」
夜吹さん自身も、反射的に声を上げてしまったらしい。
戸惑うように唇を押さえる。
それでも、もう一度こぼれ出した感情を押し戻すことはできなかった。
彼女は抱えていた膝から、ゆっくりと顔を上げる。
薄暗い球体の中では、その表情をはっきりと窺うことができない。
「私は、ずっと……」
震える声で、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ずっと、あなたのことを見てきた……」
夜吹さんは胸元で『約猫』』を強く抱きしめた。
まるで、これまで押し殺してきた想いが溢れ出さないように。
あるいは――もう二度と、大切な人を誰かに奪われないように。
「私が……」
一度、言葉を切る。
そして夜吹さんは覚悟を決めたように、まっすぐ俺を見つめた。
「私が、その約束の――」
その瞬間。
沈みかけていた夕日の光が、球体に開いた無数の穴から差し込んだ。
柔らかな橙色の光が暗闇を払い、目の前にいる夜吹さんの顔を鮮やかに照らし出す。
夕焼けよりも赤く染まった頬。
涙で潤んだ瞳。
それでも彼女は、決して俺から目を逸らさなかった。
その顔を見た瞬間――。
頭の奥深くに眠っていた記憶が、鮮明に蘇る。
俺の手を引きながら、楽しそうに笑っていた女の子。
俺の拙い物語を、誰よりも楽しそうに読んでくれた女の子。
そしていつか、俺の物語のヒロインになると約束してくれた――大切な女の子。
「……夢花ちゃん」
忘れていたはずの名前が、自然と唇からこぼれ落ちた。
夜吹さんの瞳から、一筋の涙が流れる。
「やっと……思い出してくれた」
泣きながら浮かべたその笑顔は、俺の記憶に残る少女の笑顔と、寸分違わず重なっていた。
これが――。
俺と、約束の女の子。
夜吹夢花との再会だった。




