第十一話 閉ざした理由
城での日々は、静かに過ぎていった。
朝は凍える廊下を抜けて食堂へ行き、素朴な粥をいただく。昼は書庫で古い書物を繰り、あるいは城下を歩いて、人々の交わす色を眺める。夜は暖炉のそばで、ネルと他愛のない話をする。王都にいたころのような、値踏みと嘲笑の視線は、どこにもなかった。息を、深く吸える。そんな暮らしは、生まれて初めてだった。
けれど、ひとつだけ、変わらないものがあった。
セオドール様の色は、あいかわらず視えなかった。毎朝の挨拶を交わすたび、廊下ですれ違うたび、わたくしは癖のように彼を視た。そして、そのたびに、視えないという事実を、あらためて突きつけられた。慣れることは、なかった。むしろ、日を追うごとに、その一点だけが、胸の奥で疼くようになっていた。
ある午後、書庫でガロンと二人になった。
わたくしが古い地誌を読んでいると、暖炉に薪をくべに来たガロンが、ふと手を止めて言った。
「セオドール様は、この一年ほど、王都へ足をお運びになりません」
脈絡のない言葉だった。けれど、その声には、何かを伝えようとする静かな意図があった。
「以前は、そうではなかったのですか」
「ええ。若いころは、宮廷にも顔を出しておいででした。武勲を上げ、将来を嘱望されて。……ですが、あるときを境に、ぱたりと。まるで、都という場所そのものを、避けるようになられた」
あるときを境に。ガロンの胸に灯る若草が、わずかに翳った。労りの色の底に、古い痛みのようなものがにじむ。
「何が、あったのですか」
わたくしは、つい問うていた。けれどガロンは、暖炉の火を見つめたまま、静かに首を振った。
「それを申し上げるのは、私の役目ではございません。いつか、セオドール様ご自身が、あなた様にお話しになる日が来ましょう。……あの方が、それを望まれるなら」
あの方が、望まれるなら。まるで、セオドール様がわたくしに心を開くことを、この老家令が待ち望んでいるかのような口ぶりだった。初めて会ったはずのわたくしに、なぜ、これほど。
「ガロン」わたくしは、思いきって尋ねた。「あなたは、なぜ、そんなにわたくしに親切にしてくださるの? 初めてお会いしたのに、まるで、ずっと前から知っていたかのように」
ガロンの手が、止まった。皺の刻まれた横顔に、一瞬、何とも言えない色がよぎる。懐かしさと、それから、こらえるような何か。
「……よく、似ておいでなのですよ」
やがて、ぽつりと、そう言った。
「どなたに、でしょう」
「いいえ」ガロンは、いつもの穏やかな微笑に戻っていた。「老いぼれの、世迷い言でございます。お忘れください」
それきり、彼は口を閉ざしてしまった。けれど、その一言は、また新しい棘となって、胸に残った。よく似ている。わたくしは、誰に似ているというのだろう。
書庫の壁には、古い肖像が幾枚も掛かっていた。歴代の当主たち。その端に、ひときわ古い一枚があった。武人ではない、女の肖像。淡い色の髪に、静かな瞳。時代がかった衣装をまとい、胸もとに、見慣れぬ紋様の護符を提げている。誰なのか、名を記した銘板はなかった。ただ、その女のまなざしが、なぜか、鏡で見慣れた自分の目に、どこか似ている気がして、わたくしはしばらく、その絵の前から動けなかった。
気のせいだろうか。それとも。
問いかけようとしたときには、ガロンはもう、書庫を出ていったあとだった。
書庫を出て、中庭に面した回廊を歩く。
雪はやみ、雲の切れ間から、弱い冬の陽が差していた。中庭では、セオドール様が、若い兵たちに剣を教えている。負傷した左腕は、もう吊っていない。低く指示を出し、時に手本を見せるその姿は、無駄がなく、美しかった。兵たちが彼へ向ける色は、畏敬と、信頼の青。
わたくしは、柱の陰から、その姿を見つめた。
剣の稽古を終えた兵の一人が、わたくしに気づいて会釈した。まだ少年の面影を残す、そばかすの若い兵だ。
「客人様も、領主様の剣がお珍しいですか」彼は、誇らしげに笑った。「うちの領主様は、北一番の剣士なんですよ。三年前の魔獣討伐じゃ、たった一人で群れの主を仕留めなさった。おれたちみんな、命を救われたんです」
「まあ、そんなに」
「無口で、とっつきにくい方ですけどね。でも、いざってときに、いちばん前に立つのは、いつだって領主様なんです」若い兵は、声を落とした。「都じゃ、冷酷だのなんだの言われてるらしいですけど。ここじゃ、誰もそんなこと思っちゃいません」
その胸に灯る色は、まっすぐな敬意の青だった。飾りのない、本物の。わたくしは、胸の奥があたたかくなるのを覚えた。この土地の人々は、色を視ずとも、あの人の本当の姿を、ちゃんと知っている。
少年兵が去ったあと、わたくしはまた、稽古する背へ目を戻した。
領民に慕われ、家人に信じられ、部下に敬われる人。冷酷などと、いったい誰が言ったのだろう。この人の何が、都の噂を、あんなにも歪めたのだろう。そして、この人は、都で何を経験して、心を閉ざしたのだろう。
問いばかりが、増えていく。この人を知りたいと思うほど、視えない色が、遠く感じられた。
そのとき、ふいにセオドール様が、剣を止めて、こちらを振り返った。柱の陰に隠れていたつもりだったのに、気づかれていたらしい。灰青の目が、まっすぐわたくしを捉える。わたくしは、盗み見ていた恥ずかしさに、思わず柱の陰へ身を引いた。
胸が、妙に速く鳴っていた。頬が、火照っている。冬の陽のせいだと、自分に言い聞かせながら。
その夜、寝支度の最中に、わたくしはネルに、昼間の肖像のことを話した。
「書庫に、女の方の古い肖像があったの。護符を提げた、髪の淡い方。なぜだか、わたくしに似ている気がして」
「へえ。この城のご先祖様の、どなたかでしょうか」ネルは、櫛を動かしながら首をかしげた。「でも、妙な話ですねえ。よそのお家のご先祖様に、お嬢様が似てるだなんて」
妙な話。ほんとうに、そのとおりだった。会ったこともないヴァレンシュタイン家の古い女に、なぜわたくしが似ているのか。ガロンの「よく似ておいでだ」という言葉。ただの気まぐれではない、という後見。この城が抱える、込み入った来歴。
ばらばらだったはずの断片が、ひとつの見えない糸で、少しずつ手繰り寄せられていくような気がした。けれど、その糸の先に何があるのか、まだ見当もつかない。
視えない人。それなのに、目が合っただけで、この胸を騒がせる人。そして、その人の城が抱える、わたくしにまつわるらしい、古い秘密。
わたくしはまだ、その心の名前も、その秘密の正体も、知らずにいた。




