第35話 司令官の帰還
翌日、コッドの砦にザッカート指令官が帰還した。砦の中では、ささやかな祝宴が開かれ、いままで死んでいたような雰囲気であった砦に、活気が一気に戻ったようだった。
指令官室では、ザッカートに、ザッカートを助けだしたという小騎兵、それにチェンライがいた。
新しい指令官服に着替えたばかりのザッカートは、長い間牢獄にいたため剃ることもなかった髭を綺麗に整え、より指令官らしい姿を見せていた。
四十代後半の彼は、年齢には似合わず、若々しい体躯を持ち合わせていた。しかし体つきは鍛え上げた筋肉によって形成されてはいなかった。
彼は戦士ではあったが、それは形式上のもので、実際は軍学や用兵学などを主に学び、戦場では直接前線に立って指揮をするタイプの指令官ではなかった。だが、決してひ弱とは言えない体つきは、荒々しい傭兵達を束ねるのには、十分な効果を発していた。
彼は、ラヴァウインドの監獄に入れられる前は、髭を生やしてはいなかった。今は、牢獄生活によって生やさざるを得なかった髭を、自分の貫禄の一つとして気に入った様子で、しきりに触りながら話をしていた。
「よく脱獄の手助けをしてくれたな、ジャクメル小騎兵」
ザッカートは眼前にいる若い士官に向かって言った。ザッカートは、指令官用の机に腰をかけ、机の上に置かれた祝宴の酒を手にしていた。
机の前には、ジャクメルと呼ばれた男が立っていた。若い士官である。歳は18か19ぐらいで、すらりとした姿は、いかにも女性にもてはやされそうな姿であった。
コッドの砦に着いたときのまま、簡略化したプレートを身につけ、腰にはブロードソードを下げている。髪の毛は、中ぐらいで切りそろえられ、一般の傭兵が好んでする髪型をしていた。
彼が傭兵達に混じっていたならば、誰がみても、彼が小騎兵であると見分けることは出来そうもないくらい、戦士としての雰囲気を漂わせていた。
「閣下が無事に砦にお戻りいただけたのも、閣下ご自身のお力でございます。わたくしなどの力添えなどなくとも、閣下は十分お一人で脱出なさいましたことでしょう」
ジャクメルは、半分頭を下げながら、謙虚な様子で言った。そんなジャクメルの様子を、ザッカートは機嫌良く眺めていた。
「謙遜などせんでもよい。しかし、お前はよくあれだけの手勢で、手際よく脱獄の手引きをできたものだ。お前の連れてきた連中は一体何者なのだ?」
「街の傭兵でございます、閣下」
「ほぉ、まだヒスタリクにはそんな有能な傭兵がいたのか。どこで見つけたのだ」
ザッカートは、興味深そうにジャクメルに問うた。ジャクメルは、表情を一切顔に出さず、すました──穏やかな湖面の様な──面持ちで答えた。
「ヒスタリクのどの街であっても、あの者達の様な傭兵は見つかりましょう」
その言葉は、明らかにヒスタリクを賛美するものであった。それを聞いたザッカートは、ますます眼前の若者に対して興味と好感をもった。
窓からは夜風が吹き込み、それに乗って兵士達の歌声が響いてくる。その声は晴れやかで、恐れを知らぬ者達の心の雄叫びの様であった。
「兵士どもが騒いでおるわ」
ザッカートは、椅子から立ち上がると、酒を片手に窓の際に立った。そんなザッカートの姿を下から見た兵士達は、自分達も振る舞われた酒を手にし、
「指令官の帰還万歳! ヒスタリクに栄光あれ!」
と口々に叫んでいた。
ザッカートは、そんな彼らの呼びかけに、片手を振って答えると、手にした酒をゆっくりと窓から下にこぼした。こぼれ落ちる酒は、松明の明かりに照らされて赤々と輝き、鮮血の様なみずみずしさを振りまきながら、砦の内堀の中に、落ちていった。
「閣下、そろそろお休みになられては……」
陰々と篭もった声が、部屋の中に響いた。チェンライの声である。
チェンライは、ずっとザッカートと共に指令官室にいた。だが、濃い灰色をしたローブを身につけた、小柄で痩せ細った男は、その存在感を全く他に感じさせることはなかった。顔を覆うローブでその表情は知ることが出来ず、不気味な雰囲気だけを全身に漂わせていた。
純白の鎧を身につけているジャクメルに対し、灰色のローブのチェンライは対照的で、その存在そのものも、明道を行くジャクメル、闇道を行くチェンライ、と言った印象を周囲に与えていた。
ザッカートは、チェンライの言葉を聞くと、さっと振り返り、再び元のように椅子に座った。そして、手にしている空のグラスに半分だけ酒を注ぐと、一気に飲み干した。
「ジャクメル小騎兵。お前はよくしてくれた。これに対しては、きっと何かの形で報いてやろう。今日はもう、休むがいい。お前専用の部屋も用意させた。
しばらくはこの砦に滞在するがいい。特に本国からの命令がないのであれば、このままわしの部下として使ってやってもよい」
ザッカート顔は、酔いのためほのかに赤くなっていた。
「もったいないお言葉でございます、閣下。わたくしは、閣下のためならどの様なことでもいたしましょう」
「そうか。ならば、明日にでも砦の連中と顔合わせをするか」
ザッカートは、大声で笑いながら言った。そばで聞いていたチェンライは何も言わず、ただ、石像か何かのように黙って部屋の隅に控えていた。
ジャクメルは、そのチェンライの隠れたローブの下に赤い目の輝きを感じたような気がした。だが、それは調べられようはずもなく、ジャクメルは気のせいにする他はなかった。
「では閣下。お先に失礼いたします」
ジャクメルは、深々と頭を下げると、体を返し部屋から静かに出ていった。そんな彼の後ろ姿を、ザッカートは頼もしそうに見つめ、そして再びグラスに酒を注いだ。
「閣下──」
ジャクメルが出ていってからしばらくすると、チェンライは部屋の隅から言葉を発した。
「なんだチェンライ。わしはもう寝るぞ」
ザッカートは、半分虚ろな様子で答えた。そんなザッカートの様子にチェンライは、抑揚のない声で言葉を続けた。
「ジャクメル小騎兵の連れてきた傭兵達に、諜者が混じっているとの噂がございますが……」
チェンライは、低く呟くように言った。ザッカートは、怪訝な表情でチェンライの方を向くと、面倒くさそうに言った。
「それがどうかしたのか」
「もし諜者が混じっていたとすれば、コッドの砦は内部から陥落させられる恐れがあるかと……」
「では、お前は奴ら全員を皆殺しにしろとでも言うのか」
ザッカートは、副官である魔術士に口調を強めて言った。
「そこまでとは申しませんが。用心をするにこしたことはないかと……」
チェンライは、ザッカートの言葉を軽く反らすように言った。
「用心することによって、これから伸びる若者の芽を摘んでしまうことはあるまい」
「はっ……」
陰気な魔術士は、そのまま再び沈黙の状態に入った。ザッカートは、チェンライを残して部屋からそのまま出ていった。
部屋にただ一人残ったチェンライは、その不吉な姿を、じっと部屋の片隅にとどめていた。
祝杯の酒は赤く輝き、やがて流れるであろう鮮血の色を予感させる──




