第十三話 王都からの綻び
冬が深まり、城の周りは、見渡すかぎりの雪景色になった。
厨房の一件があってから、城の人々は、わたくしに親しみを見せるようになった。すれ違えば会釈し、時には温かい果実酒を運んでくれる。リタなどは、まるで恩人のように、わたくしの周りをちょろちょろとついて回った。色を視るまでもなく、その心は伝わってきた。居場所というものを、わたくしは生まれて初めて、手にしつつあった。
そんなある日、王都から一通の手紙が届いた。
差出人は、生家に残った、古参の女中だった。義母やミレイユに知られぬよう、こっそり寄越したものらしい。震える字で綴られていたのは、ミレイユとユリウス様の、その後だった。
二人の婚約は、順調には進んでいないという。
ユリウス様は、婚約者となったミレイユを、早くも持て余し始めている。夜会にも連れ立たず、贈り物ひとつ寄越さない。ミレイユは、姉から奪った婚約者に冷たくされ、屋敷でふさぎ込む日が増えている。そう、手紙は伝えていた。
わたくしは、その文面を、二度読んだ。
不思議と、胸は痛まなかった。かつて、あれほど焦がれるふりをした婚約者。あれほど憎らしかった、妹。その二人が綻び始めていると知っても、湧いてくるのは、勝ち誇りでも、憐れみでもなかった。ただ、遠い国の出来事を聞くような、静かな心持ちだけ。
当然だ、とも思った。ユリウス様の胸は、ミレイユへも無色だった。あの夜会で、確かに視た。妹へ向けた、あの濁った打算の色。愛ではないもので結ばれた二人が、うまくいくはずもない。偽りの色は、いつか必ず、こうして綻ぶ。
「お嬢様、大丈夫ですか」ネルが、案じるように覗き込んだ。
「ええ」わたくしは、手紙を畳んだ。「なんだか、もう、遠い昔のことみたい」
それは、強がりではなかった。ほんの数か月前まで、わたくしの世界のすべてだった王都の煌めきが、今は、白い雪の向こうの、色あせた絵のように思えた。わたくしの心は、いつのまにか、この北の城に、根を下ろしていた。
その手紙を、なぜかセオドール様に見られてしまった。
中庭を歩いていたとき、風に手紙を飛ばされ、それを彼が拾ってくれたのだ。差出人の家名に、彼は気づいたようだった。
「……王都からか」
「はい。生家の者からの、便りですわ」わたくしは、手紙を受け取った。「元の婚約者の話です。妹と、うまくいっていないそうで」
セオドール様が、わずかに眉をひそめた。わたくしが傷ついているのではないかと、案じたのかもしれない。
「気に、病んでいるのか」
「いいえ」わたくしは、微笑んだ。「もう、なんとも思っておりませんの。あの方の胸には、初めから、わたくしへの色も、妹への色もありませんでした。愛のない婚約が壊れるのは、雪が春に融けるのと、同じくらい当たり前のことですわ」
言ってから、少し驚いた。自分の口から、こんなに軽やかに、あの過去を語れるとは。
思えば、あの婚約に必死にしがみついていたのは、愛されたかったからだ。無色の胸だとわかっていながら、いつかそこに、金の灯りがともるのを、心のどこかで待っていた。誰にも本当に想われたことのない娘の、みじめな願い。けれど今は、そんな自分を、遠くから眺めるように振り返ることができる。
「妹のミレイユも、いずれ気づくでしょう」わたくしは、雪の彼方へ目をやった。「奪ったものが、初めから空っぽだったと。それは、少しだけ、憐れなことですけれど」
「憐れむのか。君を、あんな目に遭わせた相手を」
「ええ。だって、あの人たちは、本物の色を、一度も視られないのですもの。何が偽物かも、わからないまま生きていくのだわ」
それは、この目を持つわたくしにしか言えない、ささやかな哀れみだった。
セオドール様は、しばらくわたくしを見つめていた。それから、ぽつりと言った。
「……君は、強いな」
「強くなど、ございませんわ」わたくしは首を振った。「ただ、ここが、あたたかいから。それだけです」
言ってしまってから、頬が熱くなった。ここが、というのは、この城が。そして、この城の主が。そう聞こえてしまわないかと、慌てて俯く。
セオドール様は、何も言わなかった。ただ、雪を踏むわたくしの歩幅に、さりげなく自分の歩調を合わせて、隣を歩いてくれた。冷たい風が吹くと、風上に立つ位置へ、いつのまにか変わっている。言葉はない。けれど、その気遣いのひとつひとつが、色よりも雄弁に、何かを語っている気がした。
その言葉に、セオドール様は、しばらく答えなかった。ただ、隣を歩く彼の沈黙が、いつもより深く、何かを考え込んでいるように感じられた。この人にも、色の視えない痛みが、わかるのだろうか。ふと、そんな気がした。根拠はない。ただ、都を避け、心を閉ざしたというこの人の背に、わたくしと似た、孤独の匂いを嗅いだ気がしただけ。
その夜、城に、一人の客が訪れた。
立派な馬車と、物々しい供回りを従えた、身分の高そうな男だった。城じゅうが、にわかに張りつめる。ガロンが、めずらしく緊張した面持ちで、その来訪を告げに来た。
「レイフェルト様。お耳に入れておきます」ガロンの声は、低かった。「王都より、宰相閣下の名代を名乗る御方が、おいでになりました。ご用向きは、あなた様のことだと」
宰相の、名代。
窓の外、雪明かりの中に止まった馬車の紋章を、わたくしは見つめた。あの、生家を発つ朝に見た、紋のない馬車。城に現れた、鈍色の伝令。それらの正体が、いま、はっきりとした姿をとって、この城の門をくぐってきたのだ。
ヴォスラー侯爵。それが、宰相の名だと、ガロンは告げた。王国の実権を握る、王家に次ぐ権力者。その名代が、わざわざこの北の果てまで、わたくしを訪ねてきた。ただの令嬢、しかも婚約を破棄された、なんの後ろ盾もない娘を。
なぜ。問いは、氷の礫のように、次々と胸を打った。婚約を仕組んだという「上の意向」。生家を発つ朝の、見張る影。この一年、城を探っていたという手合い。すべてが、この宰相という一点へ、糸のように手繰り寄せられていく。
わたくしは、いったい、何に狙われているのだろう。
廊下の向こうから、セオドール様の足音が近づいてくる。その足音が、いつになく速く、そして固いことに、わたくしは気づいていた。




