第十話 氷の城の朝
辺境の朝は、骨まで凍るような寒さで始まった。
目を覚ますと、窓の硝子に霜が羊歯の葉の模様を描いていた。暖炉の火はとうに落ちている。わたくしは肩掛けを羽織り、白い息を吐きながら、廊下へ出た。城の石壁は、王都の屋敷とは比べものにならないほど冷える。足の裏から、氷のような冷たさが這い上がってきた。
人けのない廊下を、灯りを探して歩く。その角を曲がったところで、わたくしは足を止めた。
窓辺の長椅子に、一枚の毛皮が畳んで置かれている。その上に、一言だけ書かれた紙片が添えられていた。「冷える。使え」。飾りけのない、無骨な字だった。
誰が置いたのかは、確かめるまでもなかった。
あの人は、こうなのだ。旅のあいだも、そうだった。言葉は氷のように短く、けれど、しておくべきことは、頼まれる前に、いつの間にか済ませてある。恩着せがましさが、まるでない。だから気づくのが遅れる。気づいたときには、もう温められている。
わたくしは毛皮を肩にかけた。羊の匂いと、かすかに、あの人の外套と同じ、鉄と焚き火の匂いがした。じんわりと、冷えた肩に熱が戻ってくる。誰も見ていない廊下で、たった一人のために置かれた毛皮。それがなぜか、豪奢な贈り物よりも、ずっと胸に沁みた。
食堂へ行くと、セオドール様はもう席についていた。
「おはようございます」
「ああ」彼は、短く応じただけだった。「よく眠れたか」
「おかげさまで。……毛皮を、ありがとうございました」
セオドール様は、一瞬、手を止めた。それから、何も言わずに、また匙を動かし始める。礼を言われるのが、どうにも据わりが悪いらしい。その不器用な沈黙が、なぜだか少しおかしくて、わたくしは口もとがゆるむのを、こらえた。
食卓には、素朴な料理が並んでいた。黒パンと、湯気の立つ麦の粥、それに乾酪。王都の朝食のような彩りはない。けれど、粥は熱く、乾酪は塩気が利いていて、体の芯から温まった。
「この土地の食事は、質素だ」セオドール様が、ぽつりと言った。まるで、詫びるように。「口に、合わないかもしれん」
「いいえ」わたくしは首を振った。「温かいものをいただくのは、久しぶりですわ」
王都の屋敷では、いつも冷めた食事を、部屋の隅でひとり摂っていた。義母やミレイユと同じ食卓につくことは、めったになかったから。それに比べれば、この黒パンの、噛むほどに滲む素朴な甘さは、ずっと豊かだった。
セオドール様は、それきり何も言わなかった。けれど、わたくしが二杯目の粥を頼んだとき、その口もとが、ほんのわずかに、やわらいだような気がした。色は視えない。それでも、そんな小さな変化を、わたくしは必死に、目で追っていた。この人を知る手がかりは、色ではなく、そういう、ささやかな仕草の中にしかないのだから。
「昼は、城の者に案内させる」食事を終えると、セオドール様は席を立った。「好きに見て回れ。書庫でも、庭でも。……ただ、東の塔にだけは、近づかんでくれ」
「東の塔?」
「古い場所だ。床が傷んでいる。危ない」
それだけ言い置いて、彼は執務へ向かった。背を追いながら、わたくしは、そのぶっきらぼうな気遣いのなかに、ひとつだけ、妙に硬い響きが混じったのを聞き逃さなかった。東の塔。危ないから、というだけの声音ではなかった気がする。けれど、深く問うのは、まだためらわれた。この城に来て、まだ一日しか経っていないのだから。
食後、わたくしはネルと城の中を歩いた。
古い城だった。壁には、色あせた武具や、歴代の当主のものらしい肖像が掛かっている。どの肖像も、セオドール様に似た、峻厳な面持ちの武人たちだった。長い廊下には、蝋燭の煤の匂いと、古い羊皮紙の匂いが、かすかに漂っている。歩くたび、板張りの床が、ぎしりと低く鳴った。すれ違う使用人たちは、みな一様に、わたくしへ物珍しげな視線を向けたが、その胸に灯る色に、悪意はなかった。戸惑いと、かすかな好奇。そして、この城の主への、揺るぎない信頼。
「みんな、辺境伯様のことが好きなんですねえ」ネルが、感心したように言った。「あんなに無愛想なのに」
「ええ」わたくしは頷いた。「不思議なくらい」
冷酷な氷の辺境伯、という王都の噂は、この城のどこにも見当たらなかった。あるのは、寡黙だが領民に慕われる、一人の領主の姿だけ。噂を流したのは、誰なのだろう。ふと、昨日の伝令の、鈍色の笑みが頭をよぎった。
中庭に面した回廊にさしかかると、一人の老人が、こちらへ丁寧に腰を折った。白い髭をたくわえ、古い執事服をきちんと着込んだ、品のある老人だった。
「レイフェルト様。お初にお目にかかります。当城の家令を務めます、ガロンと申します」
その胸には、穏やかな若草色が灯っていた。労りと、それから、なぜか、わたくしを見つめる目に、ほんのわずかな懐かしさのような色が混じっている。初めて会うはずなのに。
「どうぞ、なんなりとお申しつけを」ガロンは、丁重に言った。「当城のことでご不明な点があれば、私がお答えいたします。この城には、少々、込み入った来歴もございますのでな」
込み入った来歴。その言葉に、わたくしは引っかかりを覚えた。
「来歴、と申しますと?」
「はて。私のような老いぼれの、繰り言でございますよ」ガロンは、穏やかに目を細めた。「ただ、これだけは申し上げておきましょう。あなた様がこの城へおいでになったのは、辺境伯様の、ただの気まぐれではございません。……いずれ、おわかりになる日が来ましょう」
その声には、思わせぶりな企みの色はなかった。ただ、澄んだ青と、深い労りだけが灯っている。だからこそ、その言葉は重かった。ただの気まぐれではない。では、なぜセオドール様は、会ったこともないわたくしを、はるばる辺境へ連れてきたのか。「理由はいずれ話す」と、あの人は言った。その理由を、この老家令は、すでに知っているのだろうか。
問い返そうとしたけれど、折よく若い使用人が呼びに来て、ガロンは丁重に一礼して去っていった。残されたわたくしの胸に、その一言だけが、小さな棘のように刺さって残った。
あの人の視えない色。王都から伸びる影。そして、この古城が抱えるという、込み入った来歴。
わたくしの知らない何かが、この城には、静かに眠っているらしかった。




