第九話 あなたの色だけ、視えない
旅装の男は、王都から遣わされた伝令だと名乗った。
中庭に並んだ家人たちが、気まずげに道を空ける。男は慇懃に腰を折ったが、その所作のいちいちに、値踏みするような無遠慮さがにじんでいた。胸に灯る鈍色は、雪の白さのなかで、どこまでも異質だった。
「ヴァレンシュタイン辺境伯閣下。お戻りをお待ち申し上げておりました」男は、なめらかに言った。「王都より、閣下のご動向を案じる声がございましてな。このたび、伯爵家のご令嬢を城へお迎えになったとか。はて、いかなるご事情でございましょう」
「貴様に、答える筋はない」
セオドール様の声は、氷そのものだった。旅のあいだ一度も聞かなかった、拒絶の響き。「私の城で、私が誰を客とするか。王都の誰であれ、口を挟ませはせん。伝えておけ」
「これはこれは。相変わらず、取りつく島もない」男は薄く笑った。その笑みの裏で、鈍色がわずかに黒へ傾く。害意の兆し。「されど閣下。人の縁というものは、思わぬところで繋がっているもの。ご令嬢とて、王都に無縁の身ではございますまい。……どうぞ、お気をつけを」
含みのある言葉を残して、男は去っていった。門をくぐるその背を見送りながら、わたくしは背筋の寒さを覚えた。ご令嬢とて、王都に無縁ではない。あれは、わたくしのことを言っていた。まるで、わたくしがこの城に来ることを、はじめから知っていたかのように。
ユリウス様の、あの言葉がよみがえる。上の意向。詮索するな。
王都の誰かが、わたくしを見ている。生家を出るあの朝、霧のなかから見張っていた、紋のない馬車。あれも、この男と同じ色をしていたのだろうか。
「気にするな」
セオドール様の声に、わたくしは我に返った。彼は、こちらを見ずに言った。
「あの手の者は、昔から、うるさく飛び回っている。君が煩わされることは、私がさせない」
短い言葉だった。けれど、そこには確かな重みがあった。守る、と言われたわけではない。それでも、そう聞こえた。
その夜、わたくしは城の一室で、セオドール様と向かい合った。
後見の正式な取り決めのためだった。羊皮紙に、身柄の預かりや暮らしの条件が記されている。暖炉では薪が低く燃え、部屋には松脂と、古い石の匂いが満ちていた。セオドール様が、包帯を巻いた腕で、羊皮紙を卓に滑らせる。
事務的な言葉を交わしながら、わたくしは幾度も、彼を視ようとした。
昼間、あの伝令には、あれほどくっきりと鈍色が灯っていた。村の人々にも、金や青が満ちていた。人の心は、いつだって色になって、わたくしの目に映る。
なのに、この人だけが。
目の前の、命を懸けてわたくしを庇い、腕に傷まで負ったこの人だけが、どれだけ視ようとしても、色の一片も灯さない。無色でもない。ユリウス様の空虚な透明とは、まるで違う。そこだけ、世界に穴が空いているように、何も、ない。
こんなことは、生まれて初めてだった。八年間、わたくしはこの目を頼りに、人の本心を見極めて生きてきた。誰が偽り、誰が本物か。色さえ視えれば、傷つく前に身を守れた。だからこそ、色の視えない相手は、暗闇に立つ人影のように、得体が知れなかった。
けれど、と思う。得体が知れないはずのこの人は、峠でわたくしの盾になった。腕を斬られてまで。色では説明のつかないその行いだけが、わたくしの中に、確かな重みとして残っている。信じたいのに、確かめる術がない。そのもどかしさが、胸の奥で、ちりちりと疼いた。
「……あの」わたくしは、羊皮紙から顔を上げた。「不躾なことを、伺ってもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「セオドール様は」声が、わずかに震えた。「わたくしのことを、どう思っていらっしゃるのですか」
言ってしまってから、頬が熱くなった。そういう意味ではない、と慌てて付け足そうとして、うまく言葉が出てこない。けれど、確かめずにはいられなかった。この人が、わたくしをどんな想いで庇い、この城へ連れてきたのか。
いつもなら、視ればわかる。相手の胸を見れば、憐れみか、下心か、義務か、一目で。
けれど、この人の色は、視えないのだ。
「あなたのお心の色だけ、どうしても、視えないのです」
口をついて出ていた。母の遺言も、隠し通してきた秘密も、忘れて。「生まれてから、どんな人の想いも視えてきました。それが、あなたのことだけ、なにも」
セオドール様の手が、羊皮紙の上で止まった。
彼は、しばらく黙っていた。暖炉の薪が、ぱちりとはぜる。灰青の目が、まっすぐにわたくしを見ていた。驚いた様子でも、訝しむ様子でもない。まるで、その言葉の意味を、はじめから知っていたかのような、静かな目だった。
「……視えなくていい」
やがて、彼は低く、それだけを言った。
「視えないほうが、いいこともある。君は、視えるものに縛られすぎている」
どういう意味だろう。問い返そうとしたけれど、セオドール様はもう立ち上がり、燭台を手に取っていた。それ以上は、語ってくれそうになかった。
私室に戻っても、わたくしは眠れなかった。
視えなくていい。あの人は、なぜあんなことを言ったのだろう。まるで、自分の色が視えない理由を、知っているかのようだった。
「お嬢様」寝支度を手伝いながら、ネルが声をひそめた。「昼間の、あの王都の男。城の者に聞いたんですけど、ああいう手合いが、この一年、たびたび城の周りをうろついているそうですよ。辺境伯様を、探るみたいに」
この一年。わたくしがこの城に来る、ずっと前から。それは、わたくしのせいで始まったことではない。けれど、あの伝令の含み笑いは、まるでその二つを、一本の糸で結んでみせるかのようだった。
窓の外では、また雪が降り始めていた。色の視えない人。その心を知る手がかりは、どこにもない。そして、王都から伸びる、正体の知れない影。
わたくしは、この静かな城で、ふたつの謎に囲まれていた。あの人の視えない色と、わたくしを見張る、顔のない誰かの色と。
視えなくていい、とあの人は言った。けれど、視えないからこそ、わたくしは知りたかった。あの背中が、なぜわたくしを庇ったのか。あの静かな目の奥に、何があるのか。生まれて初めて、わたくしは、視えない誰かの心を、この目以外の何かで知りたいと願っていた。
雪が、音もなく降り積もっていく。長い冬の、始まりだった。




