第十二話 色は理由を映さない
その騒ぎは、城の厨房で起きた。
朝、貯蔵庫から、冬を越すための塩漬け肉が、ひと樽まるごと消えていた。厳しい冬を控えた辺境で、蓄えの肉が消えるのは、ただごとではない。厨房の使用人たちが、青ざめて言い争っていた。
「盗んだのは、お前だろう!」
声を荒げているのは、恰幅のいい料理長だった。詰め寄られているのは、まだ年若い下働きの娘。名をリタといった。娘は、真っ青な顔で首を振っている。
「ちがいます、あたしじゃありません!」
「昨夜、貯蔵庫の鍵を持っていたのは、お前だけだ。言い逃れはできんぞ」
わたくしは、通りかかって足を止めた。そして、いつもの癖で、二人を視た。
料理長の胸には、憤りの赤。娘リタの胸には、恐れの色と、それから、澄んだ、濁りのない色だけ。盗みを働いた者の胸に灯る、あの後ろ暗い翳りは、この娘には、どこにも見当たらなかった。
(この娘は、盗んでいない)
色は、そう告げていた。けれど、では誰が盗んだのか。それは、色を視ても、わからない。
「お待ちください」わたくしは、思わず割って入った。「その娘は、盗んでおりません」
厨房が、しんと静まった。料理長が、胡乱げにわたくしを見る。
「客人様。なぜ、そう言い切れるので」
言葉に、詰まった。色が視えるから、とは言えない。証拠を、わたくしは何ひとつ持っていなかった。
「それは……この娘の目を見れば、わかります」
苦しい言い分だった。料理長は、鼻を鳴らした。
「目でわかるなら、苦労はしませんや。鍵を持っていたのはこの娘。それが事実です」
わたくしは、言葉を失った。色は、真実を映す。けれど、それを人に証すことは、できない。心の中で見えている確信が、口にした途端、根拠のない庇い立てに変わってしまう。この目の、なんという無力さ。
リタが、すがるような目でわたくしを見た。信じてくれる人が現れたと思ったのに、その人も、けっきょくは料理長を説き伏せられない。娘の恐れの色が、いっそう濃くなる。それを視ながら、何もできない自分が、ひどく歯がゆかった。
王都にいたころは、色が視えることを、ただ疎ましく思っていた。偽りばかりが目に入り、人を信じられなくなるから。けれど今、初めて逆のことを思った。視えているのに、救えない。真実を知っているのに、それを人と分かち合えない。この孤独もまた、この目のもたらすものなのだ。
わたくしは、なんとかリタの潔白を示そうと焦った。
「昨夜、貯蔵庫に近づいた者は、ほかにいなかったのですか。誰か、鍵を持ち出せる者が」
「いませんや。鍵は一本きり。リタが夜通し、腰に下げていた」
ならば、と口走りかけて、わたくしは足をすくわれた。鍵が一本で、それをこの娘が持っていたなら、色がどうあれ、状況はリタに不利だ。わたくしは、色という確信だけで突き進み、肝心の「どうやって盗まれたか」を、まるで考えていなかった。
言い募るほど、料理長の赤は濃くなり、リタの恐れは深まる。わたくしの善意は、空回りして、かえって場をこじれさせていた。
そのとき、低い声が、厨房の入り口から響いた。
「何の騒ぎだ」
セオドール様だった。騒ぎを聞きつけたらしい。彼が現れると、料理長もリタも、いっせいに口を閉ざした。
セオドール様は、まず事情を、順に聞き取っていった。
誰が、いつ、何を見たのか。感情を交えず、ただ事実だけを。わたくしが色で「誰が嘘をついていないか」を見ていたのに対し、彼は「何が起きたか」を、ひとつずつ組み立てていく。
「貯蔵庫の裏手の窓は」やがて、彼は静かに問うた。「先の嵐で、蝶番が緩んでいたな。修理は、済んだか」
料理長の顔色が、変わった。
「い、いえ、まだ、大工の手が回らず」
セオドール様は、無言で貯蔵庫へ向かった。わたくしも、そのあとに続く。薄暗い貯蔵庫は、干し肉と塩の匂いが濃く立ちこめ、天井から吊るされた燻製が、ゆらりと影を落としていた。彼は迷わず裏手の窓へ歩み寄り、その桟をあらためた。外から靴が擦った泥の跡。板の上には、重い樽を引きずったらしい、まっすぐな溝。冷えた外気が、緩んだ隙間から細く吹き込んでいる。
鍵など、はじめから要らなかったのだ。盗人は、この緩んだ窓から忍び込み、樽をそのまま外へ運び出した。リタが夜通し鍵を握っていたことなど、何の意味もなかった。
リタの無実が、証された。娘は、へなへなと座り込んで、泣きじゃくった。料理長は、ばつが悪そうに、何度も頭を下げている。
わたくしは、その一部始終を、呆然と見ていた。
わたくしの目は、リタが嘘をついていないことを、最初から知っていた。けれど、その確信を、誰も救えなかった。娘を救ったのは、色ではなく、緩んだ窓の蝶番を覚えていた、あの人の目だった。
「……悔しゅうございます」
人が去った厨房で、わたくしは、つい零した。「わたくしには、あの娘が潔白だと、視えておりましたのに。何の役にも、立てませんでした」
セオドール様は、しばらく黙ってわたくしを見ていた。それから、ぽつりと言った。
「役に、立った」
「え?」
「君が庇わなければ、あの娘は、私が来る前に牢へ入れられていた。君が時を稼いだ。だから、間に合った」
それは、慰めだったのだろうか。彼の色は視えない。けれど、その言葉に、取り繕った響きはなかった。
「君の目は、真実を映す」セオドール様は、静かに続けた。「私の目は、それがどう起きたかを見る。……片方だけでは、足りん。だが、二つ揃えば」
言葉は、そこで途切れた。けれど、その先を、わたくしは聞いた気がした。二つ揃えば、救える。
この人は、わたくしの目を、無力だとは言わなかった。役立たずだとも、気味が悪いとも。ただ、足りない片方を、自分が補うと言った。それだけのことが、どれほど胸に沁みたか、この人は知らないだろう。八年ものあいだ、隠し、恥じ、呪ってきたこの目を、初めて「足りない片方」として、並べて数えてくれた人がいる。
視えない人の、その不器用な言葉が、なぜだか胸の奥を、じんと熱くした。
わたくしは、俯いて、小さく礼を言った。顔を上げれば、この火照りを気取られてしまいそうで。窓の外では、また粉雪が舞い始めていた。厨房に残る薪の煙と、塩と香草の匂いが、やけに優しく感じられた。




