第10話 追憶の欠片
ヴィランが、モンカル修道院からの客と会って、数日が過ぎた。ヴィランは、男に連れられて、アルベラの貴族の別荘群に向かう途中であった。
男はヴィランに馬車に乗るよう言った。だが、ヴィランは、「馬車の様な軟弱なものに乗れるか!」と言い張り、結局馬で行くことになったのである。
秋のはじめのやや暖かい日差しは、そばの湖に降り注ぎ、彼らの馬は、湖沿いの美しい所を進んでいた。馬上から見える、風景は絶妙と言えた。
緑の木々に囲まれた大きな深い青をした湖には、白鳥が数羽と白い船が一隻浮かんでいた。
湖の周りには、ラヴァウインドの貴族達がこぞってその別荘を立てていた。だが、それだからといって、周りの雰囲気が崩されることもなく、辺りの風景と別荘は、うまい具合にバランスを保っていた。
ヴィラン達の乗った馬は、そんな貴族の別荘群の一つの前で立ち止まった。
そこには、貴族の名称の書かれた看板は今はなく、ただ名前の削り取られた銅製の扉が、目の前にいるヴィラン達を静かに見守っていた。
男は、その扉の鍵を開けると、館の中に入っていった。
館の中は、静かだった。綺麗に掃除された通路は、いかにも貴族が好みそうな様子だった。だが、辺りには一つも家具や、装飾品はなく、ただ作られたばかりの新しい館と同じであった。
今は、誰も訪れることのない、時に見捨てられた館……
ヴィランは、かつて自分が住んでいた、その館にそんな感情を抱いた。
男は、通路をどんどん歩いて行き、元は客室であろう所で立ち止まり、その扉を開いた。
部屋の中には、唯一家具が置かれていた。中央のテーブルには、白いテーブルクロスがかけられ、そのテーブルを挟むように長いソファーが二つ。明らかに、誰かがここを訪れる者のために用意したものだった。
テーブルの上には、アルベラの湖に咲くハルッシュの花が生けられ、その甘い芳香が、開け放たれた窓から吹き込む風によって、辺りを漂っていた。
男は、ヴィランをソファーに座らせると、部屋から出ていった。リューベック兄妹は、館の外でヴィラン達を待っていた。
ヴィランはただ一人、静かな、誰も訪れることのない館の客室に残された。辺りを見回すヴィランの脳裏には、かつての自分の姿が甦ってきた。
「兄様ぁ、兄様ぁ」
少女の、泣きそうな声が辺りに響いた。豪華な廊下には無感情な銅像が立てられ、壁には、有名な画家が描いたであろう、アルベラの風景画が掛けられている。
少女は、まだ四才か五才ほどであった。赤い、可愛らしい服を身につけ、少し伸びたばかりの髪には、服と同じ赤いリボンがつけられていた。
少女の泣きすぎたその顔は、赤く腫れ、服の袖は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
「兄様ぁ、兄様ぁぁぁ」
少女の声は次第に大きくなっていった。しかし、周りの銅像は何も答えることはなく、ただ静かに、泣く少女を見おろしていた。
少女は、泣きながら歩いていた。少女が廊下を進んで行くと、少し開いた扉があった。
少女は、扉に近づくと、一生懸命背伸びをして扉のノブを掴もうとした。しかし、後少し、そんな所で少女の手はとどかなかった。
少女は、その場に座り込むと、ただ大声を上げて泣くだけだった。
少女の声が、辺りに響く。
少女は、泣きながら、兄の名前を鳴き叫び続けていた。
「兄様ぁ、ライ兄様ぁ」
少女が鳴き叫んでいると、扉が内側から大きく開かれた。
中から、太陽の光が廊下を明るく照らす。
少女は、部屋の中を見た。
光を背に、十才くらいの少年が立っていた。
少女と同じ黒髪は、太陽の光に照らされ、輝いていた。
少女は、少年の顔を見ると、立ち上がって少年の胸に飛び込んだ。
「ライ兄様ぁ、兄様ぁ」
少女は、少年に抱き抱えられて泣いていた。少年は、少女の頭を優しく撫でながら微笑んでいた。
少年の、優しげな瞳の奥には、生き生きとした輝きを宿し、体つきは、健康な少年のそれだった。
「ごめんよ、エル。そんなに恐かったのかい?」
「うん。でも、いまは兄様がいるから、もう大丈夫」
少女は、泣きやんで、今では笑っていた。
少年は、少女と手を結び、その部屋から出ようとしたとき、扉から誰かが入ってきた。
「とうさま!」
少年は、そう叫んだ。男は、穏やかに微笑みながらしゃがみこみ、兄妹達を太く立派な腕で抱えた。
「ライヒスウィック。あまりエミュールをいじめてはだめだぞ」
「はい、とうさま」
少年は、少しはにかみながら微笑んだ。少女は、入ってきた男に抱きつくと、ただじっと、片手は少年の手を、もう片方は男の手を握っていた。
男は、少女を肩車すると、少年を横に連れて部屋から出ていった。
廊下からは、少年と少女の楽しげな笑い声が響いてくる……
(エミュール……その名は、もはや思い出すことはないと思っていたが……
ライ兄様。そう兄様もわたしがこの館から連れ出されたとき、かあさまに連れられて、この館を出たんだったな。今でも生きているだろうか……
この部屋はあの時、兄様がいた部屋だ……
何も変わっていない、変わったのはわたしの方だ……)
ヴィランは、過去と現在の狭間を漂っていた。
いつの間にか入ってきた男は、じっと部屋の隅でヴィランの様子を見ていた。
ヴィランが、現実に呼び戻されたのは、ばたばたと廊下を人が走る音を聞いたときだった。
バタンと扉を急に開ける音がしたと思うと、リューベックが息を切らせながら、走って入ってきた。
「何事じゃリューベック! わたしが、今はどういう状況にいるか分かっておるのか!」
「それが、ヴィラン様。大変なことが起きました」
「だから、なんじゃと言うのだ」
ヴィランは、自分の世界から急に連れ戻されたことで、少し機嫌を悪くしていた。
リューベックは、ヴィランのそばに近づき耳元で何かを告げた。
ヴィランの表情が、すこし厳しくなった。
「なんじゃと、皇母の暗殺未遂事件が起きたじゃと……」
「はっ。ただ今到着した使者が、至急ヴィラン公にリザルト=レイヴンにお戻りあるよう、そう申しております」
「そうか、分かった」
ヴィランは、立ち上がると、そのまま部屋を出て行こうとした。
「お待ち下され、ヴィラン様。今帰られては、お父上に……」
「それは、また別の機会にする。今はそれどころではない」
「しかし……」
「くどい!」
ヴィランは、一喝すると、そのままリューベックと共に廊下を駆け出した。
開け放たれた窓から、馬のいななきが聞こえ、数頭の馬が館を離れた。その中にはヴィランの姿もあった。
男は、ただ呆然と部屋の隅で立っていた。そんな男の後ろから、肩に手をおく者がいた。
「仕方があるまい。ルマーク」
「そうですね旦那様。エミュール様は、風のようなお方。決してわたくしには、おとどめすることができません」
「しかし、今の時期にあの子をここに呼んだのが正解であった。恐らく、これは皇母暗殺未遂事件ではなく、あの子を暗殺しようとする、フィリッツグールの仕組んだものであろうな」
(エミュール……いや、ヴィラン公。決して死ぬな……)
辺りは、誰もいないアルベラの静寂に包まれ、館にいた二人の男は、館から出ると、そのままヴィランと同じくリザルト=レイヴンに向かって馬を走らせた。
開け放たれた窓からは、ハルッシュの花びらが数枚、外の湖に舞い降りた。
過ぎ去った記憶は、何事もなかったかのように胸を離れた──




